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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行 [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その二)「シーボルト江戸参府紀行図」(「1826年(文政9年)」)と参加者

(別記)「シーボルト江戸参府紀行図」

オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦.gif

「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html

「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)

≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
 参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
 なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
 また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫

 上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」.gif 

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%AB

 「渡辺崋山の描いたランプについて(大谷勝治郎稿)」(「Untitled - ライデン大学東京事務所」)には、上記の戯画とともに、「滝沢馬琴・屋代弘らの九人の筆で纏めた『兎園小説外集』の、次の「カピタンが献上目次 文政九年丙戊三月廿五日」が、詳細に紹介されている。

カピタンが献上目次 .gif

「カピタンが献上目次 文政九年丙戊三月廿五日」(抜粋) 「渡辺崋山の描いたランプについて(大谷勝治郎稿)」(「Untitled - ライデン大学東京事務所」)

 ここに出てくる、この三人が、この「江戸参府」の公式メンバーの三人で、それは、「かぴたん(カピタン=オランダ商館長):すてゆるねす(スチュルレル・52歳)」、「役人(書記):ぴゅるげる(ビュルゲル・22歳)」、そして「外科(医師):しいぼると(シーボルト・24歳)」ということになる。
 これらの三人について、下記のアドレスのものと「ウィキペディア」などで、紹介して置きたい。

【 ヨハン・ウィレム・デ・スチュルレル(de Surler, Joan Willem, 1773 マーストリッヒ– 1855 パリ)
 シーボルトとともに 1823 年に来日。当時陸軍大佐で前任者ブロムホフ(J. Cock Blomhoff)のあとをうけて出島のオランダ商館長となる。在任中ジーボルトとはげしく対立し、総督に対しジーボルトに不利な報告をした。貿易改善には力を注いだが、厳格に過ぎてその目的を達成することができなかった。1826(文政九)年の末にバタヴィアに帰る。のちシーボルト事件がおこりその処分が決定されると、彼に対しても日本への再渡禁止が伝えられた。
(http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/16-10-villeneuve-karel-hubert-de.html )

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音を日本語で表記すると「ズィーボルト」「ジーボルト」だが、日本では「シーボルト」と表記されることが多い。出島の三学者の一人。(「ウィキペディア」)

ハインリヒ・ビュルゲル(Heinrich Bürger、Heinrich Burger、1804年2月29日か11月7日か1806年1月20日生まれ、- 1858年3月25日)はドイツ生まれの薬剤師、生物学者である。オランダ政府に雇われてシーボルトの助手となって日本に滞在した。シーボルトの日本の動植物に関する研究において重要な役割をはたした。(「ウィキペディア」) 】

 この三人の他に、シーボルトが公式メンバーの一人として参加させようとした「画家・フィルヌーヴ(ウィルヌーヴ,フィレニューフェ,フィレネウフェ)」と、「ヘルマン・フェリックス・メイラン(「シーボルト事件時の商館長)・ファン・デル・カペレン男爵(シーボルト日本派遣時の東インド総督)」とを同記のアドレスで紹介して置きたい。

http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/16-10-villeneuve-karel-hubert-de.html

【 ウィルヌーヴ(ウィルヌーヴ,フィレニューフェ,フィレネウフェ),Villeneuve, Karel Hubert de (Charles Hubert de, Carel Hubert de, 1800 - 1874. 09. 29) は,フランス系オランダ人で, Saint-Omer, Pas-de-Calais, Nord-Pas-de-Calais, France,サントメール、パ=ド=カレー県,ノール=パ・ド・カレー地域圏,フランス(一説にはオランダのハーグ),で,Arnould de Villeneuve と Maria Sybilla van Halmの息子として生まれ,蘭領東インド陸軍病院に勤務していた.文政8 (1825) 年シーボルトの招きで,薬剤師ビュルガーと共に来日した。
 一時ジャワに渡りバタヴィアで Maria Johanna Josephine van Wingerden (マリア・ヨハンナ・ヨセフィナ・ファン・ウィンヘルデン)と結婚し,1829年8月19日に妻を伴ってジャワ号で再来日したが,女性の上陸は認められず,マリアは船上で生活し,彼は四カ月間,船から商館に通った。
左図(省略)は唐絵目利・御用絵師であった石崎融思が,一日,出島役人に従い実見した上で描写した.賛には彼女の「名はミミー(彌々)で1 9 歳,画工フィレニューフェの妻」とある。
その後マリアは,国外追放となったシーボルト(ハウプトマン号)と共に,1829年12月,ジャワ号でバタヴィアに送り返された。
 フィルヌーヴは絵画に優れており,シーボルトの助手として動植物の生態,風俗,人物画などを描いた.また,川原慶賀に西洋画の技法を指導した。現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画 』,『石橋助左衛門像』がある。
彼の画は,シーボルトの著作『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに散見されるが,写実的で正確な筆致の描写がうかがわれる.特に慶賀が苦手とした哺乳類の描画に優れ,シーボルトが追放された後も多くの絵を送った。 

