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日本画と西洋画との邂逅(その十) [日本画と西洋画]

(その十)「洋風画の先駆者・司馬江漢」と「浮世絵の巨匠・北斎」との「富士山之景」など

司馬江漢筆「駿州柏原富士図」.jpg

司馬江漢筆「駿州柏原富士図」江戸時代、文化9年/1812年 絹本淡彩 39.6×72.3 1幅
款記「駿州柏原 文化壬申初冬写於京師 東都江漢司馬峻七十五翁」朱文円印「西洋画士」白文方印「司馬」「峻」 来歴:1957神戸市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 →A図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/429592
【 (解説)
 その作者の名前も知らず、落款も見ないままにこの絵を目にしたなら、多くの人が近代以降の作品と見紛うでしょう。筆者・司馬江漢(1747〜1818)は江戸時代に「西洋画士」の称号をほしいままにした画家ですが、銅版画からも油彩画からも遠ざかっていた晩年の風景画でもその風景画家としての本領が発揮されています。
款記から文化9年の京都滞在中に描いた作品とわかりますが、これは江戸から関西への道中に目にした景色なのでしょう。富士の巨大な山塊と、その麓にのびやかに広がる田園が、空気遠近法的な壮大な空間を感じさせます。これとは対象的に、前景にはほのぼのとした民家が描かれ、「写実の追求」というモットーだけでは収まらない、この画家の懐の深さを感じさせます。 】(「文化遺産オンライン」)

司馬江漢 《駿州薩陀山富士遠望図》.jpg

司馬江漢 「駿州薩陀山富士遠望図」 1804(文化元) 絹本油彩 78.5×146.5cm (静岡県立美術館蔵)→B図
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/pt1_07.php
【青い空、波の表現など、従来の日本画にはない油絵独特の新奇な表現。西洋油彩技法を独学した江漢は、富士を題材に多くの油彩画をのこしたが、本作は最後に描いたもので、寸法も最大。右上には「日本最初のユニークな人物」という意のオランダ語の表記がある。】

司馬江漢筆「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図」.jpg

司馬江漢筆「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図」 肉筆 双幅 文化(1810年)頃の製作 個人蔵 (紙本墨画淡彩?)→C図
https://harady.com/enoshima/ukiyoe/kohkan.html
【岩屋海岸の男性的な様相の岩場とやさしい富士を配した双幅(2枚が対になっている掛物)。富士の手前にはエボシ岩もはっきりと描かれている。エボシ岩は随分と大きく書かれているが戦後、米軍の射撃演習に使われ島の形が変わって小さくなったといわれる。】

≪ 彼(司馬江漢)は、富嶽図、七里ヶ浜、駿州八部富士、品川富士遠望、駿河湾富士遠望、富嶽遠望、富士に小鳥図、駿州薩陀山富士遠望、隅田川富士遠望、駿州薩埵山富士、駿州薩埵峠の富士、駿州原駅、駿州長沼村眺望、駿州吉原駅、駿府城、駿州柏原、駿州岩淵、駿州補陀落山、相模景鳥村、自相州大山眺望、遠州金谷、江之島富士眺望、下総利根川今井渡、下総木更津、目黒駒場、品川沖など、さまざまな場所から見た富士の姿を、油絵・墨画・淡彩・木版・泥絵などさまざまな手法で描いている。まさに「富士の江漢」と言えるだろう。≫(『司馬江漢「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生」(池内了著)』P80)

七里浜 TNPERJENOSIMA.jpg

「七里浜 TNPERJENOSIMA」 銅版画 / 江戸 司馬江漢 (1747-1818) 江戸時代、天明7年/1787年 銅版筆彩 28.4×41.5 1面 落款「丁未秋日司馬江漢刻并画」反射式眼鏡絵 来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館→D図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/410725
【 (解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。高い視点から俯瞰する表現をとっています。ここで司馬江漢の関心は富士山よりも、江之島・小動岬(こゆるぎみさき)を奇怪な岩塊として表すこと、池のように静かな太平洋に無数のさざ波を描き、ある種のリズム感を表出しようとしたのかもしれません。寛政年間(1789-1801)の油彩画「相州鎌倉七里浜図」(当館蔵)に見られるようなダイナミックな空間と動感を示すまでには至っていません。】(「文化遺産オンライン」)

