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日本画と西洋画との邂逅(その八) [日本画と西洋画]

(その八)「『浮世絵木版画(鈴木春信・鈴木春重=司馬江漢)』から『洋風銅版画(司馬江漢)』への脱皮」など

鈴木春信・夜の梅.jpg

鈴木春信「夜の梅」 明和3(1766)年頃 32.4×21㎝ メトロポリタン美術館蔵
(「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 浮世絵師、鈴木春信は黒ベタで闇夜を表現した。「夜の梅」は白梅に燭台を差し向ける若い女性の図で、黒一色の背景から女性の顔や手、梅の花が白く浮かぶ。陰影がないので、どこか不思議な世界となっている。(森恭彦稿) 】

悔恨のマグダレン.jpg

ラ・トゥール「悔恨のマグダレン」 1640年頃 133.4×102.2㎝ メトロポリタン美術館蔵 (「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 17世紀半ばのラ・トゥールの「悔恨のマグダレン」はマグダラのマリアが主人公だ。周囲は漆黒の闇。ロウソクを映す鏡は虚栄心、膝の上の頭蓋骨は人生のはかなさ、ロウソクの灯が彼女の悟りを表しているという。(森恭彦稿) 】

≪ 鈴木春信 (?―1770)

江戸中期の浮世絵師。錦絵(にしきえ)の創始者。本姓は穂積(ほづみ)、通称は次郎兵衛、号は思古人。江戸神田(かんだ)白壁町に住み、西村重長(しげなが)の門人と伝えられるが明らかでなく、奥村政信(まさのぶ)、石川豊信(とよのぶ)、鳥居清満(とりいきよみつ)ら江戸の浮世絵師のほか、京都の西川祐信(すけのぶ)の影響も受けて独自の優美可憐(かれん)な美人画様式を確立。生年は1725年(享保10)と推定されているが、その伝記はほとんど不明。活躍期間は1760年(宝暦10)以降の10年間で、ことに最晩年の5年間は人気随一の流行絵師として画壇に君臨した。
 1765年(明和2)江戸の好事家(こうずか)の間で流行した絵暦(えごよみ)の競作は、木版多色摺(ずり)の技術を急速に発展・洗練させたが、それを浮世絵の版元が活用するところとなり、錦絵が誕生した。春信はこのおりの絵暦制作に中心的な役割を果たし、錦絵の商品化にも大きく貢献した。好んで扱った主題は、吉原の遊里風俗のほか、青年男女の清純な恋愛や親子兄弟の和やかな情愛など、市井に繰り広げられる日常生活の場景が目だつ。しかもそれらを古典和歌の歌意などと通わせた見立絵(みたてえ)として表すなど、浪漫(ろうまん)的な情趣濃い造形を得意とし、王朝的美意識を追慕するみやびな絵画世界を確立させた。また最晩年には、江戸の風景を絵の背景に写し込み、あるいは笠森稲荷(かさもりいなり)境内の水茶屋の娘かぎ屋お仙など評判の町娘や吉原遊廓(ゆうかく)における全盛の遊女らを実名で扱うなど、実感的な描写にも意欲を示して次代の方向を明確に予告した。
錦絵の判式はほとんど中判(約28センチメートル×20センチメートル)に限られ、代表作に『座敷八景』(八枚揃(ぞろい)、1765ころ)、『縁先物語』『雪中相合傘』(いずれも1760年代後半)がある。また『絵本花葛羅(はなかつら)』(1764)、『青楼美人合(あわせ)』(1770)などの絵本にも秀作を残したが、肉筆画は少ない。門人に鈴木春重(はるしげ)(司馬江漢(こうかん))、駒井美信(よしのぶ)らがおり、礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)に強い影響を与えた。平賀源内、大田南畝(なんぽ)、大久保巨川らとの交友も注目される。法名は法性真覚居士(こじ)と伝えられるが、菩提寺(ぼだいじ)は不明。[小林 忠]

『小林忠編著『浮世絵大系2 春信』(1973・集英社)』▽『楢崎宗重編『在外秘宝 鈴木春信』(1972・学習研究社)』    ≫(出典 小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

