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日本画と西洋画との邂逅(その四) [日本画と西洋画]

(その四)水墨画(可翁・仙崖・等伯など)と洋風画(司馬江漢など)の蜆子図など

紙本墨画蜆子和尚図 可翁仁賀筆.jpg

「蜆子(けんす)和尚図(可翁筆)」 1幅 紙本墨画 縦87.0 横34.5 南北朝時代 14世紀 重文 (東京国立博物館蔵)
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10931
【 蜆子和尚は唐末の禅僧。居所を定めず,常に一衲(ボロ袈裟)をまとい,河辺で蝦(えび)や蜆(しじみ)をとって食べ,夜は神祠の紙銭中に寝たという。可翁は十四世紀前半に活躍したと推測され,初期水墨画の代表的画人であるが,詳しい伝記は分からない。中国禅余画の手法に倣い,背景と衣文はおおまかに,肉身と面部はやや細緻に描いている。また人体を真横からとらえる点は梁楷画を想起させ,図様の祖本を梁楷周辺に求められるかもしれない。 】

≪可翁(かおう、生没年不詳)は、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍した画人。 黙庵らと共に日本の初期水墨画を代表する存在として名高い。
 彼の作品に押捺されている二つの印章の解釈に従い、二通りの説がある。一つは、「可翁」の朱文方印の下に「仁賀」と判読される小さな朱文方印が押されることから、「可翁仁賀」という「賀」の字が付く事が多い詫磨派の絵仏師であるとする説。もう一つは「可翁」の方を重視し、可翁宗然という禅僧とする説である。この可翁は、筑後国出身で建長寺の南浦紹明に参じた後、元応2年(1320年)に元に渡り中峰明本、古林清茂などに参学、嘉暦元年(1326年)帰国後、博多崇福寺や京都万寿寺、建長寺、南禅寺に入寺、貞和元/興国6(1345年)に示寂した、当時の禅宗界の大立者である。宗然については同時代の記録も多いが、禅余の絵事に触れた史料はない。≫(「ウィキペディア」)

仙厓・蜆子画.jpg

蜆子和尚図(けんすおしょうず: Kensu-oshō (Xianzi heshang; Clam Priest)) 仙厓義梵(1750-1837)Sengai Gibon (1750-1837) 紙本墨画Ink on paper 49.7×54.9㎝ 江戸時代Edo period (Aizu Museum 早稲田大学 會津八一記念博物館)
https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/other/2019/07/10/2673/
【蜆子和尚は中国唐末~五代頃の僧で、一年中着の身着のまま、昼は川辺で蜆(しじみ)や蝦(えび)を採って食べ、夜は神祠の紙銭(神を祀ったり死者に供えたりする時に用いられる紙で作った銭)中にもぐって露をしのいだという奇行の持ち主。本図は思わず笑いを誘う蜆子の姿に「毎日殺生戒を犯す破戒僧の内面に、諸仏を吞み込んでしまうような力量を持つ」という意味の賛を施す。作者の仙厓は博多の臨済宗の禅僧で、軽妙でユーモアに富んだ禅画で知られる。
Kensu-oshō was a Chinese priest of the end of the Tang dynasty to the Five Dynasties period. He was known for his eccentric behavior. With little more than the clothes on his back, he spent his days at riverbanks, digging for clams and catching shrimp as food, while at night he took shelter from the dew by burying himself under the paper money dedicated to small shrines as offerings to the gods and the dead. The design depicts the priest almost comically and is accompanied by words of praise to the effect that although he is an apostate priest who kills living creatures every day, his inner self contains a power that could overtake various Buddha. The artist, Sengai, was a Zen priest of the Rinzai sect, living in Hakata, Kyushu. He is known for his witty and humorous Zen drawings.】

≪ 仙厓義梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750年)4月 - 天保8年10月7日(1837年11月4日))は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる。
 ≫(「ウィキペディア」)

等伯・達磨と蜆子.jpg

「十六羅漢図(長谷川等伯(信春)筆」 8幅の内 紙本墨画淡彩 各縦93.9・横43.3 室町時代末期~桃山時代初期(16世紀)制作 七尾市・霊泉寺所蔵
https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/2.html
【 羅漢とは釈迦の弟子にあたる。本図は1幅に2人ずつの羅漢が描かれた8幅の作品で、水墨を基調として部分に淡彩を施し、衣装は太線で豪快に、顔の線猫は細密に表現されている。等伯若年時の作品とされる。 】

