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川原慶賀の世界(その十五) [川原慶賀の世界]

(その十五)「川原慶賀の長崎歳時記(その七)精霊流し」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図) .gif

『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

精霊流し (B図).gif

●作品名:精霊流し (B図) (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事、7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

精霊流し(C図).jpg

●作品名:精霊流し(C図) (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1696&cfcid=142&search_div=kglist
「精霊流し」 絹本著色 28「精霊流し」 紙本著色 28.7×36.60
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№16」)』)

精霊流し(D図).jpg

●作品名:精霊流し(D図) (「フイッセル・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事 7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館
National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1696&cfcid=142&search_div=kglist
「精霊流し」 紙本著色 30.7×40.0
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№7」)
「 石崎融思は長崎古今集覧名所図絵にすばらしい筆致で精霊船の図を描いている。それに比べてこの図を見ると歳時記に記されている盆の雑踏が少しも感じられないのである。そのことは慶賀がこの図を描くにあたってシーボルトの説明用として、長崎の精霊船がいかなる構造をしているものであるかということを主題として描いているためのような図を描くことになったのであろうか。」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図)は、シーボルトの大著『日本』に収載された「石版挿絵」(西洋人画家の作)、そして、その下絵と思われる「シーボルト・コレクション」の「精霊流し 」(B図)は、「川原慶賀(又は「慶賀工房)」作。そして、その本画(元絵)と思われるの「シーボルト・コレクション」の「精霊流し」(C図)は、やはり、川原慶賀(又は「慶賀工房)」作と解したい。
 その上で、この「シーボルト・コレクション」の「精霊流し」(C図)と、「フイッセル・コレクション」の「精霊流し」(D図)とを交互に鑑賞していくと、上記の後者(D図)の『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」の、「慶賀がこの図を描くにあたってシーボルトの説明用として、長崎の精霊船がいかなる構造をしているものであるかということを主題として描いている」という指摘が、一つの示唆を投げ掛けてくれる。
 これは「フイッセル・コレクション」のうちの作品の一つで、「シーボルトの説明用」というよりも、より多く、これは、注文主の「フイッセル」(1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』(『日本風俗備考』)を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる)の趣向を反映しているものと解したい。
 因みに、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」の、「石崎融思は長崎古今集覧名所図絵にすばらしい筆致で精霊船の図を描いている」の、その「精霊船」(挿絵図)は、次のものであろう。

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画).gif

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/030725/index.html

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(部分拡大図).gif

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画)→「部分拡大図」

(参考)「精霊流し」

精霊流し (しょうろうながし)
https://www.nagasaki-tabinet.com/event/51798

盆前に逝去した人の遺族が故人の霊を弔うために毎年8月15日に行われる伝統行事です。手作りした船を曳きながら街中を練り歩き、極楽浄土へ送り出すという長崎を象徴する盆風景です。
各家で造られる船は主に竹や板、ワラなどを材料とし大小さまざまで、長く突き出した船首(みよし)には家紋や家名、町名が大きく記されます。故人の趣味や趣向を盛り込んで装飾し、特徴的な船が造られます。町内合同でもやい船を出したり、8月になると細部の飾り付けにまでこだわった様々な造りかけの船が路上に多く見られるようになります。
当日は夕暮れ時になると町のあちらこちらから「チャンコンチャンコン」という鐘の音と、「ドーイドーイ」の掛け声が聞こえ、耳をつんざくほどの爆竹の音が鳴り響き、行列は夜遅くまで続きます。

精霊流し(「ウィキペディア」)