≪ ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour, 1593年3月19日 - 1652年1月30日)は、現フランス領のロレーヌ地方で17世紀前半に活動し、キアロスクーロを用いた「夜の画家」と呼ばれる。
 ラ・トゥールは生前にはフランス王ルイ13世の「国王付画家」の称号を得るなど、著名な画家であったが、次第に忘却され、20世紀初頭に「再発見」された画家である。残された作品は少なく、生涯についてもあまり詳しいことはわかっていない。作風は明暗の対比を強調する点にカラヴァッジョの影響がうかがえるが、単純化・平面化された構図や画面にただよう静寂で神秘的な雰囲気はラ・トゥール独自のものである。≫(「ウィキペディア」)

https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/201008210000/

【 絵師:鈴木春重(司馬江漢)
司馬江漢(しばこうかん)(鈴木春重(はるしげ))(1747~1818年)は、江戸時代中期の洋風画の先駆者である。 彼は、まず狩野派に学び、その後、鈴木春信(はるのぶ)の画風を習熟して、春信様式の美人画を描く。
春信の死後(明和期)は、宋紫石(そうしせき)に南蘋派(なんぴんは)の花鳥画を学んだ。その後、洋風画に転向する。そして、日本初の腐蝕(ふしょく)銅版画(エッチング)の創製に成功し、「三囲景」(みめぐりのけい)を制作する。また、油絵の研究も行い、幅広い分野で活躍し、日本の洋風画の先駆者となる。
 鈴木春重(はるしげ)は、春信門下と言われ、明和後期から安永初期に春信様式の美人画を描き、一見して春信作品と見分けがつかない程(或いはそれ以上)に、習熟して描いた。
春信落款の美人画で春信本人が描いたとは考えにくい一連の作品群があり、今日では春重の作品とみなされている。
それらの絵画は、春信様式を踏襲しながらも、遠近法を加味した創意を見せた作品群である。なお、春重が春信の門下であったとする説には異論もある。 】

楼上縁先美人.jpg

鈴木春重筆「楼上縁先美人」江戸時代・18世紀 中判 錦絵 (東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/554303
【 鈴木春重とは、蘭学者司馬江漢(しばこうかん)のこと。江漢は春信に浮世絵を学び、春信の贋作まで制作したという。一見、春信と見紛う愛らしい美人図だが、大胆な遠近法を用いた縁の構図などに、江漢らしい機知がうかがえる。 】(「文化遺産オンライン」)

https://mag.japaaan.com/archives/47380

【 錦絵と浮世絵の違いとは?
浮世絵を語る上で欠かすことのできないキーワードが「錦絵」です。錦絵とは多色摺りの浮世絵木版画のことを指します。浮世絵と錦絵の違いというよりも、錦絵は浮世絵の手法のひとつ…ということです。
 錦絵(多色摺り)の手法が使われる以前は、墨一色で摺られた墨摺絵(すみずりえ)であったり、墨摺絵に紅色などを加えた紅摺絵(べにずりえ)であったりが主流で、錦絵のような華やかな色合いではありませんでした。
 錦絵は、浮世絵の版元が浮世絵師・鈴木春信(すずきはるのぶ)らに、これまで以上に華やかな摺物をと依頼したことからはじまり、瞬く間に浮世絵の定番の手法となりました。そんなことから、鈴木春信は錦絵を大成させた人物とされています。錦絵は摺師、彫師の技術向上が無くては大成しなかったのも確かでしょう。

  浮世絵で描かれた色々なテーマ(抜粋)
旅行気分で眺めていた「名所絵」→「歌川広重」・「葛飾北斎」など。
遊女や看板娘を描いた「美人画」→「鈴木春信」・「喜多川歌麿」・「歌川国貞」(三代目 歌川豊国)など。
歌舞伎役者は人気の的「役者絵」→」東洲斎写楽」・「歌川国芳」など。
笑わせる気満々のオモシロ「戯画」→「歌川国芳」など。
そのほかにも「芝居絵」・「花鳥画」・「春画」など様々な種類の浮世絵が描かれている。  】

