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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その三) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その三)「シーボルト『江戸参府行列図』」(「1826年(文政9年)」)周辺

江戸参府行列図.gif

「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html

 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。

 この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
 そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)

ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・

一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。)

(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)

「シーボルト 江戸参府紀行(1)」

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/

≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序

概要

……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防   

……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
 私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
 政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)

……※和蘭使節の一行(抜粋)
 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)

……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)

 (大通詞)
 本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。

(小通詞)
 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。

 (公使=商館長の「私設通詞」)
 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。

 (付添検使=御番上使=給人)
 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
 彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。

 (従者)
 われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。

 (シーボルトの「私設従者」など)
 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
 乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12)

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その一

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

≪解説

 著者のフィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher, 1800-1848)は、1820年から1829年の間にかけて日本に滞在した出島商館員で、ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777-1835)の後任商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff, 1779-1853)の江戸参府(1822年)にも随行しています。フィッセルは滞日中に書物、焼き物、絵画、仏像、衣装などを大量に蒐集していて、現在もそれらはライデンの民族学博物館に収蔵されています。
 本書は、これらを活用しながらフィッセル自身の見聞をまとめた日本論です。テキストは全12章構成で、各章ごとに設けられたテーマに沿って、フィッセルが調べたことや見聞したことが記されています。特に人々の文化や生活についての記述が充実しており、書物だけからではなく、実際に彼が見聞したことに基づいて書かれてるため、当時の日本文化を知るための優れた資料と言えます。
 フィッセルの帰国後1833年に、本書は刊行されましたが、図版に彩色を施して特別の装丁を誂えた特装版と、白黒の図版を収録する通常版との二種類があり、当館が所蔵しているのは特装版です。表紙には、徳川家の葵紋と天皇の菊花紋(ただし一部改変されています)が金箔で描かれています。本書は、フィッセルが持ち帰ったコレクションから取られた図版が豊富に収録されていることも特徴の一つで、口絵に描かれた神農と伏犧の図は、葛飾北斎の『北斎漫画』に掲載されている同図を参考にしています。本書に収録された他の図版も北斎や川原慶賀ら日本の画を典拠としています。
 まず、前書きでは、日本について調査することは、外国人にとって容易ではないことを強調。続く序文では、習慣・宗教・政治についてヨーロッパに劣らない日本という国について正しい像を描き出すことが、本書の意図であると述べています。序文は日本についての概説にあてられており、日本の歴史、ヨーロッパ人との交流史、統治機構、階級制度、司法制度、税制、交通網、食べ物、人々の気質などについてコンパクトに解説しています。

 第1章(65ページ)は地理情報を解説しており、富士山を描いた図が冒頭に掲載されています。緯度、経度、地形の特徴や気候、産出物、山河の風景、支配領域などがここでは説明されます。

 第2章(88ページ)は学問と言語を扱い、かな文字の一覧図が掲載されています。ここでは日本語の考察に特に力が入れられており、ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777-1835)がフランソワ・ハルマ(François Halma, 1653-1722)による蘭仏辞書を基礎として作成した蘭和辞書ドゥーフ・ハルマも賞賛しながら紹介しています(92ページ)。また、100ページからは、オランダ語とアルファベットで表記した日本語とを併記した会話帳も収録しています。

 第3章(116ページ)は、骨董品や古銭、稀覯品についての紹介で、老哲学者を描いた図が掲載されています。ここでは、「珍しい(Mierasji)」とされる日本の品々が紹介されています。第4章(129ページ)は、書画の技法について論じ、絵を描く婦人の図が掲載されています。日本の技術はヨーロッパには及ばないとしながらも、独特の画法を有しているとして紹介されています。

 第5章(137ページ)は、宗教を扱い、寺院の内部を描いたとする図が掲載されています。ここでは、日本人は自身が神の末裔であると信じていると紹介し、神道の解説から始められています。またその関連で内裏(天皇)と公家のしきたりについても紹介しています。続いて仏教についても解説しています。

 第6章(158ページ)は、兵器と武器について解説しており、源義経を描いた図が掲載されています。日本は、武力と勇敢さでその独立を確立した国であるとして、軍機構や演習の様す、具体的な武器について紹介しています。

 第7章(175ページ)は、奢侈と贅沢についてと題されていて、贈答習慣や衣装、豪華な食事、祝祭日などが紹介されています。ここでは女中にかしずかれた礼装の日本人夫妻を描いた図が掲載されています。

 第8章(197ページ)では、様々な娯楽を紹介しており、旅芸人を描いた図が掲載されています。日本人は娯楽の追求に熱心で、もはや義務であるかのようであると論じています。音楽や舞台芸術、見世物についての紹介もされています。

 第9章(211ページ)は、動植物についての解説で、特に人々の生活に関係する動植物について説明しています。馬車が利用されておらず、乗馬以外の目的に使われていないことや、羊やロバが全くいないことを報告しています。ここには農業神としての稲荷大明神の図が掲載されています。
 第10章(223ページ)は、家事と生活を解説しており、日本では家事が極めて簡素に済ますことができるため、余暇に充てる時間が豊富であると述べています。また、日本の清潔さを賞賛する一方で戸締り設備がほとんどない点を欠点としてあげています。後半では衣装や化粧についても説明しています。ここでは5歳の袴着の儀を描いたと思われる図が掲載されています。

 第11章(240ページ)では、工業、産業全般を論じており、職人による版木掘りの場面を描いた図が掲載されています。職人が道具の手入れに熱心であることや彫刻の人気が高いこと、職人の賃金などの説明のほか、造船技術についての解説もあります。

 最後の第12章(254ページ)は、雑録として、ジャワから日本までの航海や、長崎に到着した際の様子、出島商館についての詳しい解説(264ページ)、そして江戸参府紀行(281ページ)に関する説明がここにはまとめて収録されています。収録されている図版は、野外での宴会を描いた図、礼服を着た男性の図、普段着の女性の図です。(「羽田孝之」稿 ≫
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