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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その八) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その八)「京都より江戸への旅行」周辺

京都より江戸への旅.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

39  3/25  2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述
40  3/26  2/18 晴 草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41  3/27  2/19 晴 土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42  3/28  2/20 四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物
43  3/29  2/21 晴 佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30  2/22 晴 池鯉鮒-吉田 矢矧橋
45  3/31  2/23 曇・雨空 吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1  2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47  4/2  2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48  4/3  2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49  4/4  2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50  4/5  2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51  4/6  2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園
52  4/7  3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え
53  4/8  3/2 雨 小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54  4/9  3/3 晴 藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55  4/10  3/4 晴 川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え

琵琶湖の景.gif

『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
「川原慶賀が原画を描いた琵琶湖の景色」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html
≪2月25日のミッションは下関「壇ノ浦」の海峡の測量。役人には「博物採取」に行くといって出てきました。この日のメンバーはシーボルト、ビュルガー、川原慶賀、高良斎と外部スタッフの山口行斎、伊藤杢之允です。海峡の景色を慶賀にスケッチさせている間に、他のメンバーがコンパスで測量しました。役人に怪しまれないための用心でしょうか、測量機具はあらかじめ送っておいて、村はずれの猟師小屋で受け取りました。現地に詳しい伊藤の説明を聞いて海峡の幅や潮流を記録するという見事なチームワークを発揮しました。≫

瀬田川と瀬田橋の景.gif

『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631

矢矧橋.gif

『日本』に掲載されている「矢矧橋」(Nippon Atlas. 5-p31)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=30&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図).gif

『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026

大井川の川越え人足.gif

『日本』に掲載されている「大井川の川越え人足」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=32&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

富士川・天竜川・馬入川・安倍川.gif

『日本』に掲載されている「富士川(上・左図)・天竜川(上・右図)・馬入川(下・左図)・安倍川(下・右図)」(Nippon Atlas. 5-p34)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=33&r=0&xywh=157%2C710%2C3019%2C3373

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

46  4/1  2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓 ※(天竜川?)
47  4/2  2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝  ※大井川の渡河・川人足
49  4/4  2/27 晴    府中-沖津 沖津川増水 ※(安倍川?)
51  4/6  2/29 快晴   蒲原-沼津 ※富士川の舟・富士山高度
54  4/9  3/3 晴     藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え ※(馬入川)

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その五

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

机に向かう日本婦人.jpg

≪被写体:絵の道具を持ち,机に向かう日本婦人
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
第4章(129ページ)は、書画の技法について論じ、絵を描く婦人の図が掲載されています。日本の技術はヨーロッパには及ばないとしながらも、独特の画法を有しているとして紹介されています。≫

https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011006&hid=55&thumbp=

 『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅳ 画法と図法」と題する第4章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

≪ 画法の分野においては、日本人はあまり巧みなほうではない。また油絵具の使用については、ほとんど、あるいはまったくといってよいほど知識がない。それだけかえって、日本人は水彩絵具の取扱い方には経験が豊富であり、しかもそれを鉱物界ばかりでなく植物界からもとり出す方法を知っている。そしてそれはヨーロッパにおいては求めても得られないような、光沢のある色彩を生み出すのである。素描と輪郭は共に大胆であり。また陰影のない下絵は素晴らしいものであるが、完全に遠近法を使用することは非常におくれている。しかしながら最も簡単な下絵のなかには、一般的、想像的感情を膨らませるある種の調和が非常によく現われており、そのため知性的で気持のよい調べを醸し出してくれるのである。≫(『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』所収「Ⅳ 画法と図法」p213-214)

絵を描く婦人.jpg

『日本風俗備考22巻. 二』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「絵を描く婦人」(部分拡大図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223205

上図は、『日本風俗備考22巻. 二』の、「Ⅳ 画法と図法」の「扉絵と『画学(画法))の冒頭の文章の部分』なのであるが、この「扉絵」の翻訳部分の「日本の婦人/顔料諸具を/備へて案に/凭リ(より)画を写す」(下段の部分)は、上記の、(『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』所収「Ⅳ 画法と図法」p213-214)の抜粋部分を、この「扉絵」が説明しているかのようである。

「日本の婦人(日本の絵の嗜みのある婦人)は/顔料(鉱物界ばかりでなく植物界からもとり出した顔料=岩絵具+水干絵具など)、諸具(「何種類もの大・中・小の筆・墨・その他の諸具)を/備へて、案に/凭リ(より) (見たものを「写生・写実」するのではなく、「手本・粉本・模本」を拠り所にして)、画を写す(「一個の完成品=扇子画)を作り出す」ということになる。

≪ 日本人の図法については、もしもそれを単にオランダ人によってヨーロッパにもたらされた見本によってのみ判断しようとするならば、きわめて不都合な概念を得ることになってしまうであろう。
 しかしながら、われわれはたった一人の長崎の画匠の仲介によってしかこれらの物を入手できないということを考慮しなければならない。この画家は、オランダ人たちに絵画を描いて供給することのできる独占的な権限を委ねられており、したがって彼の制作するものはすべて、描かれた対象が果たして外国に輸出されてもよいものかどうかを判断してもらうために、まず第一に政府に提示して見てもらわねばならない。この芸術家が、いかに器用で経験にとんでいるにしても、この仕事を単独でなしとげることは不可能である。
 そこで、その目的のために、その家僕や弟子が使用されるが、彼らは、師匠とまったく同じようにそれを生計を立てるためのものと考えており、彼らはまったく競争相手がないと信じているので、その作品は、良かろうと悪かろうと勝手次第に引き渡されてしまうのである。 ≫(『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』所収「Ⅳ 画法と図法」p215)