https://www.kumon-ukiyoe.jp/history.html

【 浮世絵の判型 (抜粋)
大判→縦39cm×横26.5cm→ 大奉書の縦二つ切(江戸後期の浮世絵の 最も一般的なサイズ)。特に縦2枚続きの 浮世絵のことを「掛物絵」と呼んだ。
中判→縦19.5cm×横26.5cm→大判の横二つ切
小判→縦19.5cm×横13cm→大判の4分の1
大短冊判→縦39cm×横18cm→大奉書の縦三つ切
中短冊判→縦39cm×横13cm →大奉書の縦四つ切
小短冊判→縦39cm×横9cm→大奉書の縦六つ切
色紙判→縦20.5cm×横18.5cm→大奉書の6分の1
長判→縦19.5cm×横53.5cm 大奉書の横二つ切
柱絵→縦72~77cm×横52.5cm→丈長奉書の縦三つ切
→縦72~77cm×横13cm →丈長奉書の縦四つ切
細判→縦33cm×横15cm→小奉書縦三つ切
→縦16cm×横47cm→小奉書横二つ切     】

三囲之景.jpg

司馬江漢画并刻「三囲之景 MIMEGULI(みめぐりのけい)」江戸時代、天明7年/1787年 銅版筆彩 28.0×39.4 1面 落款「天明丁未冬十月/日本銅板創製/司馬江漢画并刻」反射式眼鏡絵 (神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377197
【(解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。司馬江漢は、天明8年(1788)からの長崎旅行で、大坂の木村蒹葭堂のもとに立ち寄っています。持参した銅版眼鏡絵を蒹葭堂に見せ「誠に日本創製なり」とその技法を感心しさせました。
 天明3年(1783)の「三囲景」の版が磨耗したのでしょうか、江漢は同7年にほぼ同じ構図でこの銅版眼鏡絵を製作しました。この作品では、天明3年版よりも視点を低くとり、土手を歩く人々の表現を強調するようになりました。反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。】(「文化遺産オンライン」)

獅子のいる異国風景図.jpg

司馬江漢画并刻「獅子のいる異国風景図」江戸時代 天明3年頃/1783年頃 銅版筆彩
25.4×38.5 1面 (神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401391
【(解説)
江漢による一連の銅版日本風景図と同じく、反射式のぞき眼鏡で鑑賞するための眼鏡絵のひとつとして描かれたものです。天明3年(1783)に江漢が初めて銅版画として創作した「三囲景」に前後する時期の制作とされています。右方に見える威嚇するライオンは、平賀源内などが所有していた『ヨンストン動物図譜』からとられたものです。全体の構図は同じく江漢による天明4年(1784)の銅版眼鏡絵「広尾親父茶屋」を左右反転したものに近いのですが、全くの異国風景にアレンジしています。】(「文化遺産オンライン」)

広尾親父茶屋図.jpg

司馬江漢画并刻「広尾親父茶屋図」 江戸時代 天明4年/1784年 銅版筆彩 28.2×41.4
1面 落款「日本創製司馬江漢畫/天明甲辰四月」(神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/376994
【(解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。現在の喧騒ぶりからは想像がつきませんが、描かれているのは今の東京の広尾あたりで、広々とした武蔵野の田園に茶屋が一軒という、のどかな風景です。江漢は蘭学者の桂川甫周らをともなって広尾台の「老爺茶屋」で酒宴を開いたことがあり、画中の茶屋がそれに当たると思われます。この版画は反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。】(「文化遺産オンライン」)

江漢画室図.jpg

司馬江漢画并刻「江漢画室図」 江戸時代 寛政6年/1794年 銅版墨摺 26.4×13.7
1面 落款「天明癸/卯九月/初為此/工/日本創製司馬江漢/寛政甲/寅八月」(神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/457159
【(解説)
親しい仲間内に配るための「摺物」として描かれた銅版画だったのかもしれません。地球儀やコンパス、書籍が雑然と置かれた机の向こうには、キャンバスに絵を描く画家と、銅版画用のプレス機で作業する職人が見えます。窓の外は明らかに西洋の風景なので、実際の江漢のアトリエとは思われませんが、自らの画家として、窮理学者としての活動を象徴するような図柄となっています。】(「文化遺産オンライン」)

