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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十八)「秋色・許六・支考」(その周辺)

秋色肖像真蹟.jpg

「秋色(穐色)肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05709/index.html

 「秋色」の自筆短冊の句は、「武士(もののふ)の紅葉にこりず女とは」で、その意は、下記のアドレスによると、「冠里公の屋敷で酒宴となり家来たちがからかったのに対して詠んだと記録にある。『紅葉にこりず』は謡曲『紅葉狩』の鬼女を踏んでいて、また酔って赤い顔の侍を諷してもいるのであろう」ということである。

https://enokidoblog.net/talk/2015/12/14881

 上記のアドレスで紹介されている「冠里公」は、其角門の大名俳人「安藤信友(俳号=冠里)」(備中国松山藩二代藩主)を指している。
《 安藤 信友(あんどう のぶとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。備中国松山藩2代藩主、美濃国加納藩初代藩主。官位は従四そして、位下・対馬守、侍従。対馬守系安藤家4代。6万5000石。享保7年(1722年)徳川吉宗の治世で老中に任ぜられる。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。俳諧よくし、宝井其角の門下、号は冠里。》(「ウイキペディア」)
 そして、この「秋色」は、「其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した」、其角の後継者の一人である「秋色女(しゅうしきじょ)」その人である。

≪ 秋色女(しゅうしきじょ、寛文9年(1669年)[要出典] - 享保10年4月19日(1725年5月30日)は江戸時代の俳人。通称おあき]、号は菊后亭。氏は小川氏か。江戸小網町の菓子屋に生まれる(現在東京都港区にある秋色庵大坂家という和菓子店である)。  
 五世市川團十郎の大叔母にあたる。夫の寒玉とともに宝井其角に師事して俳諧を学ぶ[1]。1690年(元禄3年)初入集[1]。其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した。
 13歳の時、上野寛永寺で「井戸端の桜あぶなし酒の酔」の句を詠んだという秋色桜伝説]や、武家の酒宴に召されて「武士の紅葉にこりず女とは」と詠んだという女丈夫伝説[1]など、川柳・錦絵・講談・歌舞伎の題材として扱われた。≫《「ウイキペディア」》

 抱一にとって、「秋色女」に連なる「「五世市川團十郎」とは昵懇の間柄である。「其角好き」の抱一が、「秋色女贔屓」については、想像するに難くない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-23

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

支考肖像真蹟.jpg

「支考肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05707/index.html

 支考の自筆短冊の句は、「線香に眠るも猫のふとん哉」のようである。しかし、その前書
が不分明で、「愛猫との分かれ」の句のように解して置きたい。
その上で、この句は、『風俗文選(許六編)』所収の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」(『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」)の「祭文(さいもん・さいぶん)=祭りの時、神の霊に告げる文。また、神式葬儀の時、死者の霊に告げる文」と、どことなく、イメージが連なっているような感じがする。

≪  祭猫文 小序   支考

(漢文→省略)

※A(俳文=俳諧文)

李四が草庵に、ひとつの猫児(めうじ)ありて、これをいつくしみ思ふ事、人の子をそだつるに殊ならず。ことし長月廿日ばかり、隣家の井にまとひ入て身まかりぬ。其墓を庵のほとりに作りて、釈ノ自圓とぞ改名しける。彼レをまつる事、人をまつるに殊ならぬは。此たび爪牙(そうげ)の罪をまぬがれて、変成男子の人果にいたらむとなり。其文曰。

※B(俳詩=俳諧詩=仮名詩+真名詩)

秋の蝉の露に忘れては。鳥部山を四時に噪(さは)ぎ。
秋の花の霜にほこるも。馬嵬(かい)が原の一夜に衰(をとろ)ふ。
 きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
 けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。
されば  柏木衛門の夢。
     虚堂和尚の詩。
恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。
 鼠は可捕(とら)とつく(作)りて。褒美は杜工部。
 蛙は無用といまし(誠)めて。異見は白蔵司
昔は女三の宮の中、牡丹簾(すだれ)にかゞ(輝)きて。花はまさ(正)にはや(速)く。。
今は李四が庵の辺、天蓼(またたび)垣あれ(荒)て。実(み)はすで(已)におそ(遅)し
前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
玉の林の鳥も啼らむ(良無)。
蓮の臺(うてな)の花も降らし(良之)。
 涅槃の鐘の声冴(さえ)て。囲炉裏の眠(ねむり)たちま(忽)ちにおどろ(驚)き。
 菩提の月の影晴(はれ)て。卒塔婆の心(こころ)なに(なに)ゝかうたが(疑)う。
    如 是 畜 生  
    南 無 阿 弥
    弔 古 戦 場 文 ≫((『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」・「佐々醒雪解題・国民文庫刊行会刊・『俳諧俳文集(全)』)

 『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著・角川選書)』では、「俳文・俳詩の創造―江戸の詩文改革」の一章を設け、「俳詩の創始者支考―仮名詩と真名詩」の中で、『風俗文選(本朝文選)・許六編』に続く、『風俗文鑑(本朝文鑑)・支考編』と『和漢文藻・支考編』の三部作で、所謂、「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」を体系化、そして、その実践化して行くこの一旦を紹介している。
 ここでは、これらの「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」には立ち入らないで、この「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「祭文」(「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」)と、支考の「猫」の句の関係について見ていきたい。