 「さまざまな場所から見た富士の姿を、油絵・墨画・淡彩・木版・泥絵などさまざまな手法で描いている。まさに『富士の江漢』」の、それらの「富士の景」は、「駿州柏原富士図」(A図)は、「円山派(円山・四条派)」の「平明な写生画法」、「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図」(C図)は、「文人画(南画)」の「水墨画基調の南宗画風」、そして、その多くは、「駿州薩陀山富士遠望図」(B図)にみられる「秋田蘭画」を基調とする「洋風画(陰影法・遠近法)」とに、大きく区分けすることが出来る。
 そして、「洋風画(陰影法・遠近法)」は、「七里浜 TNPERJENOSIMA」(D図)の、司馬江漢が自ら「日本創製司馬江漢畫」と称する「銅版画」(江漢の「春重」時代の「浮世絵」=「木版画・錦絵」を基礎に反転創製している)が、その基盤となっている。

神奈川沖浪裏.jpg

1. 神奈川沖浪裏「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「凱風快晴」「山下白雨」→大波、3隻の船、背景の富士山、と3つの要素で構成されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B6%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF

凱風快晴.jpg

2. 凱風快晴「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「神奈川沖浪裏」「山下白雨」→本図は甲斐国側(三ツ峠周辺)か駿河国側(沼津周辺)か両説がある。「赤富士」と呼ばれる。

山下白雨.jpg

3. 山下白雨「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」→富士に大きな稲妻、「黒富士」と呼ばれる。

深川万年橋下.jpg

4. 深川万年橋下「※北斎改為一筆」(1831年)→隅田川の太鼓橋の弧と橋桁の遠景に富士そして、一人の釣り人。

尾州不二見原.jpg

5. 尾州不二見原「※北斎改為一筆」(1831年)→愛知県名古屋市中区富士見町周辺、巨大な樽の中から田園風景の彼方に遠景の富士の姿。

相州七里浜.jpg

11. 相州七里浜「※※北斎為一笔」(1831-34年)→「七里浜 TNPERJENOSIMA(司馬江漢)」など。

東海道江尻田子の浦略図.jpg

27東海道江尻田子の浦略図「※※※前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)
(1831-34年)→「田子浦富嶽遠望図(宋紫石・大和文華館)と「凱風快晴」との関連。

相州江之島.jpg

28. 相州江之島「※※※前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)(1831-34年)
→「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図(司馬江漢)」など

駿州片倉茶園ノ不二.jpg

39. 駿州片倉茶園ノ不二「※※※※前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が墨摺)(1831-34年)→「駿州薩陀山富士遠望(司馬江漢)など。

諸人登山.jpg

46. 諸人登山「前北斎為一筆」(※※※※「為」が正方形に近い、主版が墨摺)(1831-34年)→静岡県富士宮市・富士山頂、富士の全体を描かず山頂の情景のみ(巻末の意を含む?)。

≪『冨嶽三十六景』は、葛飾北斎による富士図版画集である。1831-34年(天保2-5年)版行。全46図。大判錦絵、版元は西村屋与八(永寿堂)。

 個々の作品は、落款の違いによって、「北斎改為一筆」・「前北斎為一笔」・「前北斎為一筆」・「前北斎為一筆」(「為」が草書で主版が藍摺)・「前北斎為一筆」(「為」が草書で主版が墨摺)の5グループに分けられる。
この内最後の、主版が墨摺の「前北斎為一筆」10図(裏富士)が一番新しいのは明らかなので、「前北斎為一筆」でない「北斎改為一筆」が一番早いものと推測できる。
残り3タイプの内、唯一の「笔」が藍摺りものなので、『正本製』に「藍摺」と言及されていることを考慮すると、「北斎改為一筆」に次ぐと推測できる。
残り2タイプの内、最後と決まっている、主版墨摺「前北斎為一筆」と同様に、草書体「為」と同じ方が新しいと推測すると、
 
