SSブログ

川原慶賀の世界(その二十六) [川原慶賀の世界]

(その二十六)「川原慶賀のアイヌ・朝鮮風俗図」周辺

「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」.jpg

NIPPON Ⅶ 第16図 「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」(下記の〔352〕)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷風俗図巻」.jpg

「蝦夷風俗図巻」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」.jpg

「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」(松前春里,※蝦夷風俗絵巻.1.妻を連れて熊狩りに行くアイヌ.2.二人のアイヌの男性と熊の穴の前で吠える犬)/(PL.VIII. Copiy of a panorama in the Ethn. Museum, Leiden.) ≪「日文研データベース」≫

https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/?gid=GP008028&hid=3896&thumbp=

アイヌ人物図.jpg

左図:「※※アイヌ人物図(男)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
右図:「※※アイヌ人物図(男女)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

【〔352〕「蝦夷(宗谷 岬) アイヌとその住居」は、宗谷岬のアイヌとその住居を描く。ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションに長さ16m・幅30㎝の『※蝦夷風俗図巻』の絵巻があり、後景の人物図が部分的に利用されている。『蝦夷風俗図巻』の作者は、蝦夷地松前在住の春里こと伊藤与昌。落款に「松前 春里画」とあり、「松前」は姓でなく、「松前の住人」という意味である。彼は「藤原」「与昌」「伊藤与昌」「鳳鳴与昌」などの印を用い、ときに「鳳鳴」と署名する。生没年を含め画歴など未詳である(4)。他に川原慶賀が模写したアイヌ人物図(※※)も組み込まれている。『NIPPON』の彩色については、細かい部分での違いはあるが、大きな違いはない。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」.jpg

[※353] NIPPON Ⅶ 第17図「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

アイヌの能まつり.jpg

●作品名:アイヌの能まつり ●Title:Aine worshipping a deified bear, Ainu
●分類/classification:蝦夷/Ezo, Hokkaidou
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=420&cfcid=156&search_div=kglist

【〔353〕「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」は、祭壇に生贄(いけにえ)の熊を飾り、演舞している図であり、「イオマンテ」(熊祭り)である。タイトルに「オムシャ OMSIA」とあるが、誤りである。「オムシャ」は蝦夷地各場所で出先役人に対する拝謁礼のこと、松前藩主への謁見礼は「ウイマム」という。この原画はライデン国立民族学博物館にあり、「千嶋春里」の署名と「藤原」「与昌」の印があり、『蝦夷風俗図巻』と同一人物の作である。シーボルトは『NIPPON』の注記で、原画の入手経路について記している。

 松前の一日本人が描いたオムシャ祭りの絵を、われわれの友人ソシュロから手に入れ、Ⅶ第17図([※353])に模写した。蝦夷のアイヌ人はふつう、秋のある日にこの祭りをする。

「ソシュロ」とはオランダ通詞の馬場佐十郎であり、彼が文化9年(1812)に松前へ出向した際に入手したものである。同じ作者の『蝦夷風俗図巻』も馬場佐十郎を経由してシーボルトの手に渡ったと考えられる。シーボルトはこの画を川原慶賀に描き直させている。それはライデン国立民族学博物館に残っており、下部にあるタイトルにシーボルトの筆跡で「Omsia」と記されている。この時点で間違ったようである。彩色については、慶賀の画に比べて、ゴザの色合いが違うが、かなり忠実に彩色されていることがわかる。他所の『NIPPON』の彩色もほぼ同じである。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」.jpg

[354] NIPPON Ⅶ 第18図「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

【〔354〕「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」は、「ウイマム」のために松前へやってきたアイヌが、後景にある船から仮設小屋に品物を運び込む図であり、原画は『蝦夷風俗図巻』のなかの一場面である。『NIPPON』の彩色は、小屋のなかの子供のイヤリングを赤色で塗る長崎歴史文化博物館本・慶応大学本と、そうないグループに分けられるが、大きな差はない。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

「樺太 オロッコとスメレンクル」.jpg

[356] NIPPON Ⅶ 第20図「樺太 オロッコとスメレンクル」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

