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日本画と西洋画との邂逅(その九) [日本画と西洋画]

(その九)「秋田蘭画(佐竹曙山・小野田直武)」と「洋風画(司馬江漢)」など

小野田直武・不忍池.jpg

重要文化財「不忍池図 小田野直武筆」一面 江戸時代 18世紀 秋田県立近代美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151921
【 (解説)
 秋田藩士小田野直武(一七四九-一七八〇)は、安永二年(一七七三)秋田藩の招聘(しようへい)でこの地を訪れた平賀源内より、殖産奨励の指導をうけるかたわら、オランダ系洋風画の伝授を受けた。これが秋田洋画の濫觴(らんしよう)で、その後直武の指導のもとに、秋田藩士佐竹義敦(曙山)とその弟角舘城代佐竹義躬へとその技法は広まった。もとより直接西洋画の技法を学んだものではなく、主として蘭書の挿絵によったため、銅版画の技法を学んだ細かいタッチが多く、技法の熟成はみられない。  
 直武江戸在勤中の不忍池の実景をもとに、近景に草花を大写し、遠近感を強調している点に特色があり、舶来の顔料による豊麗な彩色とともに、早逝した直武画の代表作。】(「文化遺産オンライン」)

https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_5/display.html

【 「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」

第1章 蘭画前夜 (略)
第2章 解体新書の時代~未知との遭遇~(略)
第3章 大陸からのニューウェーブ~江戸と秋田の南蘋派~(略)
第4章 秋田蘭画の軌跡

≪西洋と東洋の世界に向き合い、ヨーロッパの図像や南蘋風花鳥画の表現を学んだ直武は、拡大した近景と緻密な遠景を配した構図など独特の特徴をもつ秋田蘭画の画風にたどり着いたと考えられています。
 東西美術が融合した秋田蘭画は、秋田藩主の佐竹曙山、角館城代の佐竹義躬ら直武周辺の人物たちへも波及しました。佐竹曙山は、幼少より絵を得意とし、安永7年(1778)には日本初の西洋画論である「画法綱領(がほうこうりょう)」「画図理解(がとりかい)」を著しています。また、大名の間で流行していた博物学を愛好し、蘭癖大名(らんぺきだいみょう)であった熊本藩主細川重賢(ほそかわしげかた)や薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)らとつながりがありました。佐竹義躬は、絵画や俳諧に通じ、角館生まれの直武とは親しい交流があったようです。直武は、安永6年(1777)に秋田に一時帰国し、翌年に曙山と再び江戸に上ることになりますが、この間に秋田藩内へ蘭画の画法が伝わったともいわれています。
 東西のリアリズムが結びついた実在感のある描写、近景を極端に拡大し細やかな遠景を配する不思議な空間表現、舶載のプルシアンブルーを用いて表された青空の色彩など、秋田蘭画は今なお見るものを魅了します。≫

第5章 秋田蘭画の行方(略)  】(サントリー美術館「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」)

佐竹曙山筆「湖山風景図」.jpg

佐竹曙山筆「湖山風景図」 江戸後期 紙本著色 軸装 縦16.0㎝、横24.5㎝ 1幅
秋田市中通二丁目3番8号 秋田県指定 指定年月日:20150320 秋田市 有形文化財(美術工芸品)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/278153
【(解説)
 曙山は、第8代秋田藩主である佐竹義(よし)敦(あつ)の号で、自ら博物学や西洋画法に高い関心を持ち、直武を通じて本格的に西洋画を学んだ。安永7年には、我が国初の西洋画論となる「画(が)法(ほう)綱(こう)領(りよう)」と「画(が)図(と)理(り)解(かい)」を著している。 】(「文化遺産オンライン」)