1 「北斎改為一筆」 → ※印
2 「前北斎為一笔」 → ※※印
3 「前北斎為一筆」(「為」がやや縦長)
4 「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)→※※※印
5 「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が墨摺)→※※※※印

の順になり、それぞれの該当作品を挙げると、

1 全10図:「※1神奈川沖浪裏」・「※2凱風快晴」・「※3山下白雨」・「※4深川万年橋下」・「※5尾州不二見原」・「6甲州犬眼峠」・「7武州千住」・「8青山円座松」・「9東都駿台」・「10武州玉川」
2 全10図:「※※11相州七里浜」・「12武陽佃嶌」・「13常州牛堀」・「14甲州石班澤」・「15信州諏訪湖」・「16遠江山中」・「17甲州三嶌越」・「18駿州江尻」・「19東都浅艸本願寺」・「20相州梅沢左」
3 全5図:「21下目黒」・「22上総ノ海路」・「23登戸浦」・「24東海道吉田」・「25礫川雪ノ且」
4 全11図:「26御厩河岸より両国橋夕陽見」・「※※※27東海道江尻田子の浦略図」・「※※※28相州江の嶌」・「29江戸日本橋」・「30江都駿河町三井見世略図」・「31相州箱根用水」・「32甲州三坂水面」・「33隠田の水車」・「34東海道程ヶ谷」・「35隅田川関屋の里」・「36五百らかん寺さざゐどう」
5 全10図:「37身延川裏不二」・「38従千住花街眺望ノ不二」・「※※※※39駿州片倉茶園ノ不二」・「40東海道品川御殿山ノ不二」・「41甲州伊沢暁」・「42本所立川」・「43東海道金谷ノ不二」・「44相州仲原」・「45駿州大野新田」・「※※※※46諸人登山」 になる。

(注1)図版順(1-46)は、「日野原健司 『北斎 富嶽三十六景』岩波書店〈岩波文庫〉」による。
(注2)その46図中より、上記10図を掲げる。※印から※※※※印は、その落款の「署名」(制作年次)などによる。また、この10図の掲図は、北斎の代表作品の他に、司馬江漢などの掲図と同じ場所のものを選定してある。 ≫(「ウィキペディア」などにより作成)

≪ 「葛飾北斎年譜」

宝暦10年(1760年10月31日) 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角)にて生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎。のち、鉄蔵と称す。
明和元年(1764年) 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、家を出る。貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ね、実家へ戻る。画道を志す。
安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。
安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。
寛政6年(1794年) 勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、3代目堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。
寛政10年(1798年) 「宗理)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。
享和2年(1802年) 狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。
文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる。
文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。
文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
文化11年(1814年) 『北斎漫画』の初編を発刊。
文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』を手がける。
天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。北斎83歳、鴻山37歳であった。
弘化元年(1844年) 向島小梅村に、また浅草寺前に住む。大塚同庵の紹介により歌川国芳と出会う。信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』などを描く。
嘉永2年4月18日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。 ≫(「ウィキペディア」)