 これは、長谷川等伯の、能登の絵仏師の「信春」時代の、「十六羅漢図」の一幅もので、「達磨図」や「蜆子図」ではない。しかし、この二人の「羅漢」(「阿羅漢=高い悟りを開いた人たち)は、「十六羅漢」(『阿弥陀経』に説かれる十六羅漢と『法住記』に見える十六羅漢)のうちの、「達磨大師」や「蜆子和尚」に連なる「「頭陀第一」「頭陀とは、衣食住に対する欲望をなくすための托鉢を中心とした、質素な修行の方法を第一とする」の「釈迦三大弟子」(「釈迦三大阿修羅」)の「①舎利弗(「知恵第一」) ②目連(「神通第一」) ③大迦葉(「頭陀第一」の「大迦葉(だいかしょう)」が、当時の等伯(信春)のイメージ下にあったようにも思われる。
 その上で、この「羅漢」を鑑賞すると、この後方の「羅漢」は、先に見てきた「達磨」(J図)の諧謔化、そして、この「布袋」や「大黒天」のような、前方の「羅漢」は、「仙厓」の描く「蜆子」というイメージで無くもない。

蜆子和尚図.jpg

「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)1幅 紙本油彩 60.9×27.9 江戸時代、天明年間/1781年〜1789年 款記「Kookan geschilder」題記「Kens Paap」
来歴:1934池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365041
【 司馬江漢による初期の油彩作品。画面上方に「Kens Paap」と記されているように、この絵の表面的な主題は、古来より禅宗系の水墨画などで描かれてきた蜆子和尚(中国宋代の奇僧でエビを食べて暮していた)です。
 しかしその容貌は西洋人のそれであり、仏像のような印を両手で結ばせている点は、禁教後に描かれたキリシタンの聖人像に極めて似通っています。これら聖人像は像主に仏教的な持物や衣装をもたせることによって、本来の画題を隠蔽させていることが多く、江漢の「蜆子和尚図」でもその手法がそっくり継承されているようです。
一方で江漢は聖パウロとおぼしき画像を所持していたことがあり(『江漢西遊日記』天明8年6月24日)、これも日本のキリシタンによる聖人像(当館蔵の「老師父像」の可能性あり)だったと推測されます。江漢はキリスト教そのものに対して深く共感したことはありませんが、天明年間(1781-89)末に油彩画を手掛け始めたころには、聖人像に見る前世紀の洋風表現には強い関心を抱き、これらを参考として作品を描いたのでしょう。】(神戸市立博物館「解説」)

老師父図.jpg

「老師父図(筆者不詳)」(神戸市立博物館蔵)1面 紙本油彩 78.7×36.8 江戸時代初期/17世紀初期
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=367505
【 禁教により江戸時代の日本でかつてのように洋風画が描かれることはなくなりましたが、その技術を受け継いだ絵師が密かに制作したことをうかがわせる作品です。
その写実的な立体・陰影表現から、本来キリスト教の聖人像として描かれつつ、両手を仏像のように印を結んだ形で表現することで仏教的な主題を偽装していると考えられます。表現の類似性から、「蜆子和尚図」との関連性が取り沙汰されてきました。 】(神戸市立博物館「解説」)

「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵).jpg

「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵) 布・油彩 119×69
【 イェズス会所属画家が描いた現存洋画のうちではまず無難な作品であろう。完全な油彩にして、しかも保存も比較的よい方である。千葉県船橋市にある覚王寺へこの作品がどうして納まったかわからないが、元禄ごろに今の表装がおこなわれたということである。使徒ペトロ画像としては、イェズス会の画学舎で別に、挿図69(「諸聖人の御作業」の扉絵)、71(「クルスの物語」の挿絵)の銅版画が早く作られた。それらの版画に見えるペトロの立像とこの画像とを対照すれば、細部では多くの違いがあるけれども、大体には類似するところが多い。多分同じ原画によったのかと思われる。もしそうだとしても、画学生かそれとも彼らの教師の制作にかかわるのか確かめられないが、銅刻画のときより少し後に、多分一五九三年ないし五年ごろに画技に習塾した人が、原画にあまり拘泥せずに描いたものであろう。 】(『日本の美術19 南蛮美術(岡本良知著)』所収「作品(口絵)解説22」)

 司馬江漢の『江漢西遊日記(天明8年6月24日))』には、この種の「聖パウロとおぼしき画像」を所持していて、それらの画像から、上記の「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)などの、油彩の「洋風画」を制作していったのかなどに関連して、この「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵)などは、多くの示唆を投げ掛けてくれる。

