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川原慶賀の世界(その十八) [川原慶賀の世界]

(その十八)「川原慶賀の長崎歳時記(その十)菊見」周辺

観菊会(A図).jpg

●作品名:観菊会(A図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Chrysanthemum party, September
●分類/classification:年中行事・9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」.png

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(B図)

  この「フイッセル・コレクション」の「観菊会」(A図)は、一連のシリーズ(連作)ものとしては、これまでに紹介してきた「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(B図)の「月見」と「雪見」との間に入るものなのであろう。
 その上で、この「観菊会」(A図)は、次の「掛物類」の「菊取り図」(C図)と連動しているようなのである。

菊取り図(C図).jpg

●作品名:菊取り図(C図) (「フイッセル・コレクション」?)  
●Title:Picking Mum flowers, Autumn
●分類/classification:年中行事 秋/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite////target/kgdetail.php?id=1686&cfcid=142&search_div=kglist

 この「菊取り図」(C図)は、いわゆる「節句(五節句)」の時期に飾る掛軸の「節句掛(せっくがけ)」で、陰暦九月九日の「重陽(ちょうよう)」の、その節会(せちえ)、「菊の節供(せっく)」に掛ける掛軸であろう。
 そして、この「菊取り図」(C図)は、その「菊の節供(せっく)」に飾る掛軸に相応しい「描表装(かきひょうそう)」(絵表装・画表装)で、本絵の周囲の表装部分まで、お目出たい物をびっしりと描いている。
 その上部には、慶事用の「祝扇(いわいおうぎ)」にお祝いの「口上」(お祝いの言葉)を認め、さらに、西洋風のリボンのような白布(水引の蝶結びのような白い布)をめぐらしているという、何とも、仰々しいほどの「重陽」の「節句掛」に仕立てられている。

かるた取り図(D図).jpg

●作品名:かるた取り図(D図) (「フイッセル・コレクション」?) 
●Title:Cards game, January
●分類/classification:年中行事、1月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 この「かるた取り図」(D図)は、「正月七日」の「人日(じんじつ)」の節句などに因んでの「節句掛」ということになろう。
 「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)と、「言葉遊び」の、この「取り」に因んでの、「双幅」の「一対」ものなのかも知れない

「夫婦対幅のうち夫」(E図).jpg

『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』の図録の表紙画
(「本絵」は「同図録」所収「出品目録№201)
「夫婦対幅のうち:夫」(E図) 絹本著色 107.0×51.0㎝ 「ブロムホフ・コレクション」か「フイッセルのコレクション」

『掛物類 191~202
慶賀の掛物類は小画面の所蔵作品に比すればその数は極めて少ないが、これまた三つのコレクションにそれぞれ含まれている。193~196、198~200 はシーボルト・コレクション、他はブロムホフ、フイッセルのコレクションに属している。これらのなかで『曲芸之図』者の作については疑問視されるが、『雛祭り』『湯治場』などのような枠飾りをもつ作品、『生花』『花鳥図』『絵師の工房』などのような作品は国内に現存する慶賀作品にはその例を見出すことはできない。作風については大和絵風、または中国写生派風などと多様であり、慶賀の作風展開をみるのに興味深い作品群である。なお、先年、沼田次郎氏が、西ドイツ・ボッフムのルール大学東亜学部に残されている慶賀の見積書か請求書を調査され、慶賀の画料を明らかにされたが(雑誌『日本歴史』第344号、1977年1月)、そのなかには、
 $20:―1vel Schilder
1. 弐百匁  画師之内 壱枚
 $20:―〃  School
 1. 〃    儒者之内 壱枚
といった例が見られる。ライデン民族学博物館には「絵師の工房」(200)と双幅をなす「儒者の書斎」も残されている。(陰里鉄郎稿)』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」によると、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)は、「シーボルト・コレクション」ではなく、「ブロムホフ・コレクション」か「フイッセルのコレクション」ということになる。
 さらに、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№123」)』にも、再度出品されて、その「作品解説」は、次のとおりである。