≪  佐竹曙山 (1748―1785)
江戸中期の洋風画家、第8代秋田藩主。幼名秀丸、初名義直(よしなお)、のちに次郎義敦(よしあつ)と改め、字(あざな)を大麓(だいろく)、号を曙山といった。幼くして狩野(かのう)派の絵をよくしたが、のちに南蘋(なんぴん)派の写生体も学び、1773年(安永2)平賀源内が秋田にきたとき、家臣小田野直武(なおたけ)らと西洋画法を学んだ。のち、おもに参勤のため江戸に出たとき、直武の導きにより西洋の銅版画や画法書を頼りに洋風画を描き、東洋画の題材に西洋画の視点の加わった作品を残して、秋田蘭画(らんが)の代表者となったが、短命であった。78年日本最初の西洋画論『画法綱領』と『画図理解』を書いた。
[成瀬不二雄]≫(出典「小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』」)

https://yuagariart.com/uag/akita03/

「秋田蘭画の誕生と平賀源内」

https://yuagariart.com/uag/akita04/

「秋田蘭画の中心人物・小田野直武」

https://yuagariart.com/uag/akita05/

「日本初の西洋画論を著した秋田藩藩主・佐竹曙山」

相州鎌倉七里浜図〈司馬江漢筆.jpg

「相州鎌倉七里浜図〈司馬江漢筆/二曲屏風〉」紙本油彩 95.7×178.4 二曲一隻
神戸市立博物館蔵  国宝・重要文化財(美術品)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205989
【  (解説)
 江戸時代後期洋風画は、陰影法、遠近法といった西洋画法を用いた日本の風景図が開拓されていった点にその美術史的意義のひとつがあり、創始者とされる小田野直武(一七四六-八五)は、短い活躍期に西洋画法による日本の風景画を相当数遺している。しかし、それは墨と伝統的な絵具を用いて描かれたものであった。
 司馬江漢(しばこうかん)(一七四七-一八一八)は荏胡麻の油を用いた油彩の技法を実践して日本風景画を大量に制作した。そのうえ、西洋画法による日本風景画を各地の社寺に奉納することにより、この新奇な絵画を広く一般民衆の目に触れしめ、洋風画を啓蒙普及させるうえに大きな役割を果たした。
 寛政年間後期から文化初年にかけて、江漢は日本の風景画を中心とする大額の絵馬を神社仏閣に奉納した。しかし、そのなかで現存するのは芝愛宕山に奉納された本図と、厳島神社奉納の「木更津浦之図」のみである。「木更津浦之図」は残念ながら画面の傷みが激しいが、本図は「蘭画銅版画引札」が出た文化六年(一八〇九)までに愛宕社からはずされたため、比較的よい状態で伝えられてきた。
 江漢は富士の画家といえるほど富士山を数多く描いているが、江漢作品全体のなかでも富士を望む七里浜図の作例は多く、ことに得意とする画題であったらしい。数ある江漢の「七里浜図」作例のなかでも、本図はとりわけ描写に生彩があり、江漢の油彩日本風景画の最も代表的な作例といえる。
 本図の広大な空間表現、青い空と雲の描写、特異な波頭の表現等は、北斎をはじめとする同時代の浮世絵師等に影響を及ぼし、また、亜欧堂田善(一七四八-一八二二…】(「文化遺産オンライン」)

「相州鎌倉七里浜図」(部分拡大図).jpg

「相州鎌倉七里浜図」(部分拡大図・遠景に「富士山」が描かれている)

https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365044

【  「相州鎌倉七里浜図」
 今は二曲屏風になっていますが、本来は大画面の絵馬として、江戸・芝の愛宕神社に掲げられていました。宋紫石らに薫陶をうけて洋風画家として名声を確立しつつあった司馬江漢(1747〜1818)は、全国の社寺に12面の洋風画を奉納し展示させたが、そのうち現存しているのは本図を含めて2点しかありません。屋外に掲示されていたため、損傷や補筆が目立ちますが、躍動する海波、近景の浜辺から遥か遠くの富士山まで、ダイナミックに視点を誘うことで作り出される広大な空間と爽快な青空など、斬新な表現の数々を見て取れます。
 画面上方に貼付されているのは、大田南畝と中井(董堂)敬義の賛で、この作品がは文化6年(1809)以前に愛宕神社からはずされたあと、書肆青山堂の所有に帰した旨を記しています。

