SSブログ

「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その十一) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺

京都滞在と大阪への帰路.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲

108  6/2  4/27  晴  京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109  6/3  4/28  晴  京都   宮廷に関する記事
110  6/4  4/29  晴  京都   小森玄良から宮廷の衣裳の話
111  6/5  4/30  晴  京都   小森の家族と過ごす
112  6/6  5/1  晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113 6/ 7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など

京都の全景.gif

≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631     ≫

都の宮殿.gif

≪ミアコ ホテル(※都の宮殿)
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
後に京都と呼ばれる美阿子(都)は、何百年もの間日本の首都でした。1603年、徳川家の最初の将軍が権力を握ると、江戸(現在の東京)に建国を決意した。神々の伝説に従って子孫をもうけた日本の天皇である三戸(帝)は、京都に宮廷を構え続けています。徳川幕府の時代には、彼は儀式的な役割しか果たさなかった。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek          ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/miako?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=3&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-078-GRAV

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その八

二人の女中にかしずかれた礼装の日本人夫妻.jpg

≪被写体:二人の女中にかしずかれた礼装の日本人夫妻
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011009&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅶ 豪奢と贅沢」と題する第7章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その九

技を披露する日本の奇術師と楽師の一座.jpg

≪被写体:技を披露する日本の奇術師と楽師の一座
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011010&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅷ 気晴らしと娯楽」と題する第8章の「扉絵」として、この図が紹介されている

(補記) 「北斎、検閲避け?名入れず 作者不明だった西洋風絵画の謎 シーボルト収集品目録と一致」周辺

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/346252/

≪ オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵され、長く作者不明だった6枚の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)による西洋風肉筆画だったことが、昨年判明した。そもそも、なぜ長年の間、作者が分からなかったのか。同博物館シニア研究員のマティ・フォラー氏が長崎市発行の学術誌に寄せた論文を基に、絵画の謎に迫る。
 江戸各地の風景が描かれた絵画6枚は、出島のオランダ商館医だったシーボルトらから影響を受けた作品群とみられる。まず墨で基本的な枠取りをしてから色を入れていくという日本画的な画法は見受けられず、遠近法などを取り入れた西洋画法に基づいて描かれているのが特徴とされる。
 このうちの1枚「江戸湾を臨む東海道品川」は、江戸湾の月明かりの光景が美しく広角に描かれているのが印象的。月夜の暗い場面を巧みに捉えており、月光の加減を東海道の路面に差す人影だけで表現している。左手の波間に反射する月光も繊細に描いている。
 これらの作品が作者不明だった最大の理由は、署名や落款(印鑑)がなかったことにある。1820~29年に出島商館員を務めたフィッセルが当時の日本の習わしやしきたりなどについて書いた著書「日本風俗備考」で、オランダ人は1人の「画匠(がしょう)」を通してでしか絵画を得られない不文律を批判的に記している。
 画匠とは、出島出入り絵師の川原慶賀(1786~1860)を指しているとされる。当時は外国人と日本人の接触が制限された鎖国下。日本側はオランダ人が安易に別の絵師に接触しないよう規制をかけ、署名や落款を入れられるのは川原だけだったようだ。シーボルトが北斎から絵画6枚を受け取ったのは江戸だったが、長崎から離れた地域でもこうした不文律が尊重されていたらしく、検閲のような検査もあったという。このため、北斎はわざと作者不明にすることで「抜け道」にしたとみられる。
 一方で、何でも細かく記録したシーボルトの性格が、謎の解明に役立った。ドイツに保存されていた絵画コレクションの自筆目録の中に「88~93 江戸と江戸近郊の図6枚、幕府御用絵師北斎による西洋風に描かれた風景画」との記述が見つかり、作者不明となっていた絵画6枚の特徴と一致した。
 1826年5月にシーボルトが江戸に上った際、オランダ人が定宿としていた旅館を北斎が訪問したことが分かっている。北斎は晩年にも画法の研究を怠らずに続ける努力家。フォラー氏は論文で「遠近法を中心とする西洋画法について、北斎やシーボルトが旅館で議論したのではないか」と推測する。
 北斎がシーボルトに出会って4年後の30年から、代表作の「富嶽三十六景」が随時刊行される。オランダ人との交流をきっかけに、西洋画法の絵画6枚を手がけていたことが「富嶽三十六景」の成功につながった可能性もある。
 シーボルトがオランダに持ち帰った絵画コレクションのうち、川原慶賀やその関係者が描いたとされる絵画は膨大な数に上り、現在はドイツやロシアなどにも残っている。フォラー氏は「これらの絵画についても改めて精査する必要がある」と指摘する。
 この記事は2017年05月18日付で、内容は当時のものです。≫(「西日本新聞」)

江戸湾を臨む東海道品川.gif

「江戸湾を臨む東海道品川」(上記の「西日本新聞」の記事)

日本橋・北斎.jpg

「日本橋」(『富嶽三十六景』の「日本橋」、左手に「富士」?)

両国橋・北斎.jpg

「両国橋」(図の右彼方の「富士」の図?)

隅田川・北斎.jpg

「隅田川」(「鐘ケ淵」当たりの景?)

芝増上寺.gif

「芝増上寺」(右手の風景は芝増上寺の景?)

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

「永代橋」(原画は存在せず石版画とされる。ライデン国立民族学博物館所蔵)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。