【〔356〕「樺太 オロッコとスメレンクル」は、北カラフトに住むオロッコとスメレンクル(ギリヤーク)の風俗を、間宮林蔵の『北夷分界余話』の挿絵にもとづいて描いている。『NIPPON』によると、彼らはアイヌと異なり、言語も違うという。定住せずに群れをなして移動する彼らの習俗を描いたこの画の注記として、シーボルトは間宮林蔵のスケッチによったものだと明記している。前景のトナカイを引く2人がオロッコ人。トナカイは干した鮭と穀物、魚の皮製の覆いあるいは敷物を運んでいるという。後景の魚をもった男・揺り板に子供を乗せた婦人・獲物をもった漁師などはスメレンクル人であり、樺太のアイヌが建てるような夏の住居を遠景に描いているという。『北夷分界余話』全10巻を見ると、7・8巻にあるいくつかの挿絵を合体させていることがわかる。川原慶賀が描き直した画があったと思われるが、未だライデンでは見出していない。ただし、シーボルトが長崎奉行に提出した『樺太風俗図』のなかに、慶賀が描いた原画と見られるものが数点あるが、トナカイが描かれていなかったりしており、シーボルトは別の画を入手していたと考えられる。彩色についてはどの『NIPPON』もほぼ均質である。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

「朝鮮 漁夫の一家」.jpg

「朝鮮 漁夫の一家」(「シーボルト『NIPPON』 図版編(「339・第2冊」)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_02#?cv=126&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-449%2C-42%2C1896%2C838

シーボルトの未完の大著『NIPPON(日本)』の出版(第一分冊の出版)が開始されたのは、シーボルトがオランダに帰国してから七年後の1832年(天保三)、爾来、その十九年後の1851年(嘉永四)までに第二十分冊を刊行して中断し、1859年(安政六)、シーボルトは再来日したが、その完成を見ずに、1866年(慶応二)に、シーボルトは、その七十年の生涯を閉じることになる。
 そのシーボルトの没後も、その未完の草稿は、シーボルトの遺子(長男:アレクサンダー、次男:ハインリッヒ)が引き継ぎ、その共編で、その『NIPPON(日本)』の第二版の刊行を見たのは、1897年(明治三十)のことで、それは、次の雄松堂刊行の『日本』(全6巻・図録3巻の十巻構成)に引き継がれている。その各巻の構成のとおりとなる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-14

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
    第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
    第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
    第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
    第7編 日本の度量衡と貨幣
    第8編 日本の宗教
    第9編 茶の栽培と製法
    第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
    第13編 琉球諸島
    付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻

 上記のとおり、そもそも、シーポルトが意図していた『NIPPON(日本)』というのは、その副題の、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」で、この「第5巻・第11編 朝鮮」そして「第6巻・ 第12編・蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方: 第13編・ 琉球諸島」というのは、今に続く、「朝鮮(竹島など)・露西亜(北方四島など)・中国(琉球諸島など)と、これらの、シーボルトの洞察した、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」とは、その根っ子では、深く結ばれているということになる。

(参考一)シーボルト「日本」を読んでみた

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html


(参考二)「シーボルド事件」(「事件の発端」「事件の露見」「関係者の取り調べと処分」「事件後」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(参考三)間宮林蔵―「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者