ヘルマン・フェリックス・メイラン(Meijlan,Germain Felix,1775 ライデン - 1831 バタビア(現ジャカルタ))
 江戸時代後期のオランダの長崎出島商館長。 1806年東インド会社会計副検査官となり、のち検査官、地租監督官を経て、26年日本商館長に任命され、文政 9 (1827) 年長崎に着任した。在任中は、脇荷貿易(対日私貿易)の改善、1829年のシーボルト事件では円満解決につくす。バタビアに帰任してまもなく 46歳で死去。日本事情を調査し、日本誌"Japan" (1830) および『日本貿易史』 Geschiedkundig Overzigt van den Hendel der Europezen op Japan (1833) を著わした。

ファン・デル・カペレン男爵(Baron van der Capellen, Godert Alexander Gerard Philip, 1778 – 1848)
1815 年に、Cornelis Theodorus Elout と Arnold Adriaan Buyskes と共に、 Commissioners-General of the Dutch East Indies に任命され,1819年にオランダ領東インド総督 (Governor-General of the Dutch East Indies, Gouverneur-generaal van Nederlands-Indië) として、ジャワに赴任。本国政府の政策を受け、日本との貿易を革新するためには、日本を総合的・科学的に調査・研究する必要を認識し,シーボルトを出島の医師として派遣した.この目的のために,シーボルトに財政的・精神、に多大の援助を与えた。 】

 また、下記のアドレスにより、「スチュルレル」の前任の商館長(プロムホ)なども、ここに併記して置こう。

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

【 ヤン・コック=ブロムホフ(1779-1853、Jan Cock Blomhoft)
 オランダのアムステルダムに生まれる。1809年に荷倉役として赴任し、フェートン号事件の際には当時の商館長ドゥーフと共に活躍し、その後1817年に商館長として再赴任する際、家族を同伴して来日したことで知られる。オランダでの公的な日本コレクションはブロンホフに始まったとされ、日本の文化風俗を伝える様々な文物を持ち帰った。ブロンホフの持ち帰った江戸後期の出島模型を元にして、長崎の出島復元事業は進められている。

 ヨハン・ゲハルト・フレデリック・フォン・オーフェルメール=フィセル(1800-1848、Johannes Gerhard Frederik van Overmeer Fisscher )
 オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。】(「川原慶賀の見た江戸時代の日本1 - 長崎歴史文化博物館」)

 この時の、「日本人」の随行者は、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)p129」によると、その主だったメンバーと役職などは次のとおりである。

一「付添検使」(この旅行の責任者。江戸から派遣されている長崎奉行配下の「給人・御番所衆」=幕府・大名から知行地あるいはその格式を与えられた旗本・家臣など)=「川崎源蔵」の名で記述されている(この「川崎源蔵」は「シーボルト事件に関する申渡書」に出てくる「大草能登守の家臣・水野平兵衛」ではないかとされている。)
二「大通詞」(オランダ語通訳官の長官)=「末永甚左衛門」
三「小通詞(「大通詞」に次ぐ通訳官)=「岩崎弥十郎」
四「公使(使節・商館長)の私設通詞」=「名村八太郎」
五「宰領」(「付添検使」下の「世話人」)=二人?
六「筆者」(「書画」を筆記する人)=四人?
六「賄方」(料理人の責任者)=二人?
七「同心」(下級の役人)・「従僕」(私設の下男)=三十一人? など「随員は日本人合計57名」