https://www.ccma-net.jp/wp-content/uploads/2021/09/vol23.pdf

(追記)「鈴木春信の白」(「千葉市立美術館館長 小林忠」)周辺

【 日本は春夏秋冬の季節が順ぐりにめぐってくる、実にありがたい国柄です。常夏のどことやらも、たまの観光には良いものの、いざそこに暮らすことになれば、私などは単調な気候の連続に耐えられなくなりそうです。夏は暑くて当たり前、それも峠を越えて、いつの間にか朝夕には秋風の訪れを感じられる頃とはなりました。
今朝、近くの公園を散歩していましたら、白い芙蓉の花がいくつか咲いていて、かすかな風を涼しげに受けて、揺れていました。その清らかでさわやかな白い花の姿に、おのずと鈴木春信の錦絵が思い出されてきました。そう、待望の「鈴木春信」展が、当館で開催されているのです。
鈴木春信は、私にとって初めて真剣に美というもの、あるいは美のありかについて、しみじみと考えさせてくれた、なつかしい画家なのです。それは二十歳(はたち)の時でしたからもう40年ほど前のことです。そして、卒業論文のテーマに取り上げ、美術の歴史を専門と
する道筋を選ぶ結果となったのも、この画家のせいでした。
それ以来、ずっとその版画の魅力にとらわれつづけてきたものでした。そういう私が自信
を持っておすすめできるのが、今回、山口県立萩美術館・浦上記念館と共同で開催にこぎつけた、この、空前絶後といって良い質と規模の春信展です。シカゴ美術館や大英博物館な
ど欧米の主要な美術館・博物館8館から好意的なご協力が得られ、国内からも公的な機関のみならず多くの個人の方々から貴重な逸品を拝借することができました。総計265点の春信画が一堂に会するのですから、まさに圧巻というほかありません。
春信は、浮世絵の歴史の中間点、それも劇的な転換点に位置する、歴史的にも重要な浮世絵師です。明和2年(1765)、初めて多色刷りの木版画を実現し、これに「吾妻錦絵(あずまにしきえ)」と名付けて、以後の浮世絵黄金期を迎えるきっかけを作ったのでした。「吾妻」は「東」とも書き、京都の西に対して東の江戸で生まれた、錦織物のように色美しい版画だというわけです。春信によって江戸の浮世絵は、本当の意味でのカラー時代に入ったのでした。
何色も色を重ね刷ることが可能になったとき、春信はその天性すぐれた色彩感覚を存分に発揮したものでした。その辺りは、今回会場にお借りできた保存状態の格別に良い錦絵によって、皆様ご自身で実感していただきたいのですが、実は春信版画の魅力は、何も色を刷っていない、紙の地を活かした白にこそあるように、私は思っています。
春信は、版画の料紙に、上質で厚手の和紙、奉書紙を使用しています。ふっくらとして白いその紙の地を、そのままに残して、女性や子供の肌、梅や桜の花、降り積もる雪などの表現に活用しているのです。黒も含めた様々な色に囲まれて、その純白の紙の地の美しく、きよらかに映えていること、驚くばかりです。
私がこの文章を書いている今の時点ではまだ展覧会は始まっていないのですが、すでに予告の段階で、春信展のポスターやチラシが大変好評のようです。それらは、ニューヨークのメトロポリタン美術館からお借りする「夜の梅」という作品をもとに、実に魅力的にデザインされたものですが、このデザイナーは春信版画の魅力を実によく理解してくれたものと、ひそかに感服しているところです。白い梅の花の枝、廊下に立つ乙女の顔と手と下着の白、差し出す手燭のあかりの白、そして、展覧会を案内するすべての文字までもが、本来は夜の闇をあらわす黒のバックに白抜きで浮き出されているのです。
色彩の自由が許されたその時点で、春信は、白の豊かな表現力に気づかされたのでしょう。何も色を与えない「虚」の紙面に、色以上の「実」をそなえさせたその鮮やかな手腕に、つくづく感服させられます。私は以前、春信を「絵筆をもつ詩人」と称したことがありますが、新たに「白の魔術師」という称号を授けたいくらいです。
鈴木春信について語り出すと、ついつい気分が高揚してしまい、ふだんの饒舌がますますつのってしまうようです。この辺りで控えさせていただきましょう。ともかく、これまでになかった、そして少なくともこれから数十年の間この規模では世界中のどこでも開催が不可能と思われる春信展なのです。どうかくれぐれもお見逃しのないようにと、願わずにいられません。
千葉でご覧いただけなかった節には、どうか次の山口県萩市の会場までお出かけになるよう、おすすめいたします。それくらいの時間と旅費を費やしても、十分にお釣りがくるほどの値打ちものだからです。(小林忠稿) 】

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