(抜粋)「間宮林蔵 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。隠密。」

http://nippon.nation.jp/Naiyou/MAMIYA/index.htm

【 間宮林蔵による樺太最狭部の検分記録 夷分界余話巻之二 間宮林蔵/述 村上貞助/編 
 シラヌシを去る事凡百六、七十里なる西海岸にウヤクトウ(ワンライとノテトの中間)と称する処あり。是よりして奥地は海岸総て沙地にして、地図中に載するごとく、沼湖の多き事かぞへ得べきにあらず。 此辺より奥地は河水悉く急流のものなく、総て遅流にして濁水なり。其水悉く落葉の気味を存して、水味殊に悪し。 此辺よりして奥地海面総て平にして激浪なし。然れども其地、東韃の地方を隔る事其間僅に十里、七、八里、近き処に至ては二、三里なる迫処なれば、中流潮路ありて河水の鳴流するが如し。 迫処の内何れの処も減潮する事甚しく、其時に至ては海面凡一里の余陸地となり、其眺望の光景実に日本地の見ざる処にして、其色青黄なる水草一面に地上にしき、蒼箔として海水を見ず、其奇景図写すること難し。・・・ ・・・ シラヌシを去る事凡七十里許、西海岸にウショロと称する処あり、此処にして初て東縫地方の山を遠望す。其直径凡廿五、六里許、是より奥地漸々近く是を望み、ワゲー(ラヅカの北三里二五丁〈「里程記」による〉)よりボコベー〔地名〕(ワゲーの北三里二丁〈「里程記」〉)の間に至て、其間僅に一里半許を隔て是を望むと云。島夷東韃に趣く渡口七処あり。シラヌシを去る事凡百七十里許なる処にノテトと称する崎あり〔スメレングル夷称してテツカといふ〕、此処よりして東韃地方カムガタと称する処に渡海す。其問凡九里余を隔つといへども、海上穏にして大抵難事ある事なし。此処よりナッコに至る海路は潮候を熟察して舟を出ざれば至る事難し。前に云ごとく此辺減潮の時に至ては海上一里の余陸地となり、其陸地ならざる処も亦浅瀬多して舟をやるべからず。故に満潮の時といへども海岸に添ふて行事あたわず、能々潮時を考得て岸を去る事一里許にして舟をやると云。
 ノテトの次なる者をナッコといふ〔スメレソクル夷ラッカと称す〕。其間相去る事凡五里許、此処よりして東 カムガタに至るの海路僅に四里許を隔つ。其間大抵穏なりといへども、出崎なれば浪うけあらく、殊に減潮の候、上文のごとくにして、其時を得ざれば舟を出す事あたわず。魚類また無数にして糧を得るに乏しく、事々不便の地なれば、島夷大抵ノテトを以て渡海の処となす。然れども風順あしく又は秋末より海上怒濤多き時は、其海路の近きを便として、此崎より渡海すといふ。ナッコの次なる者をワゲーと称す。其相去る事凡六里許、通船の事亦ノテトよりナッコに至るが如く、能潮候を考得ざれば至る事あたわず。此処よりして東韃ヲッタカパーハと称する処に渡る。其海路稍に一里余許にして、海上穏なりといへども、迫処なれば中流潮路有て急河のごとく、風候に依りて逆浪舟を没する事ありと云。
 ワゲーの次なる者をボコベーと称す。此処よりして東韃ワシブニといふ処に渡海す。其海路亦僅に一里半許を隔て、中流潮路もまたワゲーの如し。ボコベーの次なる処をビロワカセイと称す。ボコベーを去る事凡四里許、此処よりして東鍵の地方に傍ひたる小興に添ふてワルゲーと称する処に渡る事ありといへども、海路凡十里許を隔、且潮時の候又波濾の激起ありて船路穏ならず。ワカセイの次なる処をイシラヲーといふ。其間相去る事凡十五、六里許、是よりして東韃地方ブイロに渡海す。船路凡四里余、中流の潮路殊に急激なるに、此処よりしては漸々北洋に向ひ、此島、韃地の間、里を追ふて相ひらく故に、波濤も激起する事多く、渡海類難なりと云。イシラヲーの次なる処をタムラヲーと云、イシラヲーを去ること凡五里許なるべし〔此処は林蔵が不至処なれば、其詳をしらず〕。此処より東韃地方ラガタなる処に渡る。海路凡八里余ありて、北海の波濤又激入すれば、猶イシラヲーよりブイロに至るが如く難事多しと云。是スメレンクル夷の演話する処なり。凡地勢を概論したらんには前の数条にしてつきぬ。他海底の浅深、泊湾の難易、詳載せずんばあるべからずといへども、共事の錯雑するが為に、此巻只其概論を出してやみぬ。後日沿海図説てふ者を編て其委曲を陳載すべしと云爾。(『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P18,P22~P25)  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。