款記「西洋畫士 東都 江漢司馬峻 描写/S:a.Kookan/Ao:18./寛政丙辰夏六月二十四日」賛:大田南畝(文化8年)、中井董堂「昔掲城南愛宕廟 今帰廓北青山堂 泰西画法描江島 縮得烟波七里長」 

来歴:青山清吉(青山堂)→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007
・神戸市立博物館特別展『司馬江漢百科事展』図録 1996
・塚原晃「社寺奉納洋風風景図における司馬江漢の制作意図」(『美術史』43(1) 1994)】
(「神戸市立博物館」)

(追記)「研究論文 司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景図に見られる湾曲した海岸線について」
(橋本寛子稿)

第一章 江漢の洋風風景図について (略)
第二章 《三園景図》とヨンストンの『禽獣魚介轟図譜』 (略)

第三章  油彩による日本風景図《相州鎌倉七里浜図》

第一節  作品記述と絵馬奉納

 《相州鎌倉七里浜図》に関しては、成瀬不二雄氏によってその成立と影響に関する詳しい論考が発表され、現在においても《相州鎌倉七里浜図》に関する基本文献となっている。また、塚原晃氏は、洋風風景図を絵馬として奉納した江漢の意図とその後の影響について述べた。そして、その後においても成瀬氏がしばしばその革新性を述べるように、江漢のその後の洋風画家としての様式を確立する作品となった。また、塚原氏の論考にもあるとおり、《相州鎌倉七里浜図》は愛宕神社に奉納され、多くの人々の目に触れた作品であり、受容史の点からも重要な作品であるといえる。
本図は画面中央上部に「相州鎌倉七里浜図」と題し、右側に落款「西洋画士東都江漢司馬唆描写」、その下には江漢が印章の代わりによく用いた手法である朱で「S‥a.KO?kanAO‥-∞」とサインが描かれている。画面左側には「寛政丙辰夏六月二十四日」と年紀があり、寛政八年二七九六)夏の制作であることが分かる。そして画面上部・右側に大田南畝(一七四九・一八二三)、左側に中井(董堂)敬義 一七五八・一八二一)による賛が書かれている。

