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日本画と西洋画との邂逅(その五) [日本画と西洋画]

(その五)「二人の能登・堺の等伯」(「長谷川信春=等白=等伯」と「高山右近=南坊等伯」)と「二人の江戸のダ・ヴィンチ」(「平賀源内」と「司馬江漢」)など

大徳寺三門天井画(等伯).jpg

「大徳寺三門天井画・『蟠龍図』(長谷川等白(等伯)筆)」 天正十七年(一五八九) 京都・大徳寺
https://media.thisisgallery.com/20229664

「蟠龍(ばんりゅう)」図とは、「とぐろを巻いた龍のこと。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍」図で、長谷川等白(等伯)筆に成る「大徳寺三門天井画」には、この他に、その北側に「雲龍」図(「蟠龍」図の北側)、それら続けて「昇龍」図(西側天井図)と「降龍」図(東側天井図)、それらの脇に、「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)とが描かれている。
それらに付け加えて、「降龍」図(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)との間の「柱」に「阿形仁王像」、そして、「昇龍」図(西側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)との間の「柱」に「吽形仁王像」とが描かれている。
これらの全容は、『没後400年 特別展「長谷川等伯」展図録(「毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション刊」)』 の、「参考図版解説 大徳寺三門壁画」の解説に詳しい。これらの大徳寺三門壁画」周辺と「長谷川等伯・年表」を、「ウィキペディア」で抜粋すると、次のとおりとなる。

【  大徳寺三門天井画・柱絵(京都・大徳寺)
 天正17年(1589年)板絵著色。内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦 陵頻伽像」を一体ずつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの絵画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。 

   中央画壇での活躍
 天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。 
 天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。
 この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。

   年表
天文8年(1539年) - 能登国七尾に生まれる。
永禄6年(1563年) -『日乗上人像』(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
永禄11年(1568年  - 長男・久蔵生まれる。
元亀2年(1571年) - 養父・宗清、養母・妙相没。この年に上洛か。
天正7年(1579年) - 妻・妙浄没。
天正17年(1589年) -『大徳寺山門天井画・柱絵』『山水図襖』(大徳寺蔵)を描く。妙清を後妻に迎える。
文禄2年(1593年) - 『祥雲寺障壁画』(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
慶長4年(1599年) -『仏涅槃図』(本法寺蔵)を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する。
慶長9年(1604年) - 法橋に叙せられる。後妻・妙清没。
慶長10年(1605年) - 法眼に叙せられる。
慶長11年(1606年) - 『龍虎図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
慶長15年(1610年) - 江戸下向到着後、没。享年72。  】

 長谷川等伯が、この「大徳寺三門天井画・柱絵」を制作した「天正十七(一五八九)」は、等伯、五十一歳の時で、この年は、大きな節目の年であった。等伯の生涯は、大きく、次の五期に区分することが出来る。

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/life.htm

能登の時代(33歳頃まで) →  能登の絵仏師「信春」の時代
京都・堺の時代(33歳~50歳頃)→ 上洛・雌伏・転機「信春から等白」の時代  
京都の時代(50歳代)→「狩野派」と二分する「長谷川派」誕生「等白から等伯」の時代
京都の時代(60歳代)→「桃山謳歌」の「等伯・法橋」の時代
京都の時代(70歳~72歳)→「江戸狩野派・探幽の時代」の「等伯・晩年」の時代

「天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山(三)門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである」(「ウィキペディア」)のとおり、「能登の絵仏師・長谷川信春」が、後の「天下の大絵師・長谷川等伯」に脱皮するのは、「京都・堺」を本拠とする「天下の大茶人・千利休」が大きく介在していることが、これらの「長谷川等伯年表」などから浮かび上がってくる。

高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵).jpg

「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」 金沢市有形文化財
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/1/siteibunkazai/2/5972.html