 これらの「江戸参府紀行の使節団」関連として、下記のアドレスでは、下記のように紹介している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html

≪ オランダ商館の重要な仕事の一つに「江戸参府」があります。独占貿易の感謝を伝えるため、商館長自ら献上品を持って江戸まで赴き、将軍に拝謁するというものです。貿易が盛んだった時代は毎年行われており、1690年から2年滞在したケンペルは、2回江戸参府に参加することができました。ところが、貿易量が半分に落ち込んだ1790年以降は4年に1回になり、シーボルトは6年間滞在したにも関わらず江戸参府参加は1度だけでした。
「日本の調査」というミッションを持ったシーボルトにとって、日本縦断の旅は最大のチャンス。「江戸参府紀行」の序文で「国土とその産物について得た知識ならびに国民の文化程度。商工業・国家や国民の社会慣行などについての私の見聞を、あらゆる方面にわたって広げることがいまや来るべき江戸旅行の主目的であった」と書いています。
 この旅で最大限の成果をあげられるよう、2年かけて入念な準備をしました。調査は1人で行うよりも複数のほうが効率的です。そこでシーボルトは調査団を作ることにしました。
 江戸参府に参加できるオランダ人は商館長、書記、医者の3名だけです。ただしオランダ人が自分で費用を負担すれば、複数の従僕を連れていくことが許されていました。そこでシーボルトは、専門性の高い能力を持った8名を雇い入れ「チーム・シーボルト」を結成したのです。
「ビュルガー」(注:「ビュルゲル」、「書記」として「公式随行員」として参加している。)
 ビュルガーは1825年に、シーボルトの日本調査を手助けするために派遣された人物で、江戸参府には「書記」として参加しました。この旅でビュルガーは、シーボルトの右腕として大活躍、旅行記には幾度となく名前が出てきます。(略)ビュルガーは主に地質学の分野を担当していたことがわかります。
「川原慶賀」(注:「筆者」又は「シーボルト」の私設「従僕」?)
 写真が発明される以前は、記録として残しておきたい物は絵に描くしかなく、画家を連れていく必要がありました。本国から呼び寄せたオランダ人の画家がいましたが、江戸参府には行けるオランダ人が三人と決まっていたために、シーボルトが日本に来る以前からオランダ商館専属の絵師として出島に出入りしていた川原慶賀に白羽の矢が立ちました。
「高良斎」他(注:公式の「従僕」か「シーボルト私設の従僕」かは、不明?)
 阿波出身の医師で、シーボルトが信頼する門人の一人。オランダ語がスラスラで、植物学と漢学に長けていることからメンバーに選ばれました。良斎のほかにも医学の門人「二宮敬作」、「ショウゲン」「ケイタロウ」らも同行しました。いく先いく先、シーボルトに治療してほしい病人が詰め掛けており、彼らがシーボルトの助手をつとめたものと思われます。
 「弁之助」「熊吉」という作業担当のメンバーがいました。捕えた動物を剥製(はくせい)にしたり、採取した植物を乾燥させて標本にしたりするのが彼らの仕事。こういった技術は出島にいるときに仕込んでおきました。「庭師」も一人同行、植物の採取などを担当したと思われます。猟師も連れて行きたかったのですが、旅行中の狩猟は禁じられていたため諦めました。
「外部スタッフ」
 長崎でシーボルトの指導を受けた門人たちのうち、すでに地元に戻っていた者たちは、シーボルトが滞在している宿まで訪ねてきました。地元の産物を集めてくる者もいれば、学位論文を提出する者もいます。また他にも、手紙のやり取りで知り合った者や、現地で会い、そのまま門人になった者など多数の「外部スタッフ」がいました。主な人物としては「山口行斎」「水谷助六」「伊藤圭介」「大河内存内」「湊長安」「最上徳内」が挙げられます。≫
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