うき恋にたえてや猫の盗喰 (支考(『續猿蓑』))
(句意=恋の季節の猫は食事などにかまってはいられない。さりながら、食わなくては死んでしまうので時ならぬ時刻に盗み食いをしているのであろう。我が家のおいしい食べ物を盗んだ奴がいるが、そういう事情と思って許してやろう。=「芭蕉DB」)

 この支考の『続猿蓑』所収の句は、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているであろう。

≪ 恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。  ≫

羽二重(はぶたえ)の膝に飽きてや猫の恋 (各務支考)
https://suzielily.exblog.jp/22758128/

 この支考の句もまた、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているように思われる。

≪  きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
   けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
   前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。  ≫
   
 ここまで来ると、冒頭の、渡辺崋山が描いた「支考肖像画」に付せられている、支考の句の「線香に眠るも猫のふとん哉」の一句が、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「四行詩」と一体化してくる。

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考)         ≫

 ここに、抱一の一句を添えたいのである。

https://jozetsukancho.blogspot.com/2017/11/blog-post_18.html

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考) 
  から猫や蝶噛む時の獅子奮迅 (屠龍=抱一)        ≫

 この「屠龍=抱一」の「から(唐)猫」の一句は、「都市蕉門」の「江戸座」の一角を占める「東風派俳諧」を自負している「屠龍=抱一」の、「田舎蕉門」の「美濃派の総帥」の、「盤子・野盤子・見龍・東華坊・西華坊・蓮二・蓮二坊・十一庵・獅子庵・獅子房・獅子老人・渡辺ノ狂・白狂・羚羊子・是仏房・瑟々庵・万寸・饅丁・華表人・羶乙子・表蝶子・博望士・烏有仙・黄山老人・坊主仁平・佐渡入道・霊乙・橘尼子・桃花仙・松尊者竹羅漢・卉名連」の号(又は変名)を有する、「蕉門十哲」の一人に数えられる「支考」への、痛切な揶揄とも激励とも思われるものと解したい。

≪ 各務支考(かがみ・しこう)(寛文5年~享保16年(1731.2.7)
美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田 からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 芭蕉との出会いは元禄3年、芭蕉が幻住庵に入った頃と、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。
 蕉門随一の理論家といわれる反面、正徳1年(1711)8月15日には、自分の葬儀を主催するなど風狂の風があり、毀誉褒貶もまた激しい。芭蕉も、其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようであることは、書簡などに見える。 死の床における支考の活躍は獅子奮迅のそれであって、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったのである。 上の図のように、生涯坊主姿でとおした。 盤子<ばんし>、隠桂<いんけい>は支考の別号。
(支考の代表作)
野に死なば野を見て思へ草の花  『越の名残』)
鶯の肝つぶしたる寒さかな
腹立てる人にぬめくるなまこ哉
気みじかし夜ながし老いの物狂ひ
賭にして降出されけりさくら狩 (『続猿蓑』)
むめが香の筋に立よるはつ日哉 (『炭俵』)
鳥のねも絶ず家陰の赤椿    (『炭俵』)
卯の花に扣ありくやかづらかけ (『炭俵』)
夕貌の汁は秋しる夜寒かな   (『炭俵』)
杉のはの雪朧なり夜の鶴    (『炭俵』)
うき恋にたえてや猫の盗喰   (『續猿蓑』)
春雨や枕くづるゝうたひ本   (『續猿蓑』)
朧夜を白酒賣の名殘かな    (『續猿蓑』)
蜀魄啼ぬ夜しろし朝熊山    (『續猿蓑』)
しら雲やかきねを渡る百合花  (『續猿蓑』)
里の子が燕握る早苗かな    (『續猿蓑』)
凉しさや縁より足をぶらさげる (『續猿蓑』)
帷子のねがひはやすし錢五百  (『續猿蓑』)
二見まで庵地たづぬる月見哉  (『續猿蓑』)
粟の穂を見あぐる時や啼鶉   (『續猿蓑』)
何なりとからめかし行秋の風  (『續猿蓑』)
居りよさに河原鶸來る小菜畠  (『續猿蓑』)
一霜の寒や芋のずんど刈    (『續猿蓑』)
煮木綿の雫に寒し菊の花    (『續猿蓑』)
ひとつばや一葉一葉の今朝の霜 (『續猿蓑』)
野は枯てのばす物なし鶴の首  (『續猿蓑』)
水仙や門を出れば江の月夜   (『續猿蓑』
ふたつ子も草鞋を出すやけふの雪(『續猿蓑』)
余所に寐てどんすの夜着のとし忘(『續猿蓑』)
その親をしりぬその子は秋の風 (『續猿蓑』)
食堂に雀啼なり夕時雨     (『續猿蓑』)
縁に寐る情や梅に小豆粥    (『續猿蓑』)
はつ瓜や道にわづらふ枕もと  (『續猿蓑』)
馬の耳すぼめて寒し梨子の花  (『 去来抄』)
花書よりも軍書にかなし吉野山 (『俳諧古今抄』)
いま一俵買おうか春の雪    (『烏の道』)
馬の耳すぼめて寒し梨の花   (『葛の松原』)
出女の口紅をしむ西瓜哉    (『東華集』)
船頭の耳の遠さよ桃の花    (『夜話狂』)  ≫(「芭蕉DB」所収「各務支考」)
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