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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その四) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺

長崎より小倉までの紀行.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

1  2/15  1/9   晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2  2/16  1/10   晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など
3 2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4 2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5 2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6  2/20 1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7 2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲
8 2/22  1/16 晴 小倉-下関   小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など

「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」.jpg

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/baai-nagasaki-fregatschepen-kawahara-keiga?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&identifier=KONB11%3A360-7887

「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」(川原慶賀筆)制作年次:1823、制作場所:長崎県・日本、大きさ:60 × 80センチメートル、所蔵館:フォルケンクンデ国立美術館=ライデン国立民族学博物館
「解説:この長崎湾の絵は、1824年頃に日本の画家川原慶賀によって作られました。オランダの商館が位置する出島という人工島は、扇形であることがよく分かります。描かれている船はオランダのフリゲート艦アリヌス・マリヌスとアイダ・アレイダと思われる。」

 この絵図の所蔵は、「フォルケンクンデ国立美術館=ライデン国立民族学博物館」所蔵で、次のアドレスのものにより、「ライデン国立民族博物館」の「フィセル・コレクション」(「シーボルト・コレクション」のものではない)で、「4枚一組」のものの一枚のようである。

https://misakimichi.com/archives/3908

≪ 眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。 ≫

眺望図は4枚一組.jpg

「長崎湾眺望図」(「ライデン国立民族学博物館(フィセル・コレクション)」
(『川原慶賀の「日本」画帳―シーボルトの絵師が描く歳時記(下妻みどり著)』所収「口絵」)

≪ ヨハン・ゲハルト・フレデリック・フォン・オーフェルメール=フィセル(1800-1848、Johannes Gerhard Frederik van Overmeer Fisscher )
オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。≫

この「フィセル(フイッセル)」(1800-1848)は、「スチュルレル1773-1855))・シーボルト(1796-1866)」らの、この「江戸参府」(1826)の前の「江戸参府(1822)を、使節(商館長)「プロムホフ」(1779-1853)の片腕の「書記」として随行し、その「「プロムホフ」と「スチュルレル」との「商館長」交替後も商館員として残り、「シーボルト事件」(1827にシーボルトの帰国の先発として出国した船が難破し、その積荷に幕府禁制品の地図があったことによる「出国停止(1828)と国外追放処分=1830」を受けた事件)の、その最中(1829)に帰国の途に着いている。
 この「「フィセル」の「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)を前回(その三)で、追記をしたが、その画像などは、「プロムホム・フイッセルそしてシーボルト」の、「オランダ・ライデン国立民族博物館の所蔵作品」の、その中の「川原慶賀作品」なのかどうかを含め、随時、追記ということで、その全容を見ていくことにしたい。

長崎港と湾(出島)の展望.gif

『日本』に掲載されている「長崎港と湾(出島)の展望」(Nippon Atlas. 1-p16)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

江戸参府紀行2.gif

『日本』に掲載されている「駄馬・駄牛・人足及び旅人」(Nippon Atlas. 5-p2)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=3&r=0&xywh=238%2C425%2C3251%2C3631

(再掲)

江戸参府紀行三.gif

シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇
『日本』に掲載されている「オランダ使節団の行列」(Nippon Atlas. 5-p5)
「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)所収
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-688%2C-291%2C5202%2C5811

大村湾付近f.gif

大村湾駄付近の郡川の景
『日本』に掲載されている「大村湾駄付近の郡川の景(上図)」と「大村へ向かう山道(下図)」(Nippon Atlas. 5-p8)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

大村湾千綿.gif

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1667&cfcid=145&search_div=kglist
●作品名:大村湾千綿 ●Title:A view of Oomura, Chiwada
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

小倉 引島を望む景.gif

『日本』に掲載されている「小倉 引島を望む景」(Nippon Atlas. 5-p12)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=11&r=0&xywh=591%2C1114%2C2709%2C3026