概要
 長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事である(ただし、県内でも海から遠い波佐見町等にはこの風習はない)。隣県である佐賀県の佐賀市や、熊本県の熊本市、御船町などにも同様の風習が見られる。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運ぶ。
 毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行われる。精霊船は山車(だし)を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教の行事である。
 初盆でない場合は精霊船は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物などの供物を包み、流し場に持っていく。精霊船や供物は、以前は実際に海へと流されていたが、長崎市では1871年(明治4年)に禁止された。精霊船も水に浮かぶような構造にはなっていない。現在でも島原市、西海市、松浦市、五島市などでは、実際に川面や海上に浮かべることもある。
 熊本県御船町の精霊流しは、8月16日の夕刻から開催され、大小さまざまな精霊船が数人の引手と共に川の中に入り、2百メートルほど流された後、そのまま川の中で燃やされるという形が続いている。
 佐賀市では8月15日の夕刻から河港のあった今宿町などで行われ[1]100年以上の歴史があったが、2009年に地域の高齢化による担い手不足から中止となっている[2]。佐賀市久保田町の嘉瀬川や佐賀県護国神社沿いの多布施川などでも行われているが、それぞれ1989年(嘉瀬川)、2011年(多布施川)開始と歴史は浅い。
 長崎市には長崎くんちという祭りがあり、精霊船の造りはくんちの出し物の一つである曳物に似ている。曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊流しの際もそれを真似て精霊船を引き回すことが一部で行われている。この行為は一般的には好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為には制止を行っている。郷土史家の越中哲也は、長崎放送の録画中継の中で「難破船になるですばい」と毎年、出演の度に「悪しき行為」と解説している。
 代表的な流し場である長崎市の大波止には、精霊船を解体する重機が置かれている。家族、親類らにより、盆提灯や遺影、位牌など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で解体される。

精霊船

 精霊船は大きく2つに分けることができる。個人船と、「もやい船」と呼ばれる自治会など地縁組織が合同で出す船である。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことである。昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘造るのは、富裕層に限られた。
 もやい船、個人船に限らず、「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人もいる。現代でも「もやい船」の伝統は息づいており、自治会で流す船のほか、病院や葬祭業者が音頭を取り、流す船もある。また、人だけでなく、ペットのために流す船もある。
 流し場までの列は家紋入りの提灯を持った喪主や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、揃いの白の法被で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続く(「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多い)。
 精霊流しは午後5時頃から10時過ぎまでかかることも珍しくないため、多くの船は明かりが灯るように制作されている。一般的な精霊船では提灯に電球を組み込み、船に積んだバッテリーで点灯させる。小型な船や一部の船ではロウソクを用いるが、振動により引火する危険があるため、電球を用いることが多い。また、数十メートルの大型な船では、発電機を搭載する大がかりな物もある。材質は木製のものが多いが、特に決まりはなく、チガヤ(西海市柳地区など[5])や強化段ボールなどが利用される場合もある。
 精霊船は「みよし」と呼ばれる舳先に家紋や苗字(○○家)、もやい船の場合は町名が書かれている。艦橋の部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされる。仏画や「南無阿弥陀仏」の名号を書いた帆がつけられることが多い。
 印灯篭は船ごとに異なる。もやい船の場合はその町のシンボルになるものがデザインされている(例:町内に亀山社中跡がある自治会は坂本龍馬を描いている)。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すもの(例:将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなど)が描かれる。
 船の大きさは様々で、全長1~2メートル程度のものから、長いものでは船を何連も連ね20~50メートルに達するものまである。
 精霊船の基本形は前述の通りであるが、近年では印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない、いわゆる「変わり精霊船」も数多く見られる(例:ヨット好きの故人→ヨット型、バスの運転士→西方浄土行の方向幕を掲げたバス型など)。

精霊流しと爆竹

 爆竹が精霊流しで使われる由来には諸説あるが、中国の彩船流しの影響が色濃く出ているものとされている。また、流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国が起源であるなら「魔除け」の意味であり、精霊船が通る道を清めるためとされる。近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっている。数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されている。観覧者を直撃することが多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されている。度を過ぎた花火の使用をした場合、各船の花火取扱責任者(事前に精霊流しの花火についての講習を受けた者)に警察から指導が行く場合がある。
 伊藤一長が狙撃されて死去したとき、伊藤の精霊流しの際は、爆竹の音が銃声をイメージするとして自粛された。
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