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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十二) 抱一の二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=鷺山・玉助・松柏堂・春来窓」)」(その周辺)

酒井忠道.jpg

酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家16代。

「酒井忠道」(「ウィキペディア」)
生誕 安永6年9月10日(1777年10月10日)
死没 天保8年7月23日(1837年8月23日)
別名 坂井得三郎?
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下・雅楽頭、従四位下・主計頭、備前守
幕府 江戸幕府
藩 播磨姫路藩主
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠以、母:嘉代姫(松平頼恭の娘)
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:磐(井伊直幸の娘)
子 英(松平斉恒継室)、妙(小笠原長貴正室)、夬(内藤頼寧正室)、寿久(京極高朗継室)、忠親(長男)、忠学
養子:忠実
(生涯)
 第2代藩主酒井忠以の長男。寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。
 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。
 道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の八男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。
 文化11年(1814年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)に61歳で死去した。  

酒井忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家の第4代藩主。雅楽頭系酒井家17代。
生誕 安永8年10月13日(1779年11月20日)
死没 嘉永元年5月27日(1848年6月27日)
改名 直之助(幼名)、忠実
別名 徳太郎、玉助(通称)、以翼、春来窓(号)
戒名 祗徳院殿鷺山源桓大居士
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下河内守、従四位下雅楽頭、侍従、左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
藩 播磨姫路藩主
氏族 酒井氏(雅楽頭家)
父母 父:酒井忠以、母:松平頼恭の娘・嘉代姫
養父: 酒井忠道
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:西尾忠移の娘・隆姫
側室: 於満寿
子: 采、松平忠固、西尾忠受、東、忠讜、三宅康直、酒井忠嗣正室、桃、九条尚忠室ら
養子:忠学、万代
(生涯)
 第2代藩主・酒井忠以の次男。 文化11年(1814年)、兄・忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。 天保6年(1835年)、57歳で隠居する。 家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。 隠居後、鷺山と号した。
 叔父の酒井抱一と交流が深かった。 抱一の句集『軽挙館句藻』には、しばしば「玉助」の名で登場し、抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。 正室の隆姫も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。正室の隆姫は、戦国期の播磨姫路城主・黒田孝高や酒井重忠の血筋を引いている。

「抱一」と二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=春来窓・六花」)周辺

 文化十一年(一八一四)、抱一、五十四歳時の『軽挙館句藻』の二月の項に、次のような記述がある。

  きさらぎ廿七日、初鰹を九皐子のもとより送る
  銀鷺・六花両君に呈す
 花をまつ松のさし枝(え)や七五三
 時有(あり)て居替(いがは)る鶴や松の春

≪ 九皐子(きうかうし)は抱一の孫弟子野沢堤雨(一八三七~一九一七)の父とされ、光琳百回忌の展覧会にも一点出品している。忠道(銀鷺)・忠実に異様に早い貴重な初鰹を進呈し、藩主代替わりを暗示する祝儀句をそれぞれに贈っているから、抱一は叔父として、それなりに兄の遺児である両者に神経を遣っていたようにも感じられる。
忠実の方は抱一から春来窓の号を譲られたほか、合作の俳諧摺物を数点制作している。『句藻』をみれば、忠実にあてた句・和歌、季節の品の贈答記事や祝儀句など言及は多い。両者は同じ次男であり、兄忠道が藩主を辞めなければ、忠実は藩主にはなれなかった。抱一は出家したが、似た境遇のせいか、ことさら可愛がったようである。 ≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 この前年の文化十年(一八一三)に刊行された『屠龍之技』(鵬斎序・春来窓跋・南畝跋)の、その「春来窓(忠実)跋」は、次のとおりである。

≪ 抱一上人、春秋の発句有り。草稿、五車に積(つむ)べし。其(その)十が一を挙(あげ)て一冊とす。上人、居を移(うつす)事数々也。其部(そのぶ)を別(わか)つに其処(そのところ)を以(もつて)す。これ皆、丹青図絵(たんせいづえ)のいとまなり。此(この)冊子(さつし)の跋文を予に投ず。尤(もつとも)、他に譲(ゆづる)べきにもあらず、唯、「寛文・延宝の調(しらべ)を今の世にも弄(もてあそぶ)もの有らば、其(その)判(はん)を乞(こは)ん」と。「是(これ)、上人の望(のぞみ)給(たま)ふところ也」と。春来窓、三叉江のほとりに筆を採(とり) 畢(をはんぬ)。≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 ここで、「忠道=銀鷺」が、その実弟の「忠実=春来窓・六花」に、文化十一年(一八一四)九月に、三十八歳の若さで藩主の座を、二歳下の弟の忠実に譲って隠居し、忠道が亡くなったのは、天保八年(一八三七)の六十一歳の時である。
 この忠道の生存中の天保六年(一八三五)に、忠道から家督を継承した忠実は、忠道の実子の「忠学(ただのり)」に家督を譲って、これまた、五十七歳で隠居している。
 この「(忠以)→忠道→忠実→忠学」 の、播磨国姫路藩酒井家(第三代→第六代)の四代の藩主に仕え、五十年余にわたって、姫路藩の財政再建に貢献した家老が、「河合道臣」(号=寸翁)である。