ここのところは、「われわれはたった一人の長崎の画匠の仲介によってしかこれらの物を入手できないということを考慮しなければならない。」の、この「長崎の画匠」は、当時の「長崎の出島出入りの許されている出島御用絵師・川原慶賀」ということになる。」(『シーボルトと町絵師慶賀―日本画家が出会った西欧(兼重護著)』p26)
 『同著(兼重護著)p24-25』によれば、川原慶賀が「出嶋出入御用絵師」になったのは、文化八年(1811)、慶賀、二十五歳の頃とし、そして、それは、慶賀の師の「石崎融思(1768-1846)」(唐絵目利職兼御用絵師)のバックアップを抜きにしては考えられない」としている。
 この「唐絵目利(からえめきき)とは、江戸時代中期に設けられた長崎奉行所の職種。清国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価。さらに輸出入の交易品や鳥獣類などの写図の作成が主な職務であった。また長崎奉行所の御用絵師を兼務することが多かった。唐絵目利職は、渡辺家(祖=渡辺秀石)・石崎家(祖=石崎元徳)・広渡家(祖=広渡一湖)・荒木家(祖=荒木元慶、二代=荒木元融)の四家の世襲となって幕末まで続いた。」(「ウイキペディア」)
 ここで、フィッセルの上記の「この画家は、オランダ人たちに絵画を描いて供給することのできる独占的な権限を委ねられており、したがって彼の制作するものはすべて、描かれた対象が果たして外国に輸出されてもよいものかどうかを判断してもらうために、まず第一に政府に提示して見てもらわねばならない。」というのは、「出嶋出入御用絵師・川原慶賀」というよりも「唐絵目利職兼御用絵師・石崎融思」などを指してのもののように思われる。
 そして、江戸の当時の絵画界(浮世絵界)の牽引車の一人であった「葛飾北斎(1760-1849)」と「川原慶賀(1786-1860)」とは年代的に開きがあり、その北斎と年代的には、慶賀の師の「長崎派」の牽引車の一人であった「「石崎融思(1768-1846)」の方が、同年代の二人ということになろう。
 この「葛飾北斎(1760-1849)」が、先の『画本東都遊 3巻(北斎画)』所収「長崎屋」を描いたのは、寛政11年(1799)の、北斎、四十歳の時で、その前年に、「出島145代商館長(カピタン)・ヘンミー」が、遠江の掛川で急逝し、その「死因は病死とされているが、当時薩摩藩主であった島津重豪の確執が生じたことによる自殺説がある」(「ウイキペディア」)との、そこに、「北斎と長崎出島カピタン」との関係が重なって、爾来、北斎は、「長崎出島」関連の作品は、無落款・無署名のものが多く、一見すると、「川原慶賀・慶賀工房」作といわれているものの中には、「葛飾北斎・北斎工房」の作品が含まれており、その両者を年代的フォローすると、次の年表のように、北斎、三十九歳から、シーボルトと慶賀の江戸参府時の、六十七歳までという、長い年月を経てのものなのである。

≪「葛飾北斎」と関係があった「オランダ商館長(カピタン)」=特に関係の深いもの※印、
※※印は、その年次の「北斎・慶賀・フィッセル・シーボルト」の年齢

153代(145代)、※ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)
※※1798(ヘンミー没)→北斎(39歳)
154代(146代)、レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
155代(147代)、ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)
156代(148代)、※ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年
※※1803(来日)→北斎(44歳)、フィッセル(34歳)、慶賀(17歳)
157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)
※※1822(江戸参府)→北斎(63歳)、フィッセル(53歳)、慶賀(36歳)
158代(150代)、※ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
※※1826(シーボルト・川原慶賀=江戸参府)→北斎(67歳)、シーボルト(30歳)、慶賀(40歳)
159代(151代)、※ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期新異国叢書1> 雄松堂出版 2002年 ≫(「ウイキペディア」)

 ここで、オランダの「ライデン国立民族博物館」所蔵の作品の一つに、先に紹介した『画本東都遊 3巻(北斎画)』所収「長崎屋」(その「原画」かどうかは不明)が、下記のアドレスで、収載されている。

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/nagasakiya-katsushika-hokusai?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A1-4656

画本東都遊 3巻.gif

≪長崎屋
メーカーアーティスト:葛飾北斎
製造年 1802
製造場所 江戸, 日本
定義
オランダ人が宮廷旅行中に江戸に到着すると、彼らは特に彼らのために予約された宿である長崎屋に泊まります。画像は日本人の通行人が彼らを見ている。
オブジェクトのタイプ プリント
寸法 26.2センチメートル× 17.5センチメートル × 0.5センチメートル
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  1--4656(印刷物)、アムステルダム国立美術館
著作権 情報: 国立美術館    ≫
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