SSブログ

「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その五) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その五)「下関」周辺

小倉・下関f.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

9  2/23  1/17 晴 下関滞在  門人の来訪・カニの眼
10  2/24 1/18 晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25 1/19 晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26 1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13  2/27 1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14  2/28 1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15  3/1 1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16  3/2 1/24 晴 下関出帆

下関.gif

『日本』に掲載されている「下関」(Nippon Atlas. 5-p14)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=13&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

下関・竹崎.gif

『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

石版画にした関門海峡.gif

「シーボルトが江戸へ向かう道中で、同行者に描かせた画を持ち帰り、石版画にした関門海峡」
https://www.kyushu-u.ac.jp/oldfiles/magazine/kyudai-koho/No.36/36_24.html
『日本』に掲載されている「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景」(Nippon Atlas. 5-p16)

この「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景」(Nippon Atlas. 5-p16)に続いて、次の「フアン・デル・カペレン海峡の地図」(Nippon Atlas. 5-p17)が続く。

フアン・デル・カペレン海峡の地図.gif

『日本』に掲載されている「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の地図」(Nippon Atlas. 5-p17)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=16&r=0&xywh=-94%2C485%2C3901%2C4358

シーボルトは、随行させていた「川原慶賀」に、上記の「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景」(Nippon Atlas. 5-p16)を描かせている。そして、シーボルトは、それは、「目に映る『フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の景』としながら、それらも、資料の一部としつつ、「書記」として随行させている「ビュルゲル」らと共に、この上記の「フアン・デル・カペレン海峡(関門海峡)の地図」を、もろもろの労力と機材を駆使しながら、その作成に没頭していたのである。

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203250000/

≪二月二七日〔旧一月二一日〕 
 竹崎
われわれは竹崎(この町の西部ではそう呼んでいる)とその近郊へ散歩にでかける許可を得た。長門の西南端、小門真岬・小引島・六連諸島を調査することが、今日のわれわれの課題であった。小さいグループでわれわれは西鍋町・入江町・西細江町、それから豊前町を通り、竹筒の海岸通りにある税関〔監視小屋〕の近くで休んだ。
われわれの眼前には引島や舟島や豊前の海岸を望む景色がひらけていた。そこには小さい商船が錨を降ろしていて、波止場では人が荷物の積降しに忙しげに立ち働いていた。第一〇図(注・「下関 竹崎付近の景」)はこの有様を伝えるものである。下関商業の貨物集散地である。
 われわれの到着は評判になった。好奇心を抱いた群衆が殺到してきて、ここでは測量はうまくゆかなかった。また登与助も今度はこの地方の略図が描けなかった。われわれは今浦へ行き、海岸にある漁師の家に立ち寄り、われわれを先へ案内するのをためらっていた日本の士官たちに葡萄酒と酒をすすめて、なおさらよい気分にならせようとした。今浦の村はもう下関の地域に具していなかった。
 早鞘へ小旅行を企てたときにもわれわれはこれと似た状況であった。外国人をもてなすことの禁制は、日本の全住民に非常に恐ろしい力となってのしかかっているので、われわれが体験したいっさいのことから洞察されるように、ひとりの外国人が、見つけられずにただの一日でも日本の土地にとどまっていることは不可能である。
 我々は監視者に対し、我々の仕事には関与せず小門からの帰りをここで待っているようにすすめ、彼らもまたそれに賛成した。我々は彼らの視界から離れてしまうと、すぐに仕事にかかり、一連の測量によって引島のまだ全く知られていない東海岸を確定し、湖のようにここに開けている海のほかの多くの地点を訂正した。最も重要な測量のうちの数例をここに挙げようと思う。
 舟島は南20度東。
内裡の町は引島の東端とともに南10度東、
引島の東北端(天ノ郷崎)は南35度西、
小倉の町は前にある引島のために見ることはできないが、われわれと同行の日本人はその方角をわれわれにはっきりと示した。それによると前方南16度西にあたった。それからわれわれは小門へ急ぎ村の西南にあった岬に登った。
 そこからは玄界灘を望む広々とした景色がひらけていた。ここは日本の地図では大きな欠陥があった(われわれは当時日本の精確な地図も上述した海図も知らなかった)。この地図では九州の海岸からよりも日本(本州)の海岸のほうからいっそう遠く離れている引島は、ただ狭いほとんど一町(14・54メートル)〔109・09メートル〕幅の海峡によって小門鼻岬と隔てられ、そして長細い岬となって西北の方向に延びて、いわば六連島に接しているように見えた。
我々はここで眼前に、この六連島と引島の西北ならびに東北岸を鳥瞰し、登与助は見取図を描いたが、その図は彼が熟練と技術を備えていることを証明していた。
 宣誓な地点
の決定に関しては、われわれは次に掲げておいた。
引島の北端は東68度南、岬のいちばん端、おそらく岬とひとつになっていた笥島(TAKENOKOSIMA)は北86度西、元来上ノ六連(KAMINO―MOTSURE)と呼ばれている六連島の南端は北59度酉、小さい馬島(MUMASIMA)(小六連KOMOTSURAともいう)は北73度西である。長門の西岸にある武久岬は北4度東、室津岬は北9度東で、われわれは同じ名の村をはっきりと見ることができた。武久の近くでは武久川が、室津付近では綾羅木川(ASARAKI‐GAWA)が海に注いでいる。
 六連諸島は六つの小島から成る。
一、塙浦村のある上ノ六連 
二、小六連または馬島 
三、金崎島(KANASAKISIMA) 
四、和合良島(WAKURASIMA) 
五、温子島 
六、片島
で、あとの四つは無人島である。
 向いにある筑前の北岸では鐘崎まで眺められる。
芦屋岬は南87度西、若松の水道(洞海ともいう)は南61度西にある。
芦屋岬と同緯度のところにふたつの小島が並んでいて、双子島とか男女島というが、北の島は男島で北69度西、もうひとつは女島で北73度西にある。
もっとずっと北の方にひとつの島があって、北33度西にあたる。同伴者のいうところでは藍ノ島という由。
小瀬戸という幅の狭い水道は東から西へ延び、小門鼻岬と引島の北端で形造られ、人々の言によると、約114メートルの幅があるだけで、小さい商船だけが航行できる。
 瀬戸の潮流は速く、ちょうど(注・鳥偏の漢字)小門鼻岬の向いに暗礁があるので、航行はなおさら危険である。
 今浦ではわれわれの費用で楽しい事をしていた武士たちに会い、夕方われわれは水路学上の小旅行から下関にもどった。 ≫(「山梨県歴史文学館 山口素堂とともに」:『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』)

