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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その七) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その七)「大阪・京都の滞在」周辺

大阪・京都の滞在.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

28  3/14  2/6 快晴 大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる
29  3/15  2/7 晴 大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30  3/16  2/8 晴 大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31  3/17  2/9 晴 大坂-伏見 淀川の灌漑など
32  3/18  2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33  3/19  2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪
34  3/20  2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35  3/21  2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36  3/22  2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37  3/23  2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38  3/24  2/16 晴 京都 明日の出発準備

西本願寺.gif

『日本』に掲載されている「西本願寺」(Nippon Atlas. 5-p27)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=26&r=0&xywh=-137%2C525%2C3901%2C4358

祇園社.gif

『日本』に掲載されている「祇園社」(Nippon Atlas. 5-p28)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=27&r=0&xywh=-4%2C611%2C3901%2C4358

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その四

哲学者寿老人.jpg

≪被写体:有名な哲学者寿老人と,長寿の神の歳徳神
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
第3章(116ページ)は、骨董品や古銭、稀覯品についての紹介で、老哲学者を描いた図が掲載されています。ここでは、「珍しい(Mierasji)」とされる日本の品々が紹介されています。≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011005&hid=55&thumbp=

『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅲ 古物と珍品」と題する第3章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

画本東都遊 3巻.gif

『画本東都遊 3巻』所収「長崎屋」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533327/29


≪ 阿蘭陀宿長崎屋

 江戸の阿蘭陀宿長崎屋は本石町三丁目、現在のJR新日本橋駅4番出口付近にありました。近くに「石町の時の鐘」があったため、「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれています。家業は薬種屋で、代々の当主は長崎屋源右衛門を名乗りました。
 江戸参府一行の滞在中は、門にオランダ東インド会社(NVOC)紋章入りの赤白青の幕(オランダ国旗)が張られ、町奉行所から普請役2人と組同心2人が出向いて、取り締まりや警備に当たりました。朝の六ツ時(午前6時ごろ)開門、晩の五ツ時(午後8時ごろ)閉門で、オランダ人の外出は禁じられていました。長崎屋の周りは庶民の人だかりが幾重にも取り囲み、ちらっと窓に顔や姿が見えると歓声が上がりました(「長崎屋今に出るよと取り囲み」)。北斎の『画本東都遊(えほんあずまあそび』には見物人の様子が描かれています。
 一方では幕府の許可を得た様々な訪問客が押しかけ、オランダ人や通詞は多忙な日々でした。訪れたのは蘭癖の諸大名、官医、天文方、陪臣の医師、蘭学者などです。
ざっと名前を上げてみても、新井白石・青木昆陽・前野良沢・杉田玄白・平賀源内・大槻玄沢・中川淳庵・桂川甫周(ほしゅう)・島津重豪(しげひで)・高橋景保・鷹見泉石・渡辺崋山などきりがありません。これらの人々との対談・質問・学習・品物交換などが行われ、まるで文化サロンのような雰囲気だったようです。
オランダ人たちは外で買物ができないため、比較的近い範囲から決められた「定式出入り商人」が土産物や日用品を持ち込みました。この中には駿河町の越後屋も含まれていま
す。また、彼らは将軍家への「献上物」と幕府高官への「進物」を万一に備えて余分に運んできたため、必ず残品が出ました。これを長崎屋が買い取って越後屋に高値で売り、さ
らに越後屋が小売りしていました。