『夫婦図(123)
  楽器尽しの飾り枠が描かれている。(これと対をなす妻の図は器機尽しの飾り枠である。)
上部には白布をあしらったのは西洋様式の日本化ともいわれている。妻の方の白布は鶴がくわえている構図である。「川原氏印」「画賀在印」。」
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」』)

 ここまで来て、「菊取り図」(C図)の「描表装」(「飾り枠」)は、全く、「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、それと同じもので、「楽器尽しの飾り枠」(「楽器尽しの描表装」)、そして、
「かるた取り図」(D図)の「飾り枠」(描表装)は、「器機尽しの飾り枠(描表装)」で、それらを基本にして仕立てているということなのである。
 その上で、これらの「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)とは、「ブロムホフ・コレクション」のものか「フイッセル・コレクション「かるた取り図」(D図)ものかということになると、この「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)とは、これまでの一連の「花見」「月見」「菊見」「雪見」と、同時期の「フイッセル・コレクション」のものと解して置きたい。
 さらに、ここまで来ると戯言の我田引水のこととなるが、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、この「美男子」は、嘗て記した、下記アドレスの、「酒井抱一」の若き日の「尻焼猿人」の像を想起せざるを得ない。
 と同時に、「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、その印章の、「川原氏印」・「画賀在印」の、「画賀(慶賀?)在印」に、「川原慶賀」という絵師は、なかなかの「洒落人」(粋人・俳諧師・言葉遊び人」等々)という印象を深くするのである。


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。

三味線と尺八.jpg

葛飾北斎画「三味線と尺八」(「立命館大学」蔵)
https://ja.ukiyo-e.org/source/ritsumei

 これは、抱一と同時代の葛飾北斎の「三味線と尺八」と題する作品の一つである。北斎は、宝暦十年(一七六〇)、武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓の出で、宝暦十一年(一七六一)、神田小川町の酒井雅楽頭家別邸生まれの抱一とは一歳違いだが、両者の境遇は月とスッポンである。
 抱一が、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院殿御一代」)と、美人画を得意とする歌川派とすると、北斎は役者絵を得意とする勝川春章門であるが、寛政六年(一七九四)、三十五歳の頃、その勝川派から破門されている。
 上記の『吾妻曲狂歌文庫』に抱一が登場するのは、天明六年(一七八六)、抱一、二十六歳の頃で、その頃の北斎は、「群馬亭」の号で黄表紙の挿絵などを描いている。
抱一が、上記の北斎が描く「三味線と尺八」の図ですると、この右端の「御大尽」、そして、北斎は、左端の尺八を吹いている「幇間芸人」ということになろう。そして、この御大尽の風貌が、『吾妻曲狂歌文庫』のトップを飾る「尻焼猿人」(抱一)と瓜二つという風情なのである。
 この『吾妻曲狂歌文庫』で「尻焼猿人」を描いたのは、戯作者の雄・山東京伝(狂歌名=身軽折輔)こと浮世絵師・北尾政演(北尾派)その人であり、版元の蔦屋重三郎と手を組んで、黄表紙・洒落本などの世界のスーバースターだったのである。
 しかし、この蔦屋重三郎も山東京伝も、寛政二年(一七九〇)の「寛政の改革」(異学の禁・出版統制強化)により、「手鎖・身上半減の刑」を受け、寛政九年(一七九七)には蔦屋重三郎が亡くなり、山東京伝も厳しい出版統制下の中で、文化十三年(一八一六)に、その五十五年の生涯を閉じている。
 抱一もまた、この「寛政の改革」の余波に晒されることになるが、蔦屋重三郎が亡くなった年に、三十七歳の若さで出家し、西本願寺第十八世文如の弟子となり「等覚院文詮暉真」の法名を名乗ることになる。すなわち、「抱一上人」に様変わりするのである。
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