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夏目漱石の「俳句と書画」(その一) [「子規と漱石」の世界]

その一「あかざと黒猫図(漱石)」周辺

あかざと黒猫図(漱石).jpg

「あかざと黒猫図」(夏目漱石画/墨,軸/1311×323/箱書き:漱石書「あかざと黒猫」「大正三年七月漱石自題」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)

https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

 その解説文は、次のとおり。

あかざと黒猫図(漱石)解説文.gif

「漱石『猫』句五句選

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

里の子の猫加えけり涅槃像    (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
行く年や猫うづくまる膝の上    (漱石・32歳「明治31年(1898)」)
朝がおの葉影に猫の目玉かな   (漱石・39歳「明治38年(1905)」)
恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石・41歳「明治40年(1907)」)
この下に稲妻起こる宵あらん(漱石・42歳「明治41年(1908)」)=『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句)          

「漱石『『吾輩は猫である』追善五句選」

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

センセイノネコガシニタルサムサカナ  (松根東洋城)
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高浜虚子)
猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり  (鈴木三重吉)
蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元  (寺田寅彦)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき     (同上)


「漱石『猫』句周辺」

(恋猫)=春

164 恋猫や主人は心地例ならず (漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 我を忘れた恋猫のふるまいにあおられた主人のさま。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

643  猫知らず寺に飼はれて恋わたる (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪ 「恋わたる」=恋して出歩くさま。子規の添削句。原句は「猫知らず寺に飼はれて恋をする」。これは寺に飼われていることを知らない猫のさま。≫(『同上』)
1928 恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石・41歳「明治40年(1897)」)
≪ 恋猫の眼ばかりが目立つさま。≫(『同上』)

(猫の恋)=春

665  金屏を幾所(いくしよ)かきさく猫の恋 (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪ 金屏風を幾か所も引き掻く恋猫のさま。≫(『同上』)

1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ (漱石・31歳「明治30年(1897)」)
≪ 「野良猫」と「山寺」と「猫の恋」との取り合せの句。≫(『同上』)

2436 真向に坐りて見れど猫の恋 (漱石・49歳「大正4年(1915)」)
≪ 画賛の句。真向いに坐っても恋に夢中の猫は見向きもしないさま。≫(『同上』)

(涅槃像)=春

707 里の子の猫加えけり涅槃像  (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪「涅槃像」に、村(里)の子が「猫」を書き加えた。≫(『同上』)

(行く年)=冬・暮

1327 行く年や猫うづくまる膝の上 (漱石・32歳「明治31年(1898)」)
≪「子規へ送りたる句稿二十八」、三十句のトップの句。≫(『同上』)

(朝貌・朝顔)=秋

1872 朝がおの葉影に猫の目玉かな (漱石・39歳「明治38年(1905)」)
≪ 「鹿間涛楼宛「書簡」の句。 ≫(『同上』)

(稲妻)=秋

2085 此の下に稲妻起る宵あらん(漱石・42歳「明治41年(1908年)」)
≪ 九月十三日に『吾輩は猫である』になった猫が死んだ。その猫の墓標の裏に書いた句(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。≫(『同上』)

http://yahantei.blogspot.com/2006/05/blog-post.html


(再掲)

虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
 「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。
 さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。
 この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。
タグ:子規と漱石
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