「聖ペテロと聖パウロ」.jpg

「聖ペテロと聖パウロ」 エル・グレコ 年代:1614年 製法:油彩、カンヴァス 収蔵美術館:エルミタージュ美術館
https://artoftheworld.jp/hermitage-museum/535/
【 この作品はエル・グレコが名作『オルガス伯の埋葬』を描いたあとのものとされていたが、今はその死の年に描いたと考えられている。
 『オルガス伯の埋葬』の人物の服装に見る精密な描写は、エル・グレコ晩年の幻覚的ビジョンとは全く違っているが、この絵の聖者の主観的な衣服の描き方はむしろ晩年の作品と共通している。
 右側、厳しい態度で聖書に手をおろしているのは聖パウロ、左側は聖ペテロが手に天国の鍵を持ち、門番としてつつましく立っている。 】

 [マニエリスム](16世紀中頃から末にかけて見られる後期イタリア・ルネサンスの美術様式)絵画の、「最後にして最大の画家」と仰がれているスペインの画家「エル・グレコ El Greco」(1541-1614)と、当時の日本の桃山時代の「狩野派」(狩野永徳)と画壇を二分する「長谷川派」の祖と仰がれている「長谷川等伯」((1539-1610)とは、全くの同時代の画家ということになる。
 そして、「エル・グレコ El Greco」(1541-1614)が、当時の「西洋画」の「宗教的人物画」(「キリスト教」に関する「宗教画・肖像画」)の第一人者とするならば、「長谷川等伯」((1539-1610)は、当時の「日本画」の「宗教的人物画」(「釈迦の仏教」に関する「宗教画・肖像画」)の第一人者ということになる。
 この「西洋画」の「宗教的人物画」(「キリスト教」に関する「宗教画・肖像画」)と、そして、当時の「日本画」の「宗教画人物画」(「釈迦の仏教」に関する「宗教画・肖像画」)とを理解するためには、そこに描かれている「人物」が、それぞれ特有の意味合いを有していることを理解して、始めて、それらの「描かれている背景」などがイメージとして伝わってくる。
 例えば、「エル・グレコ El Greco」(1541-1614)の「聖ペテロと聖パウロ」の、その「聖ペテロ」は、「キリストの最後の晩餐」に出てくる、キリスト直弟子の「十二使徒の一人・初代ローマ教皇」その人であるが、「聖パウロ」は、「元々キリスト教を攻撃するパリサイ派ユダヤ教徒だったが、後にイエスの声を聞いて「回心」し、『新約聖書』を完成し、イエスの教えを広く宣(の)べ伝えた宣教者の第一人者」ということになる。
 そして、「長谷川等伯」((1539-1610)の、先の「十六羅漢図(長谷川等伯(信春)筆」
は、一見すると、「達磨・布袋(あるいは大黒天)」の図のように見えるが、これは「十六羅漢」(釈迦の命により、この世に長くいて正法を守り、衆生(しゅじょう)を導く十六人の大阿羅漢=賓度羅跋羅堕闍(ひんどらばらだじゃ)・迦諾迦伐蹉(かなかばしゃ)・迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだしゃ)・蘇頻陀(そびんだ)・諾矩羅(なくら)・跋陀羅(ばだら)・迦理迦(かりか)・伐闍羅弗多羅(ばじゃらふつたら)・戍博迦(じゅはか)・半托迦(はんだか)・羅怙羅(らこら)・那伽犀那(なかさいな)・因掲陀(いんかだ)・伐那婆斯(ばなばし)・阿氏多(あした・注:荼半吒迦)」のうちの二人で、五世紀後半から六世紀前半に中国に「禅宗」を伝えた「達磨(「禅宗」の祖)や「蜆子(「禅宗」の「頭陀第一」の修行僧)」とは、時代を異にする。
 謂わば、「十二使徒の一人・聖ペテロ」は、「釈迦十大弟子」≪(1)舎利弗(しゃりほつ)(智慧(ちえ)第一)、(2)目犍連(もくけんれん)(神通力(じんずうりき)第一)、(3)摩訶迦葉(まかかしょう)(頭陀(ずだ)―苦行による清貧の実践―第一)、(4)須菩提(しゅぼだい)(解空(げくう)―すべて空であると理解する―第一)、(5)富楼那(ふるな)(説法第一)、(6)迦旃延(かせんねん)(論議第一)、(7)阿那律(あなりつ)(天眼(てんげん)―超自然的眼力―第一)、(8)優婆(波)離(うばり)(持律(じりつ)―戒律の実践―第一)、(9)羅睺羅(らごら)(密行―戒の微細なものまで守ること―第一)、(10)阿難(あなん)(多聞(たもん)≫の、「(3)摩訶迦葉(まかかしょう)(頭陀(ずだ)―苦行による清貧の実践―第一)」と解して、それに通ずる「聖パウロ」は、「達磨(「禅宗」の祖)や「蜆子(「禅宗」の「頭陀第一」の修行僧)」という位置づけになってくる。