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その三

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

日本地図の絵.jpg

≪被写体:有名な富士山を背景とした日本地図の絵
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
第1章(65ページ)は地理情報を解説しており、富士山を描いた図が冒頭に掲載されています。緯度、経度、地形の特徴や気候、産出物、山河の風景、支配領域などがここでは説明されます。≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011002&hid=55

日本風俗備考・富士山.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「富士山」(部分拡大図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/74

この『日本風俗備考』は、『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』の二冊本で平凡社から刊行されている。
 それによると、この「有名な富士山を背景とした日本地図の絵」は、「1 地誌と地形」の「扉絵」ということで、「第1章(65ページ)は地理情報を解説しており、富士山を描いた図が冒頭に掲載されています。緯度、経度、地形の特徴や気候、産出物、山河の風景、支配領域などがここでは説明されます。」(「杉田成卿・箕作阮甫:訳注『日本風俗備考』」を、明瞭な形で提示している。
 ここで、「北斎と『プロムホム・フイッセル・シーボルト』そして『川原慶賀』」との、相互関係ということを見ていくと、「プロムホム・フイッセル」の「江戸参府」(1822)の時に、「北斎」に絵画制作の依頼をし、その成果品を、「スチュルレル・シーボルト・ビュルゲル・川原慶賀」らの「江戸参府」(1826)の時に受け取るというシステムが、その以前から「長崎出島のオランダ商館と葛飾北斎」となされていたという背景が浮かび上がってくる。
 それは、『古画備考(こがびこう):朝岡興貞編』の「三十一・「浮世絵師伝」の「北斎」の項〈天保十年六月十八日針医某話〉」に出てくる「北斎と阿蘭陀のカピタンのエピソード」に関係するもので、その時の「オランダ商館長(カピタン)」は、下記の「153代(145代)、ヘイスベルト・ヘンミー」で、この「ヘンミー」は、「1798年、長崎を出発、江戸で将軍・徳川家斉に拝謁し、長崎へ戻る途中で持病が悪化して掛川の地で没している。」
 この「ヘンミーの死」は、「禁制品の持ち出し」(密貿易関連)に関連しているという挿話で、「研究ノート:日本におけるオランダ人墓(宮永孝)」などでも紹介されている。
 これらのことに関しては、「ウイキペディア」では、「ヘンミー」の名ではなく、「シーボルト事件」とからませ、「シーボルト」の名で紹介されているが、『古画備考(こがびこう):朝岡興貞編』での「カピタンと北斎」との挿話は、「シーボルト」ではなく「ヘンミー」と解すべきなのであろう。

≪「葛飾北斎」と関係があった「オランダ商館長(カピタン)」=特に関係の深いもの※印

153代(145代)、※ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)
154代(146代)、レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
155代(147代)、ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)
156代(148代)、※ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年
157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)
158代(150代)、※ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
159代(151代)、※ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期新異国叢書1> 雄松堂出版 2002年 ≫(「ウイキペディア」)

≪ 外国人とのトラブル
長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
 通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった(シーボルト事件)。
 オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である]。≫(「ウイキペディア」)


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。