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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十一)抱一の兄「酒井忠以(宗雅・銀鵝)」(その周辺)

酒井宗雅公像.jpg

酒井宗雅公像(姫路神社)(「ウィキペディア」)
≪ 酒井忠以(さかい ただざね)」は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家15代。
 姫路藩世嗣・酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
 絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
 天明元年には将軍の名代として光格天皇の即位式に参賀している。一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとした。だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。家督は長男の忠道が継いだ。
 筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を『玄武日記』(22歳の正月から)『逾好日記』(33歳の正月から)に書き遺している。忠以の大成した茶懐石は『逾好日記』を基に2000年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現している。
(年譜)
1755年(宝暦5年) - 生まれ
1766年(明和3年) - 名を忠以と改名
1772年(安永元年)- 酒井家相続(8月27日)
1781年 (天明元年)- 光格天皇即位式のため上洛
1785年(天明5年) - 溜間詰
1790年(寛政2年) - 死去(7月17日)、享年36 ≫ (「ウィキペディア」)

 この「姫路神社」の「酒井宗雅公像」に彫られている「松風伝古今」こそ、「酒井宗雅(茶号)」その人の一面を、見事にとらえている。

≪ 松風(しょうふう)、古今(ここん)に伝える
 松がなびいている風の音は、今も昔も変わらないように、大切な教えはいつも心に響くのです。今も、弟子入りした時も、師が茶を志した時も、利休が秀吉に茶を点てた時も、茶室の松風は変わっていないのです。

https://www.instagram.com/p/CH6RbnYggjQ/

「松がなびいている風の音」=松籟(しょうらい)
「茶室の松風」=釜の湯の煮え立つ音             ≫

https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/187d966e1297be5a1320476b422458be

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」と「酒井忠因=ただなお(抱一)」

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」
○若くして幕府の重責(将軍名代・溜詰)を担うー将軍補佐役として 重要な地位ー
・第10代将軍 家治の日光東照宮社参に跡乗を務める 安永5年(1776) 22歳
・将軍家治の名代として、光格天皇即位式に参賀   安永10年)1781) 27歳
・将軍家治より 「溜詰」を命じられる        天明5年(1785) 31歳
・将軍家斉の名代として 日光東照宮社参       天明7年(1787) 33歳
○松江藩主 松平不昧(治郷)との交流 -茶人酒井宗雅ー
・酒井雅楽頭は 代々大名茶道・石州流
・松江藩主 松平治郷と姫路藩主 酒井忠以が 日光諸社堂修復の助役を命じられる
・松平不昧に師事し 茶道を伝授される。「弌得庵」の号を受ける
・酒井家江戸上屋敷に 茶室「逾好庵」(ゆこうあん)を設ける。
○風流大名として 様々な分野で 才能を発揮
・絵画:素人の余技に留まらぬ画才(「富士山図」、「兎図」、「山水図」など)
・俳諧:「銀鵞」(ぎんが)と号し、旅中、日常の出来事、四季折々を多くの句稿に残す。
・和歌:初就封の途に詠んだ「大比叡や小比叡の山に立つ雲は志賀辛崎の雨となるらん」
○「玄武日記」62冊の編纂
・忠以(宗雅)の公用日記(安永5年(1776)正月~寛政2年(1790)6月)

「酒井忠因=ただなお(抱一)」
○兄(忠以)の庇護のもと恵まれた青年期を過ごす
-若くして「吉原」に通い、奔放な生活を謳歌、江戸の市井文化に参加ー
・17歳のころから 馬場存儀(ぞんぎ)に入門し 俳諧を始める
・「尻焼猿人」の狂号で 狂歌を数多く発表
・20代は 浮世絵美人画を中心に描く(歌川豊春に倣う肉筆浮世絵)
○出家-武士の身分を捨てるー (寛政9年(1797) 37歳)
・西本願寺第18世 文如上人の弟子になり、得度。
「権大僧都等覚院文栓暉真」の法名を名乗る
(出家の前年、姫路藩主 酒井忠道が 弟忠実を養子にと幕府に願い出)
○江戸・新吉原の遊女を落籍。 大塚村へ転居(文化6年(1809) 49歳)
・新吉原・大文字楼の遊女香川を落籍
・内妻とするとともに、下谷金杉 大塚村へ転居
(後に、「雨華(うげ)庵」の扁額(姫路藩主 酒井忠実直筆)を掲げる(文化14年))
○尾形光琳に私淑 -琳派の美術に傾倒ー
・江戸で尾形光琳100回忌法要と光琳遺墨展を開催(文化12年(1815) 55歳)
・『光琳百図』を刊行。文化年間の60歳前後から、より洗練された花鳥図、四季の移ろい、自然の風趣を描く。-後に「江戸琳派」と言われるー 

「二人の師」(「松平不味」と「柳澤米翁」)

「松平不味(ふまい)」(「松平治郷(はるさと)」)(「ウィキペディア」)
 松平治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩10代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守、左近衛権少将。雲州松平家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。その収集した道具の目録帳は「雲州蔵帳」とよばれる。
生誕 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]
死没 文政元年4月24日(1818年5月28日)
改名 鶴太郎(幼名)、治郷、不昧(法号)
戒名 大円庵不昧宗納大居士
墓所 東京都文京区大塚の護国寺、京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭孤篷庵、島根県松江市外中原町の月照寺
官位 従四位下侍従、佐渡守、出羽守、左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治、家斉
藩 出雲松江藩主
氏族 雲州松平家
父母 松平宗衍、歌木
兄弟 治郷、衍親、蒔田定静、五百、幾百ら
妻 伊達宗村九女方子、武井氏
子 斉恒、男子、富、幾千、岡田善功

松平不眛像.jpg

松平不眛像(松江観光パンフレットより)

「柳澤米翁(ぺいおう)」(「柳沢信鴻(のぶとき)」) (「ウィキペディア」)
柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。
生誕 享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没 寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
藩 郡山藩主
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘
継室:真田信弘の娘
子 保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)

六義園.jpg

水木家旧蔵六義園図 柳沢文庫所蔵『六義園 Rikugien Gardens』より
https://fujimizaka.wordpress.com/2014/05/25/hanamidera4/

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-19

歌麿・抱一.jpg

「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。
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