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日本画と西洋画との邂逅(その六) [日本画と西洋画]

(その六)「江戸のダ・ヴィンチ=司馬江漢」」)と「江戸の『浮絵付きのぞきからくり=歌川豊春・北川政美』」など)

不忍池・江漢.jpg

「不忍之池(司馬江漢作)」 銅版筆彩 1面 28.4×41.4 反射式眼鏡絵 落款「甲辰四月彫/日本創製司馬江漢」(「甲辰=天明四年) (神戸市立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444023

【 司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。上野の不忍池を、その南岸から北方を望んだ構図となります。司馬江漢が描いた本図とほとんど同じ景観を今でも眺めることができます。浮世絵版画や秋田蘭画の画家たちがその景観を描く中、江漢は自身が開発した腐食銅版技法で、眼鏡絵(レンズと鏡を組み合わせた覗き眼鏡で鑑賞するための小型絵画で、左右を反転して描かれる)に仕上げました。なお、当時は多色刷り銅版の技法はなかったため、筆彩による彩色が施されています。なお、江漢はこれらの銅版眼鏡絵を鑑賞させるための反射式のぞき眼鏡も自製しており、その現物とされるものも神戸市立博物館に伝えられています。

来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】
(「文化遺産オンライン」)

不忍之池図(司馬江漢・秋田千秋美術館蔵」).jpg

「不忍之池図(司馬江漢作)」 銅版着色・紙 H24.7×W36.7 1784(天明4) (「秋田千秋美術館蔵」)
https://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ss/senshu-art/collection/search/detail/1569/1

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/da/detailauthor?authorid=6500

(「司馬江漢」年譜)

1747(延享 4)年  江戸に生まれる。
1761(宝暦11)年  この頃までに、江戸狩野に入門。
1768(明和 5)年  この頃までに宋紫石から南蘋派を学ぶ。
1770(明和 7)年  鈴木春信の死に乗じて、その偽作をつくる
1773(安永 2)年  この頃から、平賀源内に接近。
1779(安永 8)年  この頃までに小田野直武の教えを受ける。
1783(天明 3)年  大槻玄沢の協力によりボイス『科学技術新辞典』とショメール
『日用家庭百科辞典』の関係項目を訳して銅版画制作に成功。《三囲景図》
1784(天明 4)年  「覗眼鏡器具」『銅版覗眼鏡鏡説明書』を作る。
1788(天明 8)年  4月23日、江戸をたち、九州へ旅行。
1789(寛政 元)年  1月10日、平戸をたち、京阪をへて、4月13日江戸に帰る。
《富獄図》 《長崎港図》。
1792(寛政 4)年  『興地略説』刊。
1793(寛政 5)年  『地球全図略説』刊。
1794(寛政 6)年  『西遊旅譚』刊。《捕鯨図》。
1796(寛政 8)年  『和蘭天説』刊。《相州鎌倉七里浜図》。
1798(寛政10)年  『和蘭国談・おらんだ俗話』成る。《品川冨士遠望図》。
1799(寛政11)年  近畿地方を旅行。『西洋画談』刊。《駿河湾冨士遠望図》。
1800(寛政12)年  《木更津浦之図絵額》。
1803(享和 3)年  『画図西遊譚』刊。
1805(文化 2)年  『和蘭通舶』刊。
1807(文化 4)年  4月8日江戸柳橋万八楼で退隠書画会を開く。《江之島冨士遠望図》。             
1808(文化 5)年  文化戊辰大小暦を作り、年令を71歳と記以後9歳加算年令を称する。
1809(文化 6)年  『蘭画銅版画引札』刊。
1810(文化 7)年  『独笑妄言』を著す。
1811(文化 8)年  『春波楼筆記』成立。
1812(文化 9)年  2月20日江戸をたち京阪へ旅行。《金谷台富獄遠望図》 《駿州柏原冨士図》。
1814(文化11)年 『無言道人筆記』成る。『訓蒙画解集』成る。
1815(文化12)年  『西遊日記』ほぼ成立。
1816(文化13)年  『天地理譚』成る。
1818(文政 元)年  10月21日 歿。


のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡).jpg

「浮絵付きのぞきからくり(一)」(「のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡)」)

歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」.jpg

「浮絵付きのぞきからくり(二)」(「看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」)

歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」.jpg

「浮絵付きのぞきからくり(三)」(「看板は北尾政美画「東都両国橋夕涼之図」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401481

【「浮絵付きのぞきからくり」
江戸時代/18世紀後期 本体:木、紙、ガラス/看板絵・中ネタ:紙本木版色摺 本体高さ26.7cm 39.7×39.2cm 1基 6枚 看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」、中ネタに新吉原の内外景、忠臣蔵七段目、四条河原夕涼、大名屋敷の5図と、北尾政美「東都両国橋夕涼之図」直視式のぞき眼鏡

来歴:1984神戸市立博物館
参考文献:
・岡泰正『めがね絵新考 ―浮世絵師たちがのぞいた西洋』筑摩書房 1992
・神戸市立博物館特別展『眼鏡絵と東海道五拾三次』図録 1982

解説

 箱の内側の1面にとりつけた絵画を、その反対側の面に装着したレンズから覗き込んで鑑賞する「のぞきからくり」(直視式のぞき眼鏡)の起源は、17世紀末期のヨーロッパで生まれた、映画の前身というべき娯楽で用いられた器具にありました。レンズの付いたカメラのような箱で、レンズを通して中に仕込まれた絵画を鑑賞します。その絵画は、わざわざレンズから覗き見るという行為によって「絵」を「現実の風景」として鑑賞者に「錯視」させる効果があり、さらに、その箱への外光の入れ方を変えることで、のぞき見る同じ絵を昼景・夜景に切り替えることもできました。18世紀前半までには、この器具は中国に伝わり、特に蘇州で線遠近法で描かれた風景画を鑑賞させる「西湖景」が登場したと考えられます。
 日本では「唐繰」「からくり」と呼ばれることになるこの種の器具は、文献上には17世紀から登場しますが、これらは大津絵や六道絵、あるいは人形芝居を鑑賞させるものでした。西洋的な線遠近法を導入した「浮絵」をのぞかせる「からくり」については、1750年代の京都にまず現れますが、これには線遠近法による中国風景画(おそらく蘇州版画)を組み込んだ中国製「西湖景」からの影響が想定されます。江戸では、1763年の文献に、からくりで浮絵を見せる興行が行われていたことが確認できます。本資料はこのような屋外の興業用のものではなく、屋内で鑑賞する縮小版ですが、18世紀後半の江戸製浮絵付きからくりとしては唯一の現存例です。
黒漆塗りの箱に凸レンズをはめこんだのぞき穴、絵看板、日覆い、「大からくり」と記された袖看板などが装着されています。部品を使用の際に組み立てる仕組みで、6枚の絵が仕込まれた上部の箱を乗せて完成させます。それらの絵は、提灯や花火の部分を切り抜いて薄紙を貼り、背後から光をあてると夜景となる趣向の風景版画で。側面のひもを上下させ箱の中に1枚ずつ絵を落として鑑賞します。看板は歌川豊春画「阿蘭陀雪見之図」、中ネタに新吉原の内外景、忠臣蔵七段目、四条河原夕涼、大名屋敷の5図と、北尾政美の「東都両国橋夕涼之図」を加えています。諸図から考証して、からくりの制作は1770年代と推測されます。これらの「浮絵」は、1740年代の奥村政信らによる浮絵とは異なり、線遠近法の露骨な導入は見られなくなり、より自然な遠近表現で京都と江戸の名所風景が描かれています。】
(「文化遺産オンライン」)