【 キリシタン大名高山長房(通称右近)は、茶人で利休七哲の一人としても知られ、南坊・等伯などと号しました。豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます。
 利家没後、利長に仕え、築城技術の経験をかわれて、金沢城の修築さらに高岡築城に采配を振るい、大聖寺城(山口玄蕃)攻略にも参加しました。その間、娘を前田家重臣横山長知の子康玄に嫁がせましたが、老母と長男を失ってからは、徳川家康のキリシタン禁教で、慶長19年(1614年)正月17日に金沢を去るまでの間、信仰と茶湯三昧の生活を送ったと伝えられています。
 本書状は右近の金沢滞在中の足跡を示すもので、姪の嫁ぎ先でもある特権商人片岡孫兵衛(休庵)に、茶の湯に用いる鶴の羽ほうきが出来たので招待したいと申し入れたものです。

(釈文)
一両日不縣御目
御床布候、仍先日之
鶴之羽はうき御ゆ
い候はゝ、少見申度候
ゆわせ候者今晩参候間
ほんに見せ申度候
かしく
十一月廿六日 等伯(花押)
(封紙ウワ書)
「休庵公御床下 南坊」       】(「金沢市文化財保護課」)

 この「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」の解説のとおり、「豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます」と、「茶人で利休七哲の一人・キリシタン大名高山長房(通称右近)」は、この当時、「長谷川等伯」の生まれ故郷の「金沢・能登」に移住していて、「南坊(みなみのぽう)等伯(とうはく)」の、「金沢・能登」出身の、「長谷川等白」ではなく、「等伯(「天下の大絵師・長谷川等伯」)の、その「等伯」を名乗っている。
 ということは、「高山右近」が「南坊・等伯」を名乗るのは、天正十七年(一五八九)後の、「等白」から「等伯」へと移行した、その翌年(天正十八年=一五九〇)の「狩野永徳」が没した(九月十四日没)年以降の当たりが、一つの目安になるのかも知れない。
 その翌年(天正十九年=一五九一)の二月二十八日に、「千利休」≪大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)≫は、豊臣秀吉の命により自刃させられている。
 これらに関連して、天正十七年(一五八九)に、長谷川等伯は、「千利休・高山右近・小西行長」らに関係の深い「堺」出身の「妙清」を後妻に迎えている(先妻の妙浄は、天正七年=一五七九、等伯四十一歳の時に没している)ことなどから、等伯の「京都・堺の時代(33歳~50歳頃)」に、「千利休」(「高山右近」の「利休七哲」と関連の「キリシタン大名」など)との親交が深くなっていったのかも知れない。

西洋婦人図(伝平賀源内筆).jpg

「西洋婦人図(伝平賀源内筆)」一面 布地油彩 41.4×30.5 款記「源内(?)」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/440276

【 平賀源内(1728~1779)は讃岐の志度に生れ、藩主松平頼恭に御薬坊主として仕えました。宝暦3年(1753)に遊学中の長崎から江戸に上り、田村元雄のもとで本草学を学ぶ。江戸でたびたび物産会や薬品会を開き、その成果を『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』に著しました。石綿、火浣布(かかんぷ)、エレキテルなどをつくり、戯作(げさく)も表すなど、多方面に才能を発揮しました。本図は、安永2年(1773)に阿仁銅山検分のため秋田に赴き、小田野直武や佐竹曙山に洋風画法を伝え、洋風画の理論的指導者と評される源内唯一の油彩画として知られていますが、他に基準作がない源内の真筆とするには慎重な検討が必要です。

来歴:鹿田静七→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「若杉五十八研究」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号)2005 】(「文化遺産オンライン」)

【 「平賀源内の世界」

https://hiragagennai.com/hiragagennai/

平賀源内の一生(抜粋)

