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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十四)「松永貞徳」(その周辺)

松永貞徳像.jpg

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg
≪「松永貞徳(まつながていとく)
[生]元亀2(1571).京都
[没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年(抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)  

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。
 季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。
 
鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
 「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

「木下長嘯子と松永貞徳」周辺

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486
≪木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁
 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。≫
松永貞徳.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十六 松永貞徳」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1506
≪松永貞徳(まつながていとく) [生]元亀2(1571).京都 [没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある ≫(「ブリタニカ国際大百科事典」)

https://www.buson-an.co.jp/f/haikai30

【蕪村菴俳諧帖30】貞門俳諧

≪ ◆江戸俳諧の開花

 江戸初期の俳諧流派を貞門俳諧(ていもんはいかい)と呼びます。貞徳(ていとく)の門流という意味で、芭蕉の蕉門に相当するもの。宗鑑、守武ら室町俳諧のあと100年ほど停滞していた俳諧を復活させ、 江戸期最初の大輪の花を咲かせたのが、博覧強記の文人 松永貞徳(1571-1653)でした。
貞徳は京都の生まれ。12歳で高名な学者から『源氏物語』の秘伝を授けられ、 20歳の頃からは豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ=書記)となります。
 「貞徳の先生は50人いた」と伝えられるほど多くの師に学んだ貞徳は その豊かな知識と教養を活かすべく30歳にして私塾をひらき、 庶民の子弟を指導するようになります。
 本職は学者、教育者というべきかもしれませんが、 里村紹巴(じょうは)から連歌を学んだのがきっかけで 俳諧の世界に足を踏み入れ、やがてその改革者となっていきます。
 貞徳は日常語や漢語に詩的な価値を与え、 雅語のみを使う和歌、連歌と俳諧とのちがいを明確にしました。また宗鑑などの室町俳諧の悪ふざけ、詠み捨てを否定し、 座興にすぎなかった俳諧の質を高めることに熱心でした。新時代の俳諧理論を書物に著したのも大きな功績でしょう。
 わかりやすい理論に裏打ちされた貞徳の俳諧は人気を博し、 70歳の頃には門弟300名に及ぶ一大勢力となって、 貞徳はまさに俳壇の指導者、支配者として君臨します。同時代には貞徳と直接の関係がない俳家もいたのですが、 かれらまでまとめて貞門と呼ばれてしまうほどでした。

◆蕪村に注ぐ流れ

 貞徳らしさの表れた発句を見てみましょう。

〇花よりも団子やありて 帰る雁

 花の季節だというのに、それを楽しもうとせず帰っていく雁の群。故郷には団子でもあるのではないか、というわけです。「花より団子」を踏まえているのはすぐわかりますが、 じつは『古今和歌集』の次の歌が本歌になっています。

春霞たつを見すてゝ行く鴈は 花なき里に住みやならへる(古今集 春 伊勢)

春霞が立ったのに(花を見ずに)帰ってしまう鴈(=雁)は 花のない里に住みなれているんじゃないかと。帰雁(きがん)を花を解せずとみなすのは和歌の伝統です。
歌詠みでもあった貞徳は、それを俳諧に採り入れたのです。

〇雪月花 一度に見するうつぎかな

これは漢語を用いた例。うつぎ(空木/卯木)は梅雨入り前後に清楚な白い花をつけますが、 その美しさを四季の風物(雪月花)を同時に見るようだと称えています。
蕪村とその一派が漢語を多用していたことを思うと、 貞徳はその大先輩だったことになります。≫

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/729

松永貞徳筆和歌懐紙.jpg

「松永貞徳筆和歌懐紙」(「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
≪ 松永貞徳〈まつながていとく・1571-1653〉は、江戸時代初期の俳人・歌人・歌学者。京都に生まれ、名は勝熊。長頭丸・延陀丸をはじめ、数多くの号を用いた。晩年は京都五条稲荷町の「花咲の宿」と称す家に住み、五条の翁・花咲の翁とも呼ばれた。自著『戴恩記』には「師の数五十余人」と記す。連歌師であった父永種〈ながたね・1538-98〉の縁もあって、九条稙通・里村紹巴・細川幽斎・飛鳥井雅春といった良師に恵まれ、和歌・歌学をはじめ、儒学・連歌・神道・有職故実など一流の教養を身につけた。木下長嘯子と並び称される当代の代表歌人である。また、俳諧の上手としても知られ、俳壇の中心的存在となり貞門派を創始した。この懐紙は自詠の和歌一首を書いたもの。貞徳は一時、豊臣秀吉の右筆をつとめたという能書。和歌の師であった細川幽斎の書を連想させる、細身で重心の高い字形は、知的ですがすがしい。気品にあふれる落ち着いた書きぶりは、充実した壮年期のものであろうか。家集『逍遊集』に所収される一首。「「山花を待つ」ということを詠める和歌/長頭丸/山里は知る人もなし花咲かばなれよ夢にも黄楊(つげ)の小枕」

詠待山花和歌/長頭丸/やまざとはしる人/もなしはなさかばなれ/よゆめにもつげのを/まくら   ≫

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