≪ 歌川豊春 うたがわ-とよはる 1735-1814 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
享保(きょうほう)20年生まれ。歌川派の祖。京都で鶴沢探鯨(たんげい)に,江戸で鳥山石燕(せきえん)にまなんだという。浮絵に西洋風の遠近法をくわえ,風景画を一新させた。肉筆美人画も数おおくかく。弟子に初代歌川豊国,歌川豊広らがいる。文化11年1月12日死去。80歳。名は昌樹,通称は但馬屋庄次郎,のち新右衛門。別号に一竜斎,潜竜斎など。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

≪ 北尾政美 きたお-まさよし 1764-1824 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
明和元年生まれ。初代北尾重政に浮世絵をまなび,光琳(こうりん)風,西洋画風もとりいれ,挿絵,錦絵,武者絵などを制作。寛政6年美作(みまさか)津山藩の御用絵師となる。9年鍬形蕙斎(くわがた-けいさい)と改名して狩野惟信(かのう-これのぶ)の門人となり,肉筆画に力をそそいだ。文政7年3月22日死去。61歳。江戸出身。本姓は赤羽。名は紹真(つぐざね)。代表作に「近世職人尽絵詞(えことば)」。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

反射式のぞき眼鏡」 司馬江漢.jpg

「反射式のぞき眼鏡」 司馬江漢 (1747-1818) 江戸時代、天明年間か/1781年~1789年
木、金属、ガラス 高63.5 縦横32.2×45.0 レンズ径4.0 1基
来歴:東京天金(池田氏名代の天ぷら料理屋)→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/429432

【 江漢による一連の銅板眼鏡絵のために作られたと考えられます。絵を水平に置き、支柱の上端につけた鏡とレンズで覗き見る仕組みです。分解して、台になる箱の中に部品を収納して持ち運ぶこともできます。箱の蓋裏には、眼鏡絵の鑑賞の仕方などを説明した引札が貼り付けてありあます。】(「文化遺産オンライン」)

(追記)「近代中日銅版画美術の出現、発展と衝突」(安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師)

https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1904.html

2.日本の江戸時代の銅版画(エッチング) (抜粋)

 中国の明清時代の銅版画美術と同様に、近代日本における銅版画および銅版印刷技術もイエズス会の宣教師によって伝えられた。それは、永禄年間(1558-1570年)にヨーロッパの銅板彫刻技術が日本に紹介されたことに始まるが、徳川幕府が慶長19年(1614年)に禁教令を発すると銅版画技術も強制的に途絶えることとなる。しかし、後の19世紀後半の「蘭学」の新興に伴って新たな腐食銅版技術(エッチング)が日本に伝わり、民間の蘭学家の間で人気の印刷方式となる。折しも、ルネサンス期のヨーロッパにおけるエッチング技術の中心はオランダにあり、まさにそのオランダこそが当時の日本が西洋文化を学ぶにあたって、直接参考にした相手であった。司馬江漢(1747-1818)や亜欧堂田善(1748-1822年)の努力によって日本の銅版画および銅版印刷技術は江戸時代から明治時代に伝えられ、19世紀後半には中国との衝突も生じた。
 司馬江漢はこの時代の日本の腐食銅版画(エッチング)の代表的人物である。宝歴11年(1761年)、当時15歳の江漢は浮世絵の巨匠、狩野美信(洞春)に絵画を学んだ。25歳の時には平賀源内の紹介で南蘋画派の巨匠、宋紫石の門に入り、人物画や風景画などを系統的に学ぶ。青年期の司馬江漢は画家の平賀源内や小野田直武らの影響を受け、西洋美術と蘭学に強い関心を持つようになった。36歳のころ、彼は蘭学著の手による『新選科学工芸総合大辞典』に出会い、その中に「銅刻を作るの技法」の章があった。そこから試みに銅版技術を絵画に使用し始め、翌年の天明3年(1783年)には日本最初の銅版画『三囲景』(みめぐりけい)を完成させた。こうして、江漢は腐食銅版画(エッチング)技術に熟達し「西洋画家」としての名声を得た。
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