享保13(1728)0才  高松藩の小吏白石茂左衛門の3男として讃岐志度浦に生れる。
宝暦2(1752)24才  このころ長崎へ遊学。
宝暦3(1753)25才  備後鞆之津で陶土を見つけ製陶を勧める。(源内生祠)
宝暦5(1755)27才  1月に量程器を、3月には藩の重臣木村季明の求めで磁針器を作製。
宝暦6(1756)28才 3月、大坂を経て江戸へ。渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編む。江戸の本草家田村元雄に入門。
宝暦13(1763)35才  7月『物類品隲』刊。9月、賀茂真淵に入門。11月、平線儀製作。同月、『根南志具佐』『風流志道軒伝』をあいついで刊行。
※明和8(1771)43才  5月、源内『陶器工夫書』を天草代官に提出。このころ「西洋婦人図」を描く?長崎からの帰途小豆島に寄り、大坂に滞在。7月松平頼恭没。郷里志度で、源内焼の陶法を伝える。
※安永2(1773)45才 春、中津川鉄山事業着手。6月、秋田藩に招かれ、鉱山再開発のため秋田へ。秋田藩主佐竹曙山と藩士小田野直武に洋画を伝える。司馬江漢らと親交。
安永3(1774)46才 7月、『里のをだ巻評』『放屁論』刊行。8月、玄白ら『解体新書』刊。
安永8(1779)51才 11月21日ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、小伝馬町の獄中で死す。友人らの手で浅草総泉寺に埋葬された。

平賀源内とは何者か(「発明家・文芸家・陶芸家・画家・本草家・起業・家鉱山家」)

発明家(略)
文芸家(略)

陶芸家
 1 3才の頃、三好喜右衛門に本草学を学んだが、喜右衛門は漢学に造詣が深いのみならず農地開墾・池の造築改修を為し、陶磁器(小原焼)も造ったと言い、それゆえ源内も製陶の知識は早くから備わっていた。
 宝暦3年(1753)長崎遊学の帰途、備後鞆之津(福山市鞆)で陶土を見つけ製陶を勧めた話は今も「源内生祠」(広島県史跡)として残っている。志度村では1738年より製陶(志度焼)が始まっており、製陶に適する土を産する富田村(さぬき市大川町富田)でも理兵衛焼が藩窯を移してきていた。
 源内は長崎で中国・オランダから高価な陶磁器が輸入されるのを見て、また天草深江村の土が製陶に適しているのに気づき、時の幕府天草代官に『陶器工夫書』を提出する。それは優れた天草の陶土を使って、意匠や色釉を工夫すれば立派な陶器が出来、大いに輸出することも可能であり、国益になると進言している。これは取り上げられなかったので、次は郷里の志度で窯を築き天草の土を取り寄せる製陶計画を立てるが、これも実現できなかった。
 しかし今日源内焼と呼ばれる作風を志度の陶工達に指導伝授したと思われる。甥の堺屋源吾(=脇田舜民)、志度焼を始めた赤松弥右衛門の孫の赤松松山、広瀬民山たちである。松山の子の清山、魯仙、孫の陶浜、源吾に指導を受けた三谷林叟(屋島焼)、その子孫などと讃岐の焼物の流れに大きな影響を与えた。
 源内の陶法指導は讃岐にとどまらず、秋田県の阿仁焼、白岩焼、山形県の倉嶋焼にも足跡が残っている。思うに源内は秀でた陶工として一家を成したのではなく、優れた発想と実現させる手法を惜しみなく与えて、自らはもう次のことを考え、挑戦しているようである。

※画家
 『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』巻之六に「蔗(しょ=さとうきび)ヲ軋(きしり)テ漿ヲ取ル図」があり鳩渓山人自画としている。本草学においては真実に近い描写が必要で、『物類品隲』においては 南蘋(なんぴん)派の宋紫石に絵を描かせている。写実的な西洋画に強く惹かれたことは間違い無く、第2回目の長崎遊学の時自らが西洋画を描き、実技を身につけたと思う。それが神戸市博物館蔵の「西洋婦人図」である。 その西洋婦人の襟の青色は西洋の合成顔料=プルシアンブルーで、源内は『物類品隲』の中でベレインブラーウと言って取り上げ、自らも使用し、それが秋田蘭画、更には北斎の富嶽三十六景に使われる青色の先鞭をつけたのである。
 その2年後秋田へ鉱山指導に招かれた折、角館の宿で小田野直武に西洋画の陰影法・遠近法を教える。それがきっかけで小田野直武は江戸に出て『解体新書』の挿絵を描き、西洋画法を身につけ、秋田の地に蘭画が広まるのである。
 秋田藩主佐竹曙山の『画法綱領』と司馬江漢の『西洋画談』が共に源内の弟子であるところの画論から源内のそれも類推される。
 南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである。