 司馬江漢(1747-1818)と葛飾北斎(1760-1849)とは、江漢が一回り先輩だが、北斎は、江漢の「浮世絵の鈴木春重」時代から、常に、時代の先端を走っていた「日本創製司馬江漢畫」と称する「銅版画」、そして、「西洋畫士 東都 江漢司馬峻 描寫 S:a.Kookan Ao:18.」と署名する「洋風画」を樹立していった「司馬江漢」を、その目標の一つにしていたことは想像する難くない。
 事実、「ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった」(「ウィキペディア」)と、「晩年人付き合いが煩わしくなり、文化10年(1813年)、自分の死亡通知を知人達に送り逼塞していた」という「司馬江漢」と、晩年の号に「画狂人・画狂老人・卍・是和斎」と名乗り、「改号すること30回」「転居すること93回」の末に、「卒寿(90歳)にて臨終を迎えた」「真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す」と伝えられている(「ウィキペディア」)「葛飾北斎(「北斎」の号も晩年に弟子に譲っている)」と、この二人を、二大巨峰(「江戸時代中期から後期の巨峰(司馬江漢)・「江戸時代後期の世界に冠たる巨峰人(葛飾北斎)」に称えることにやぶさかでははない。
 と同時に、葛飾北斎の『富嶽三十六景』(富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物で、主板の36図、および好評により追加された10図の、計46図。初版は1831年(天保2年)頃に開版、33年頃に完結している。落款は北斎改為一筆。版元は西村屋与八(永寿堂)と、『富嶽百景』(半紙本全三冊からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明。版元は 、初編・二編が西村屋佑蔵ほか。三編は永楽屋東四郎。画号は、前北斎改為一改画狂老人卍)とは、文政元年(1818)の、その七十二年の生涯の、その「さまざまな場所から見た富士の姿を、油絵・墨画・淡彩・木版・泥絵などさまざまな手法で描いた、まさに『富士の江漢』」への、その餞のメッセージと解することに、これまた、やぶさかではない。

(追記一)江漢「春波楼筆記」(1811)→ 富士山論、風景画論  

http://koktok.web.fc2.com/hom_page/53Travel/index.htm

○吾国にて奇妙なるは、富士山なり。これは冷際の中、少しく入りて四時、雪,嶺に絶えずして、夏は雪頂きにのみ残りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、まことに奇観とす、・・それ故、予もこの山を模写し、その数多し。蘭法蝋油の具を以て、彩色する故に、彷彿として山の谷々、雪の消え残る処、あるいは雲を吐き、日輪雪を照らし、銀の如く少しく似たり。

○吾国画家あり。土佐家、狩野家、近来唐画家(南画)あり。この冨士を写すことを知らず。探幽(狩野探幽)冨士の絵多し、少しも冨士に似ず、ただ筆意勢を以てするのみ。また唐画とて、日本の名山勝景を図すること能わず、名もなき山を描きて山水と称す。・・何という景色、何という名山と云うにもあらず、筆にまかせておもしろき様に、山と水を描き足るものなり。これは夢を描きたると同じことなり。是は見る人も描く人も一向理の分からぬと言う者ならずや。

○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし。
富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。
之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて・・写真鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。唐画の如く。無名の山水を写す事なし。

(追記二)北斎の豪華摺物と錦絵の時代

https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/index.html

(追記三)北斎の「画狂老人卍期の作品」

https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/index.html

(追記四)「北斎の花鳥画にみる江戸の新『漢画』ーー南蘋風の吸収源について」『慶應義塾大学アート・センター年報/研究紀要』

https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.phpPDF

北斎・赤富士と宋紫石・富士.jpg

(上図)→≪2. 凱風快晴「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「神奈川沖浪裏」「山下白雨」→本図は甲斐国側(三ツ峠周辺)か駿河国側(沼津周辺)か両説がある。「赤富士」と呼ばれる。≫
(下図)→「田子浦富嶽遠望図(宋紫石・大和文華館)

(追記五)「葛飾北斎」の「富嶽三十六景・富嶽百景」と「歌川広重」の「富嶽三十六景・富嶽百景」周辺
 
https://kanazawabunko.net/art/3069

葛飾北斎が1831年に『冨嶽三十六景』を出版したとき、彼は72歳でした。北斎の大胆でエネルギッシュな風景画に多くの人が驚愕し、無論、歌川広重も驚いた一人でした。当時広重は37歳。北斎は72歳。35歳も年上の北斎に圧倒され、絵を習うために、北斎の工房に通ったともいわれています。ちょっとここで二人の作品を比べてみましょう。

神奈川沖浪裏.jpg

葛飾北斎「冨嶽三十六景「神奈川沖波裏』」

駿河薩タ之海上.jpg

歌川広重「冨士三十六景「駿河薩タ之海上」
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