  シーボルトの大著『Nippon』(『シーボルト「日本」第一巻~第六巻(第一編~第十二編)+図録第一~三巻・講談社』)の「図録第一・二巻」にも掲載されている、これらの「挿絵図」(石版画)の「原画」(上記の着色画=「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」・「長崎湾眺望図」・「大村湾千綿」)は、主として、オランダの「ライデン国立民族学博物館」所蔵のもので、その筆者は、「長崎のシーボルト御用絵師・川原慶賀」の作とされている。
 しかし、これらの「長崎出島の町絵師・川原慶賀」の作を収蔵して、オランダに持ち帰った主たる者は、「プロムホフ」(1779-1853)・フイッセル(1800-1848)・シーボルト(1779-1853)」の三人で、そして、「ライデン国立民族学博物館」所蔵になっている、これらの川原慶賀の作品は、シーボルト収蔵のものというよりも、「ブロムホフ・フイッセル」収蔵のものが多いということは特記をして置く必要がある。
 さらに、これらの「川原慶賀」の作品は、その多くは「ライデン国立民族学博物館」所蔵のもので、「国内現存作品」(「長崎県立美術博物館」「長崎市立博物館」「県立長崎図書館」「神戸市立博物館」等)は、確認されているものは五十点に満たず、「第二次大戦前の調査研究の文献に記載されているが現在は不明のものを加えて、七十点ほどが遺されているにすぎない」(『シーボルトと町絵師慶賀 日本画家が出会った西欧(兼重護著)』p11)としている。
 そして、『同著p11』で、「総じて、国内作品は鑑賞を目的として描かれたものに対して、国外作品は主として記録(学術資料)を目的としている」と、「慶賀作品」の鑑賞視点として、「鑑賞用(「絵画的」作品=芸術)」と「記録用(「写生・写真」的作品=学術)との二つの視点を提示している。
 この「鑑賞用(「絵画的」作品=芸術)」と「記録用(「写生・写真」的作品=学術)との二つの視点は、「プロムホフ」(1779-1853)・フイッセル(1800-1848)・シーボルト(1796-1866)」三者の、「慶賀作品」の収集・収蔵傾向にも表れていて、大雑把に、「プロムホフ」=「鑑賞用」的作品、「フイッセル」=「鑑賞用」的作品+「記録用」的作品、そして、シーボルト=「記録用」的作品と、区分けすることも、一つの便法ではあろう。
 これらのことを前提として、上記の、シーボルトの『日本』に掲載されている「挿絵図」(石版画)を見ていくと、これは、紛れもなく、シーボルトが日本に滞在していた、「1823年8月(来日)~1830年(オランダに帰国)」時の「日本の原風景」、そして、「1826年4月( 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行)」時の、「江戸参府紀行の原風景」ということになろう。

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その二

≪ 口絵に描かれた神農と伏犧の図は、葛飾北斎の『北斎漫画』に掲載されている同図を参考にしています。本書に収録された他の図版も北斎や川原慶賀ら日本の画を典拠としています。≫「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その一(抜粋)

伏犠と神農.jpg

「伏犠と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵」「(日文研データベース・外像)」
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011001&hid=55
≪被写体 : 伏羲と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵
掲載書名 :日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代 :1833   ≫

伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図.gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

≪伏犠=ふっき〔フクキ〕【伏羲/伏犠】
中国古代伝説上の帝王。初めて八卦(はっけ)を作り、婚姻の制度を整え、民に漁や牧畜を教えたという。女媧(じょか)の兄あるいは夫といわれ、三皇の一人。太昊(たいこう)。庖犠(ほうき)。宓犠(ふくき)

神農=しんのう【神農】
中国古代神話上の帝王。三皇の一。人身で牛首。農耕神と医薬神の性格をもち、百草の性質を調べるためにみずからなめたと伝えられる。日本でも、医者や商人の信仰の対象となった。炎帝神農氏。≫(「デジタル大辞泉」)

風神(左図)と雷神(右図).gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「風神(左図)と雷神(右図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

≪風神・雷神(ふうじん・らいじん)
風の神と雷の神。仏教では千手観音の眷属として二十八部衆とともに安置される。三十三間堂の鎌倉時代の木像と建仁寺蔵の俵屋宗達筆と伝えられる屏風は有名。東京,浅草寺の門にはこの2神が安置されているので雷門という。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-03-31

(再掲)