  江戸城での行事

 拝礼登城の日には江戸在府の長崎奉行が長崎屋に赴き、オランダ人・通詞・長崎屋源右衛門を引き連れて江戸城へ向かいました。将軍への拝礼はカピタン1人が通詞の介添えを得て大広間で行い、書記・医師・源右衛門は次の間に控えます。宗門奉行が合図すると長崎奉行がカピタンを大広間に上げ、共に平伏します。奏者衆より「オーランダのカピターン」と大声で披露されると、直ちに奉行がカピタンの服の裾を引いて合図し、退出して終了。実にあっけないものでした。
 しかし、この後別間で「蘭人御覧」と称して、お忍びの将軍をはじめ、幕府の高官、御台所、大奥の女中などがオランダ人見物を行いました。帽子や衣服、帯剣などの持ち物が回覧
されたり、歌謡や舞踏を注文されたり、種々の質問がなされたりしました。随行した医師ケンペルの記録によれば、「猿芝居の第二幕」は2時間にわたったとのことです。
 江戸城を退出した一行は老中以下幕府高官の役宅を順次回って、無事拝礼を済ませることができた御礼の挨拶をしました。この「廻勤」は3日間もかかり、移動の町筋は見物の群衆でごった返していました。
 やがて帰路出立の許可があると、前日に「暇(いとま)乞い」の挨拶に再び登城すること
になります。大広間三之間に老中が列座する前で、宗門奉行がオランダ人の遵守すべき条項の書かれた「御条目」をカピタンに読み聞かせ、いったん退去後に戻って将軍と世嗣からの時服の拝領が仰せつけられるというものでした。御条目には南蛮人(ポルトガル人)との通行禁止、オランダとの対日貿易の継続、琉球船の保護などが書かれていました。

  様々な贈り物

 カピタンの贈り物で多かったのは織物類の反物や葡萄(ぶどう)酒などの嗜好品ですが、初期には様々な趣向を凝らした品もありました。寛永13年の3代将軍家光への献上品は、銅のシャンデリア・毛氈(もうせん)・天鵞絨(ビロード)・羅紗(らしゃ)・駱駝(らくだ)織・ピストルなどでした。家光が日光東照宮の社前に飾ったシャンデリア型釣灯籠(オランダ灯籠)は、現在でも見ることができます。
 明暦3年(1657)には4代将軍家綱に地球儀と天球儀が献上されましたが、拝礼が明暦の大火の直後だったため、期待したほどの評判は得られませんでした。また万治2年(1659)には老中稲葉正則に望遠鏡とレンベルトゥス・ドドネウスの『植物誌』を贈りましたが、気に入られず返却されています。このように、期待を込めて持参された贈り物も、功を奏した場合も見向きもされない場合もありました。

出島の三学者の参府随行

「出島の三学者」と呼ばれるのはケンペル(ドイツ人)・ツュンベリー(スウェーデン人)・シーボルト(ドイツ人)の3人で、いずれもオランダ商館付医師として来日して江戸参府に随行、多くの日本人と接触して資料収集に努めています。日本滞在はケンペルが元禄3~5年(1690~92)、ツュンベリーが安永4~5年(1775~76)、シーボルトが文政6~12年(1823~29)と安政6~文久2年(1859~62)でした。
 ケンペルは江戸参府に2回随行し、道中では臨機に興味を示して資料を集め、観察眼を働かせて客観的な記述をしています。この助けとなったのが、オランダ語のできる青年今村源右衛門で、道中記や絵図の収集、翻訳などに大いに役立ったようです。参府の様子は『江戸参府日記』や『日本誌』に詳しく書かれています。
 ツュンベリーは博物学者リンネの弟子でした。そのため、随行の機会に植物収集と日本および日本人理解のための資料収集を望んでいました。道中では機会あるごとに植物採集に努め、多くの標本を母国に持ち帰りました。江戸の長崎屋では多くの訪問客と対談しましたが、最も頻繁に訪れたのが将軍の侍医桂川甫周と小浜藩主の侍医中川淳庵でした。三者間で学問的親交が深まり、学術的品々の贈答・交換が行われました。
 シーボルトは、日蘭貿易検討のため、日本を総合的・科学的に調査・研究する使命を帯びており、意欲的な活動を行いました。そのため彼の随行した文政9年の江戸参府は通常と異なっていました。まず、門人たちに加え、薬剤師ビュルガー、画家の川原慶けい賀が 、好意的な通詞たちなどを同行し、協力者を増やしました。名目上の総人数は60 人ですが、実際は107 人もいました。また主要宿泊地で滞在日数を延長すべく働きかけをしたため、通常90 日間の江戸参府が143 日間にもなりました。
これらの成果としては、道中における観測・観察、動植物・工芸品・書籍・書画などの収集、面談による情報・知識の収集、交換による絵図面・地図などの入手が挙げられます。
 一方、禁制品の日本地図(伊能図)持ち出しが発覚し、「シーボルト事件」を引き起こすことにもなりました。≫(「えど友第122号 2021/9/10」:「えど友ホームページ」 https://www.edo-tomo.jp/  )
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