河合寸翁像.jpg

姫路神社境内の河合寸翁像(「ウィキペディア」)

河合道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)
生誕 明和4年5月24日(1767年6月20日)
死没 天保12年6月24日(1841年8月10日)
改名 道臣→寸翁(号)
別名 隼之介(通称)
墓所 兵庫県姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
主君 酒井忠以→忠道→忠実→忠学
藩 播磨国姫路藩家老
氏族 河合氏
父母 父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘
妻 正室:泰子(林田藩士長野親雄の娘)
子 良臣
養子:良翰(松下高知次男)
≪ 姫路城内侍屋敷で誕生。幼少より利発で知られ、11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕しはじめた。天明7年(1787年)に父の宗見が病死したため家督1000石を相続、21歳で家老に就任する。茶道をたしなむなど、文人肌であった。
 江戸時代後期の諸藩の例に漏れず、姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。寛政2年(1790年)に忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化5年(1808年)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた。
 道臣は質素倹約令を布いて出費を抑制させる一方、文化6年(1809年)頃から領内各地に固寧倉(義倉)を設けて農民を救済し、藩治に努めた。従来の農政では農民に倹約を説きつつ、それで浮いた米を藩が搾取していたが、道臣は領民に生活資金を低利で融資したり、米を無利息で貸すなど画期的な政策を打ち出した。この政策は藩内で反対も多かったが、疲弊した領民を再起させ、固寧倉の設置で飢饉をしのげるようになるなど、藩内の安定につながった。更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られた。
 姫路藩では新田開発は従来から行われていたが、道臣の時期には主に播磨灘沿岸で推進され、新田での年貢減免策もとった。海岸部では飾磨港をはじめとする港湾の整備に努め、米や特産品などの流通に備えた。加えて城下では小麦粉、菜種油、砂糖など諸国からの物産を集積させ、商業を奨励した。
 道臣の業績として特筆されるのは、特産品販売に関する改革である。藩内を流れる市川・加古川流域は木綿の産地だったが、従来は大坂商人を介して販売していたため販売値が高くなっていた。道臣は木綿を藩の専売とし、大坂商人を通さず直接江戸へ売り込むことを計画した。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功する。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博した。また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げた。
 天保6年(1835年)、69歳で隠居し、天保12年に没した。享年75。仁寿山校近くの河合家墓所に葬られた。≫(「ウィキペディア」)

 河合道臣は、抱一より六歳年下、道忠より十歳年上である。忠以が亡くなった寛政二年(一七九〇)には、「反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化五年(一八〇八)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた」という。
 この記述からすると、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」関連については、道臣は深く関わってはいない。そして、この忠以の急逝時には、「姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。」と、当時の酒井家の財政状況というのは、危機的状況下にあり、これらのことと、忠以の急逝時の「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」とは、深い関わりのあることは、想像する難くない。
 そして、忠以の家督を、若干十二歳にして継いだ忠道が、失脚していた河合道臣を再登用し、酒井家の財政再建の道筋を示し、自らは、三十八歳の若さで隠居し、その家督を、傍流の実弟。忠実に継がせて、文字とおり、「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」との、この「三鼎(みつがなえ)」の尽力により、「文政六年(一八二三)に、道臣は二十七年けて藩の負債完済を成し遂げた。」と、その後の「酒井家」の再興が結実することになる。
 そして、この「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」の、この「三鼎(みつがなえ)」を、陰に陽に支え続けた、その人こそ、「酒井抱一(本名=忠因、字名=暉真、ほかに、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号し、俳号=白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名=尻焼猿人、屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている)」の、今に、「江戸琳派の祖」として仰がれている」、その「酒井抱一」にほかならない。

(補記) 「無心帰大道」(無心なれば大道に帰す)

https://hatunekai.com/?seasonwords=%E7%84%A1%E5%BF%83%E5%B8%B0%E5%A4%A7%E9%81%93

≪ 無心とは・・・無事や平常心と同じような意味があり
あれこれと作為したり取捨分別する心を捨てる事、
欲のない澄んだ心の事だそうです。
あれこれと思い悩まずに、
ただ只管(ひたすら)に努力をしていれば
進むべき道、正しい道が見えてくるのだと。 ≫
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