≪ 『北斎漫画』の「初編」は、文化十一年(一八一四)、「二編」と「三編」は、その翌年の文化十二年(一八一五)に刊行された。「初編」の号は、「葛飾北斎」そして、「二編・三編」の号は、「北斎改葛飾戴斗」と、「北斎」から「戴斗」に改まっている。
 北斎の画号の変遷などは、概略、次のとおりである。
 (省略)
 ここで『北斎漫画』の「漫画」とは、「笑い(コミック)」を内容とした「戯画(カリカチュア)」ではない。それは、北斎の前半生の総決算ともいうべき、「浮世絵」の「絵師・彫師・塗師」の、その「絵師(「版下・原画を担当する絵師)」の、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 そして、この『北斎漫画』を忠実にフォローしていた、当時の絵師の一人として、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの側近の絵師・川原慶賀が居る。この川原慶賀については、以下のとおりである。
【天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日したシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。】

https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/433eda67b8a4494aed83f88d08813179

 この川原慶賀が模写した、北斎の「風神雷神図」がある。
北斎 二.jpg

『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

 この川原慶賀が模写した「風神雷神図」は、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。それらは、シーボルト(1796~1866)が寄贈したものの一部なのであろう。
シーボルトは、 ドイツの医者・博物学者。1823(文政六)年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。28(文政十一)年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59(安政六)年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」などがある。
シーボルトと北斎との出会いは、1826(文政九)年に、シーボルトがオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、時の将軍、徳川家斉に謁見した頃に当たるのであろう。この時、北斎は六十七歳の頃で、為一の画号時代ということになる。
この商館長の江戸参府は、四年毎に参府することが義務付けられていて、この1826(文政九)年の参府の折りなどに、北斎(北斎と門弟による「北斎工房」)に、江戸の風景や人々の日常風景などを題材にした浮世絵などを注文し、次の参府の際に完成した作品を引き取るといった流れで、為されていったようである。
シーボルトの場合は、単に、浮世絵などの蒐集の他に、文学的・民族学的コレクション、当時の日用品や工芸品、植物学、地理学など様々な分野から大量のコレクションを蒐集し、それらが、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されているということなのであろう。
このシーボルトのオランダの「ライデン国立民族学博物館」のルートの他に、「フランス国立図書館」ルートのものもあり、これらが一同に会して、2007年12月4日(火)~2008年1月27日(日)に江戸東京博物館に於いて「北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」が公開されたのであった。

https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/1659/
北斎%E3%80%80ヨーロッパを魅了した江戸の絵師/

 ここで、シーボルトのお抱え絵師の「川原慶賀」の作品と、シーボルトなどが特注した「北斎と北斎工房」の作品とは異質のものであるが、「北斎漫画」やその下絵に準拠している作品と解すると、広い意味での「北斎工房」の作品と解しても差し支えなかろう。
  とした上で、冒頭の『北斎漫画三編』の「風神雷神図」と、上記の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)とを、相互に比して行くと、まざまざと、「北斎」作品と「北斎工房(川原慶賀作を含めて)」作品とでは、「形(かたち)」は同じであっても、その「心(こころ・狙っているところのもの)」の、その落差が大きいことを実感する。それは、「北斎(その人)」と「北斎らしさ(北斎らしき人)」との、歴然とした相違点ということなのかも知れない。
 すなわち、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)の、その「風神雷神図」は、それは、紛れもなく、北斎を私淑する。「北斎派の一人」の、当時の鎖国下における長崎の「出島出入絵師・川原慶賀」の作品の一つと解すべきなのであろう。 ≫

(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-23

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)


風神.jpg

北斎「風神図」(落款「八十五老卍筆」 印章「冨士型」)
弘化元年(一八四四) 個人蔵

(特記事項)
 この「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)は、日本での図書名は『日本風俗備考』(「22巻からなる」)として、幕末に「杉田成卿・箕作阮甫」らの蘭学者によって分担翻訳されている。
 その『日本風俗備考』(「22巻からなる」)が、次のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23

日本風俗備考・口絵.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23

日本風俗備考・口絵・拡大図.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」(部分拡大図)

 この『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」(部分拡大図)に描かれている「風神雷神」図は、これは、まさしく、上記の「ライデン国立民族学博物館」所蔵の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)より転載(244「風神・雷神図」)の「風神・雷神図」(原図をトレスしての「表」と「裏」)のような雰囲気を有している。

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