本草家(略)
起業家(略)
鉱山家(略)

平賀源内ゆかりの史跡(略)  】

異国風景人物図(司馬江漢筆.jpg

「異国風景人物図(司馬江漢筆)」絹本油彩 各114.9×55.5 双幅 女性図 款記「江漢司馬峻写/Sibasun.」 男性図 款記「江漢司馬峻写/Eerste zonders/in Japan Ko:」 
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/448780

【 司馬江漢(1747-1818)は自らの油彩画について「蝋画(ろうが)」と呼んでいました。その絵具の材料・製法は未詳ですが、油紙や笠などに使われる荏胡麻油を媒剤としたとも言われています。このような絵具は遅くとも十八世紀の前半には知られていて、宝暦7年(1757)年には長崎の絵師が大坂天満宮に油彩画を奉納しています。
 日本の油彩画に関しては、司馬江漢はパイオニアというわけではありませんでしたが、注目すべきは、ヨーロッパの人々が様々な労働にいそしむ姿を主題として扱ったことです。そのモチーフの手本となったのは1694年にアムステルダムで初版が出された『人間の職業』という挿絵本でした。挿図で示された百の職業を譬喩とする訓戒的な詩文集で、その扉絵と、船員の仕事を描いた挿図をもとにして、江漢はこの対幅の男女図を描きました。ヨーロッパ諸国が日本や中国より長い歴史を有し、様々な学問や技術、社会制度を充実させてきたと、江漢は自らの著書などで礼賛してきました。その先進文明を支えているのが、勤勉で有能な国民で、彼らを良き方向に導いてきたのが、『人間の職業』のような訓戒本だと主張しました。男性図に朱字で記された"Eerste Zonders in Japan Ko:"というオランダ語風の記述については「日本における最初のユニークな人物」と解釈されています。

来歴:松田敦朝(二代玄々堂)→吾妻健三郎→堤清六→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007
・神戸市立博物館特別展『異国絵の冒険』図録 2001
・神戸市立博物館特別展『司馬江漢百科事展』図録 1996  】(「文化遺産データベース」)

≪司馬江漢 没年:文政1.10.21(1818.11.19) 生年:延享4(1747)
 江戸後期の洋風画家。江戸生まれ。本名安藤吉次郎,のち土田姓。司馬姓は早くから芝新銭座に居住したことに由来。名を峻,字を君岳といい,江漢のほか,春波楼,桃言,不言などと号した。才能は多岐にわたり,画業のほか,西洋自然科学の啓蒙的紹介者,思想家,文筆家でもあった。
 画業は狩野派から出発し,浮世絵(鈴木春重と称した),南蘋派を学んだのち,安永年間(1772~81)に平賀源内を知り洋風画,窮理学に関心を持ち,小田野直武に洋風画法を学ぶ。天明3(1783)年,大槻玄沢の助力を得て腐蝕銅版画の創製に成功,「三囲景図」を出した。秋田蘭画を展開し,西洋画法による日本風景図を確立した。
 寛政年間(1789~1801)には油彩画を制作,また,『地球全図略説』『和蘭天説』など著述を相次いで刊行し,寛政11年『西洋画談』を出版した。文化年間(1804~18)から隠遁の心境を示し,画業でも油絵から墨画淡彩の日本風景図をよくした。奇行が多く,文化5年から年齢に9歳加算して自称するようになった。晩年の著述に『春波楼筆記』など。洋風画に「七里浜図」(大和文華館蔵)ほか。(三輪英夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について ≫