昔掲城南愛宕廟
縮得姻波七里長
画師百練費工者
居然身是対蓬壷
今帰郭北青山堂 泰西洋画法描江島
辛末夏日 杏花園題
写出銀沙七里図 万頃隔涛望富嶽
董堂敬義

 南畝の詩題によると、本図はもともと懸額として江戸・芝の愛宕山繭に掲げられていたが、後に外され江戸の書店・青山堂に帰したことが分かる。そして本図は西洋画法で江ノ島を描き、姻波七里の長さに縮めていると述べている。また、その左に位置する中井敬義の賛は広い海を隔てて富士を望み、居ながらにして理想郷に相対するようだと感嘆を表している。黒田源次氏は、本図は文化八年(一八二)頃に愛宕神社から外され、そのころに江漢自身の手で修理されたと推測している。本図は従来絹本に油彩であったが、修理とともに紙に裏打ちされ掛幅となり、画面上部の費もその頃に書かれたとされる。その後、現・神戸市立博物館の池長孟コレクションに収集され、本国は二曲一双の屏風に改装された。
 江ノ島は、厳島、竹生島と並び日本三大弁財天の一つと称され、江戸時代に流行した名所周遊のコースにも含まれ参拝客を集めた。古くは《一遍上人絵伝》の一部に描かれ、江戸時代にも浮世絵が盛んに制作されたが、それらは参拝者とともに江ノ島入り口正面から措かれる社寺参詣図の伝統を踏襲するものがほとんどであった。また小田野直武も正面から参拝者とともに描いた《江ノ島図》(図30)を制作する一方、山口泰弘氏によって江の島の真景図であることが明らかとなった《日本風景図》(右幅)(図31)、江漢に先立ちその因習から解き放たれた作といえる。しかし、縦長の画面であるが故に空の面積が異様に広く、単幅で見るとどこか不安定さを感じさせる。
 一方、江漢は直武同様に江の島の東に位置する七里ケ浜からの視点をとるが、横長の画面を用い従来の縦長の狭視野から急激に視界を開けさせた。そして、この大きく湾曲した半円弧によって、観者の視点は手前の浜辺から遥か先の富士山を望むように誘導される。
 実際に七里ケ浜から見た富士山の位置は、成瀬不二雄氏によると江漢の作品よりも右側に見えるという。同主題の江漢の作品には、富士山を右側の実景どおりに描いた作品も数点あり、江漢は本国を措く際に意識的に左に寄せたと考えられる。このことについて成瀬氏は「画者は実景の写生を傍らにおき、七里ケ浜の海が広く見え、近景から遠景に至る壮大な距離感が十分に表現されるように、画室内で構想を練ったのである」としている。つまり、成瀬氏によると江漢は実景よりも、絵画としての構図を優先させたということであり、同氏の近年の著書においても繰り返され三〇年来定説となっている。このように、江漢は消失点の先に富士山を描くことにより、観者の全ての視点を富士山に集約されるように再構成したのである。そうすることによって、大画面(縦九五・六センチ、横一七八・五センチ) であることも関係し、中井敬義が居ながらにして理想郷が体現できると述べたように、人々は描かれた風景その場に居合せているかのような臨場感を体感したようである。
 次に、本図が愛宕神社に奉納された絵馬であることを裏付ける資料が二点存在する。それらによって、江漢が奉納した絵馬の画題と、それを奉納した社寺の名が分かる。まず、第一に各地に奉納した六面の洋風絵馬が箇条書きに記されている寛政二年(一七九九)の江漢自身の著書『西洋画談』 の奥付部分である。そして、第二に文化六年(一八〇九) に江漢が自らの油彩画と銅版画の宣伝の為に配布した「蘭画銅板画引札」である。これも各地の社寺に奉納した絵馬を箇条書きしたものであり、同時に浅草寺に油彩の錦帯橋図を掲げ、これを洋風風景画の描きおさめすると宣言した引札である。以上、これらの資料から江漢は寛政八年(一七九六)から文化一三年(一八一六)の三一年の間に、一二面の洋風画絵馬を神社仏閣に奉納したことが分かる。そのうち、現存しているのは二面であり、《相州鎌倉七里浜図》と広島の厳島神社に懸けられた《木更津浦之図》(図18)である。
 塚原晃氏によると、特性上公共の場である社寺に、絵馬として作品を懸けるという行為は、不特定多数の人々の目に触れる機会が多いため知名度を上げるには効果的であったという。江漢が自らの作品を宣伝するために各地の社寺を積極的に利用したと考えるならば、塚原氏も指摘するように、絵馬奉納という行為は自らを風景画家として世間に表明するための手段であったと考えられる。そして、《相川鎌倉七里浜図》が江漢にとって最初期の油彩日本風景図であり、以後の様式を確立することになった作品であったことを考えると、江漢は《相州鎌倉七里浜図》を利用し洋風風景の専門画家として世間に認識してもらうことを目的としていたと考えられる。
 また、江漢以前に社寺に懸けられた洋風画といえば、五百羅漢寺に奉納されたファン・ロイエン (WiEem冒ederick昌nROyen〉監早-這い)筆《花鳥図》である。これは江戸時代を通じて一般公開された唯一の西洋油彩画であったため、大きな反応を引き起こしたといわれる。原図は現存していないが、寛政八年(一七九六)一一月になされた石川大浪 (一七六二・一八一七) と弟の孟高(一七六三・一八二六)の精微な模写によって、その様子を伺い知ることができる。また、石川兄弟の模写をさらに模写した谷文晃二七六三・一八四一) の作も有名であるが、石川兄弟以前にも多くの模写がなされた。江漢の《相州鎌倉七里浜図》を始めとする絵馬奉納活動の一端には、この五百羅漢寺に奉納されたファン・ロイエンの《花鳥図》を意識していたとも考えられる。江漢もファン・ロイエンのように同じく自身の油彩画を不特定多数の人々の目にれさせ、称賛される機会を狙っていたのではないだろうか。