 これらのことに関しては、下記のアドレスなどが参考となる。

https://true-buddhism.com/founder/disciples/

 それらのことを前提として、「キリスト十二使徒の一人・聖ペテロ」は、「ガリラヤ湖の湖畔ベツサイダの漁師でバプテスマ(洗礼者)のヨハネの弟子になった」、「漁師」出身なのである。
そして、「釈迦十大弟子の一人・摩訶迦葉(まかかしょう)に連なる『禅宗』の修行僧=常に江岸に蝦や蜆を採つて腹を満たして『頭陀第一』の禅宗の修行に励んだ中国の僧」の「蜆子」は、禅宗の祖の「天竺(インド)出身の達磨」の教えを実践する「禅宗」(仏教の一流派)を象徴する、即ち、「漁師」出身の「「キリスト十二使徒の一人・聖ペテロ」になぞらえる、「釈迦→摩訶迦葉(まかかしょう)→達磨大師」に連なる「漁師」もどきの、「羅漢(聖者・修行僧)」というイメージになってくる。

フラシスコザビエル像.jpg

「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

【 狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号) 】(「出典 朝日日本歴史人物事典(五野井隆史稿)」)

そして、さらに、この「木屋道味平登路」は、織豊時代の陶工の一人の、次の「道味」と同一人物のように思われてくる。

道味(どうみ) ?-? 織豊時代の陶工。
天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた。(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

 そして、この「道味」は、「堺千家」の「千道安」の門人のように解したいのである。

千道安 没年:慶長12.2.17(1607.3.14) 生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。千利休の嫡子。堺生まれ。母は阿波三好氏か。初名は紹安。眠翁、可休斎と号した。才能に恵まれたが,家を継がず数寄者としての生涯を送った。利休賜死ののち、飛騨高山(金森氏)、豊前小倉(細川氏)、阿波徳島(蜂須賀氏)と流寓先が伝えられ、義弟少庵に比して厳しい状況があったと考えられる。文禄年間(1592~96)に帰京し、豊臣秀吉の茶頭に復帰、堺に住んで茶湯者として活動、古田織部の最初の師であり、門下の桑山左近の弟子に片桐石州がいる。慶長6(1601)年、細川忠興から豊前に知行地を与えられたとされる。道安囲と称される小座敷の工夫が知られ、道安風炉などその好みを伝える道具も多い。<参考文献>『堺市史』 (「出典 朝日日本歴史人物事典(戸田勝久稿)」) 】

 「達磨大師」が「禅宗」の開祖とすると、「蜆子和尚」はその「禅宗五家」の一つの「曹洞宗」に連なる和尚のようで(『東洋画題綜覧』)、「達磨大師」に比すると、一般的には馴染みが薄い。
それに加えて、その「禅宗」と何ら接点がないと思われる、「洋風画」を大成させた、江戸時代後期を主とする「司馬江漢」(1747-1818)の「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)も、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した水墨画の巨匠「可翁」や、「司馬江漢」と同時代の画僧「仙厓」(1750-1837)の「蜆子和尚図」とは、どうにも、イメージが、同一の「蜆子和尚図」とは結び着いて来ない。
 しかし、その「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)を、その淵源を辿って、
「老師父図(筆者不詳)」(神戸市立博物館蔵)、そして、「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵)を経て行くと、「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館蔵)に結び着いて行く。そして、それは、取りも直さず、「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都
漁父環人(さふらぬしすこさべろりうさからめんと ぎょふかんじん)」の「漁夫環人(漁夫肝心)」に連なる「狩野源助ペドロ=木屋道味平登路?=織豊時代の陶工・道味?」の、その「ペドロ」(十二使徒の一人・ガリラヤの漁師の出身・カトリック教会ではイエスの後継者,初代のローマ司教(教皇))に、辿り着いてくる。
 司馬江漢は、もとより、キリシタン的な背景は察知されないが、「洋風画家・蘭学者」として、「西洋事情にも深い関心と憧憬をもち,鎖国や封建的身分制度にも批判的」な立場であったことは、その、寛政六年(一七九四)刊の長崎旅行紀『西遊族譜』(『江漢正遊日記(芳賀徹・太田理恵子校注)』)などを管見しただけでも察知される。
 なお、下記のアドレスで「司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景図に見られる湾曲した海岸線について(橋本寛子稿)」を閲覧することができる。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81010410
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