 この「司馬江漢」を、『司馬江漢「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生( 池内了著)』と、「江戸のダヴィンチ」と称するならば、その源流、そして、「南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである」(上記アドレスの「平賀源内の世界」)との、「日本西洋画の流れのパイオニア」は、江戸中期の、「与謝蕪村・円山応挙」らと同時代の、≪「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)(大意)「ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか」(「平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)」)≫の、その、そして、これこそ、「型破り人生『江戸のダヴィンチ・平賀源内』」その人に求めるべきなのかも知れない。
 そして、それは同時に、その「日本西洋画の流れのパイオニア」は、その「源流の源流」を辿って行くと、「二人の等伯(「キリシタン大名・高山右近=南坊等伯」と「長谷川派の総帥・長谷川等伯」)を発掘した、「利休七哲の師・千利休(宗易)」が浮かび上がってくる。
 その最期の辞の「利休遺偈(ゆいげ)」は、「天下人・豊臣秀吉」に対峙する「天下人・千利休(宗易)」の挑戦状(非常時の宣言)のようなイメージが伝わってくる。

人世七十 (じんせい しちじゅう)
力圍希咄 (りきいき とつ) 
吾這宝剣祖仏共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
携ル我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち)
今此時そ天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)

(追記一)「二人の等伯」周辺

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-11240218960.html

【Q.画家の長谷川等伯と高山右近は関係があったのですか?
A.高山右近は、金沢時代は「右近」ではなく、「南坊等伯」(みなみのぼう・とうはく)と名のっていました。残されている加賀藩の文書には、「右近」では出てきません。

 同時代を生きた長谷川等伯は、13歳年上。能登の七尾の出身で、右近の知行地も能登にありました。
 当時、御用絵師だった狩野永徳・狩野一門とは、基本的な生き方、自然観・世界観を異にし、千利休ほか、茶人たちと交友関係を持っていました。利休没後5年目(1595年)に描かれた「利休居士像」も、等伯57歳の作品です。
 右近が名乗った「南坊等伯」については、ともに、茶の湯そして千利休との関係で親しく交流のあった堺・南宗寺の南坊(なんぼう)宗啓や、狩野派に対抗した(しかも能登出身)長谷川等伯に敬意を表して自らの号として用いさせていただいた、ということではないか。「南坊」の呼び方については、キリシタンとしての意味もこめて「みなみのぼう」にしたのだろう。――と思っております。
 おそらく、無断で借用・名乗ったとは考えにくく、領主でもなくなった身であれば、いつまでも「右近」でもあるまいと思っていたでしょうし、1588年、加賀に向かう直前あたりに、お二人にも話して了解をもらっていたのだろうと思います。このあたりの史料が出てくるとうれしいのですが・・・・。】

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12280159412.html

(追記)「マルチ人間 平賀源内の発想」(砂山長三郎稿)

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390567172574999424

【 12. 源内焼と西洋婦人図 (抜粋)

「西洋婦人図」は源内が長崎遊学中に描いた現存する唯一の油彩画です.この絵を所蔵する神戸市立博物館の勝盛学芸員によって,襟の模様に使用されている藍色が西洋の青(プルシアンブルー)で,日本で初期の使用例であることが判明しました.源内は宝暦13 年刊の『物類品隲』の中で色に関係する石類を多く採り上げ,この青も既に「ベレインブラーウ」として注目していました.自らも会得した西洋画法を,秋田で若い武士に教え,それがきっかけで秋田藩主佐竹曙山を巻き込み秋田蘭画と呼ばれる日本洋画初期の大きなうねりが起こるのです.その若い武士は小田野直武と言い,江戸で源内宅に身を寄せ,杉田玄白の『解体新書』の挿図を描くことになります.玄白と源内は無二の親友で,その扉絵のアイデアも源内と考えられています.また浮世絵を東錦絵と称して一世を風靡した鈴木春信の多色刷のアイデアも源内と言われます. 】
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