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川原慶賀の世界(その一) [川原慶賀の世界]

(その一)川原慶賀画「洋人絵画鑑賞図」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

(再掲)

川原慶賀「洋人絵画鑑賞図」.jpg

「洋人絵画鑑賞図」(川原慶賀画)
https://yuagariart.com/uag/nagasaki13/

【 「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」
文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

  川原慶賀(1786-不明)

 天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。 
 25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。
また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

  川原慮谷(不明-1872)

 川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

  田口慮慶(不明-不明)

 絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。  】(「UAG美術家研究所」)

 この「洋人絵画鑑賞図」については、『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、「蘭人絵画鑑賞図」のネーミングで、こxれは、「ボアイの原画は、”Les a mateurs de tableaux”(絵画愛好者たち)とタイトルの付いた淡彩のリトグラフである」と紹介している(p110)
この「ボアイの原画」が、「ボアイのリトグラフ発見 出島町の庭見せで初公開」というタイトルで、下記のアドレスの「長崎新聞」の記事が紹介されている。

https://news.line.me/issue/oa-nagasaki/76c8bcf3fc39

≪ 江戸時代に活躍した長崎・出島の出入(でいり)絵師で、日本の風景や動植物などを描いた川原慶賀に影響を及ぼしたフランスの画家、版画家のルイ・レオポルド・ボアイ(1761~1845年)のリトグラフ「絵画愛好者たち」(縦29・7センチ、横21センチ)が見つかった。今年の長崎くんちの踊町の一つ、出島町の3日の庭見せで初公開される。長崎大名誉教授で慶賀に詳しい兼重護氏(82)は「日本で見たことがなく珍しい」としている。

絵画愛好者たち.jpg

フランスの画家、版画家のルイ・レオポルド・ボアイ(1761~1845年)のリトグラフ「絵画愛好者たち」(縦29・7センチ、横21センチ)

 慶賀はこの作品を参考にし、「蘭人絵画鑑賞図」と題した作品を制作したとみられる。ボアイの作品は、額縁に入った絵をのぞき込む女性1人、男性5人のさまざまな表情が戯画的に淡彩で描かれている。一方、慶賀はこの構図をほぼ忠実に模写しているが、濃厚な色彩で描いている。

 兼重氏の著書「シーボルトと町絵師慶賀」(長崎新聞新書)などによると、ボアイは版画家として石版画であるリトグラフを100点以上制作。「絵画愛好者たち」は1825年、「蘭人絵画鑑賞図」は20年代後半に制作されたという。慶賀はほかにも、ボアイの作品「しかめ面」に影響され、西欧の版画の顔面描写の特異性に着目した作品も描いており、慶賀が鋭い感覚と技術を持ち合わせていたことを示しているという。

 リトグラフは、出島を30年以上研究している長崎市歴史民俗資料館(同市平野町)の学芸員、永松実氏(67)が今年4月、東京都内の古書店で発見し、購入した。
 庭見せでは、このリトグラフを、出島町とゆかりのある慶賀の関連資料として出島の乙名詰所(おとなつめしょ)に飾る。ほかにも出島町の演(だ)し物「阿蘭陀(おらんだ)船」のモデルとなった図説や、出島と西欧の貿易品など約20点を歴史資料として併せて展示する予定。永松氏は「実際に見て、出島の歴史に思いをはせてほしい」と来場を呼び掛けている。≫

変顔(1824年).jpg

変顔(1824年) ルイ=レオポルド・ボワイー
≪ルイ=レオポルド・ボワイー(フランス語: Louis-Léopold Boilly [bwɑji]、1761年7月5日 - 1845年1月4日)とは、フランスの画家。主に肖像画を中心に絵画を描き、中流貴族の生活などを題材とした絵を描いた。彼はフランス王国時代から7月王政の時代まで絵を描き続けた。
(作風)
おもに人物画を描く。対象を実物そっくりに仕上げる写実主義であり、フランス・ファン・ミーリスやヘラルト・ドウなどのオランダ絵画の影響もうけている。
(人生)
ノール県のラ・バセ(英語版)で彫刻家の息子として生まれた。幼いころから芸術に秀でており、独学で絵画を学び、12、3歳頃から作品を作り始めた。1774年にドゥエーを訪れた際に聖アウグスチノ会士に自作の絵を見せたところその才能が認められ、その三年後アラスに移りトロンプ・ルイユをいくつか製作した。
 フランス革命が勃発した時には公安委員会に不埒な絵画を描いたとして逮捕されるも愛国的な作品を制作したためジャン=ポール・マラーによって釈放される。また、ナポレオン時代の1803年にはサロン・ド・パリでメダルを授与される。1833年にはレジオンドヌール勲章グラントフィシエを受章する。
(家族)
マリー・マドレーヌ・デリンヌと1787年に結婚しており、三人の男児を儲けた。長男にジュリアン・レオポルド・ボワイー(フランス語版)(1796年 - 1874年)、次男にエドゥアール・ボワイー(1799年 - 1854年)、三男にアルフォンス・レオポルド・ボワイー(1801年 - 1867年)が居り、いずれも父と同じ画家となった。また、アルフォンスは渡米し、彫刻家としても作品を遺した。

箱 ルイ=レオポルド・ボワイー.jpg

箱 ルイ=レオポルド・ボワイー

(メモ)この「箱」と題する「百顔百相」の人物像が、「絵画愛好者たち」「変顔(変な顔)」等々に戯画風に描かれている。 ≫(「ウィキペディア」)

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