第二節眼鏡絵との関係 (略)
結びに代えて     (以下「略」)  

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174910110464

「司馬江漢筆《驟雨待晴図》について : 自然科学に関する描写を中心に」

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20J40221/

「日本近世における浮絵と眼鏡絵の研究ー司馬江漢と円山応挙の関連を中心に」

「司馬江漢作《天球図》の図像源泉について」(橋本寛子稿)

 18 世紀、長崎は鎖国下にありながら、日本で唯一外国船を受け入れる開港都市であった。長崎を通じて多くの和蘭文物が日本にもたらされ、同時に西洋の地理学や天文学も長崎に伝来した。司馬江漢は天明8 年(1788)の長崎旅行を契機に和蘭通詞本木良永と知り合い、
 地動説をはじめとする地理天文の知識を教わった。江戸に戻った江漢は、その後一連の自然科学関連の銅版画作品を制作し、その中で最初の純粋な天文関連作品が寛政8 年(1796)の《天球図》(神戸市立博物館)である。これは中国の伝統的な天文図の上に、西洋の星座絵を重ねて描いており、当時としては斬新な表現であった。本発表では、この作品の新たな図像源泉を明らかにしたい。
 先行研究において江漢の《天球図》の図像は、イエズス会指導による中国最新の天文書『天経或問』中の図像と、日本に伝来した和蘭製の星座図像を取り入れたものであるとされてきた。さらに、初代幕府天文方渋川春海の実測による新たな日本の星座名も加えられ、当時としては、東西最先端の知識が詰め込まれた作品であったと言える。江漢が写した和蘭製の天球図は、《ブラウ世界図》(東京国立博物館)に描かれた両天球図を写したフレデリック・デ・ウィットの《天球図》(個人蔵)が原図と言われてきた。しかしこの作品は来歴等が明らかにされていない。
 そこで、江漢が寛政5 年(1793)に《地球全図》を制作した際、彼に助言をした馬道良との関係に注目する。馬道良は寛政3 年(1791)幕命により、幕府所蔵ブラウの天地球儀補修を任され、一時天文方に勤務した人物である。馬道良による天地球儀補修の記録書『阿蘭陀天地両球修補製造記』の内容から、《天球十二宮象配賦二十八宿図説》(寛政7 年)がその幅物として、現在国立国会図書館に所蔵されている事が判明した。これは黄道12 宮の星座像が一直線上に描かれた作品であり、江漢の《天球図》に描かれた12 宮像と28 宿とを重ね合わせた図像様式が酷似していた。つまり、江漢同様に宇宙の外側から見て描く西洋の12 宮像に合わせて、中国の28 宿を反転させた作品だったのである。
また、馬道良の息子北山寒巌は、八代将軍吉宗の時代に伝来したと思われる和蘭製《フィッセル改訂ブラウ世界図》(東京国立博物館)の模写《和蘭考成万国地理全図照写》(寛政4~6 年頃、天理大学付属天理図書館)を制作している。江漢の星座図像は、馬道良のものよりもデ・ウィットに近い事を考慮すると、同じくブラウの系譜である《フィッセル改訂》を模写した寒巌の影響力も大きかったのではないかと考えられる。
 しかし、西洋の天球図という主題は、北山晋陽・寒厳父子(馬道良・馬孟煕)と江漢以降において制作例は見られない。それは江戸後期から幕末にかけて、急速に発展する蘭学と近代天文学の導入により、後世においてこの主題が省みられることが無かったからであると言えるだろう。
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