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夏目漱石の「俳句と書画」(その二) [「子規と漱石」の世界]

その二「東菊自画賛(子規)」周辺

 漱石の俳句は、明治二十二年(一八八九)に、東京大学(予備門)での、正岡子規との出会いによる、次の二句から始まる。

1  帰ろふと鳴かずに笑へ時鳥  (漱石・23歳「明治22年(1889)」)
2   聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (漱石・23歳「明治22年(1889)」)

≪ 季語=時鳥(夏)。「時鳥」の異名「不如帰」(帰るに如かず)に託して喀血した正岡子規を激励した句。子規と時鳥とは同義。正岡子規は明治二十二年五月九日に喀血した。翌日、医者に肺病と診断され、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」
などの句を作った。卯の花を自分になぞらえ(子規は卯年生れ)、肺病(結核)を時鳥と表現俳句。(中略) 子規はこれらの俳句を作ったことから、自ら子規と号するようになった。この年の一月頃に急速に親しくなった漱石は、五月十三日に子規を見舞い、その帰途に子規のかかっていた医師を訪ねて病状や療養の仕方を聞いている。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

東菊図自画賛(子規).jpg

「東菊図自画賛(子規・紙本淡彩・37.6×26.0㎝)
≪ 明治三十三年の作。漱石宛子規書翰に、近頃画を描いており、「一枚見本さしあげかとも存候へども」と記している。東菊が四月、五月頃咲くことなどを考えると、同年初夏に描かれて、六月中旬頃に漱石に送ったものかと思われる。本図の花瓶は叔父加藤拓川から贈られたもので「紫のほのかに匂ふガラスの一輪ざし」(「我家の長物」明治三十三年)で、フランス製である。
 寄漱石
コレハ萎ミカケタル処ト思ヒタマヘ 画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ 嘘ダト思ハバ肱ツイテカヒテ見玉ヘ 規
 あづま菊いけて置きけり
  火の国に住みける
   君の帰りくるがね
と記したこの画について、漱石は「子規の画」(明治四十四年=一九一一)に、

 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。
 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。
 (中略)
 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。
  (中略)
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。

と子規の画を漱石独特の観方で述べている。 ≫(『俳人の書画美術7 子規(集英社刊)』所収「作品解説13(和田茂樹)」)

 この子規の画中に記されている、子規の短歌の「あづま菊いけて置きけり/火の国に住みける/君の帰りくるがね」の、その「火の国」は、当時、漱石が赴任していた「第五高等学校」(明治二十九年から同三十三年の五年弱)の「熊本」を指し、「帰りくるがね」は、「帰って来るように」という意味の「万葉的」な用例ということになる。

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

http://urawa0328.babymilk.jp/siki/siki0.html

≪ 「正岡子規ゆかりの地」の抜粋
明治22年(1889年)5月9日、喀血。初めて「子規」と号す。
明治25年(1892年)11月14日、母と妹を神戸に出迎える。17日、帰京。正岡家は一家で東京に移る。
明治25年(1892年)12月1日、日本新聞社入社。
明治27年(1894年)2月1日、上根岸町82番地(羯南宅の東隣)に転居。
明治28年(1895年)4月7日、正岡子規は近衛師団司令部と共に海城丸に乗り、宇品を発する。その帰路に喀血。
明治28年(1895年)、病気療養のため帰省52日間にわたり愚陀佛庵で夏目漱石と共同生活を送る。
明治28年(1895年)10月12日、正岡子規送別会。
明治31年(1898年)3月14日、『新俳句』発行。
明治35年(1902年)9月19日未明、正岡子規歿す。21日、大龍寺に埋葬。≫

http://urawa0328.babymilk.jp/siki/sansakusyuu.html

≪ 正岡子規「散策集」抜粋 
 明治28年(1895年)9月20日、子規は漱石の愚陀佛庵で療養していたが、いつになく体調がよく、この日はじめて散歩に出た。柳原極堂が一緒だった。

明治二十八年九月二十日午後   子規子
 今日はいつになく心地よければ折柄來合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀佛庵を立ち出づる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず。玉川町より郊外には出でける。見るもの皆心行くさまなり。

杖によりて町を出づれは稲の花
秋高し鳶舞ひしつむ城の上
大寺の施餓鬼過ぎたる芭蕉哉
秋晴れて見かくれぬベき山もなし
秋の山松鬱として常信寺
(以下「略」)

明治28年10月6日、快晴だし日曜日だったので、子規は同居の漱石と道後へ吟行。

明治廿年九月六     子規子
 今日は日曜なり 天氣は快晴なり 病氣は輕快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層樓中天に聳えて來浴の旅人ひきもきらず

   温泉樓上眺望
柿の木にとりまかれたる温泉哉

松枝町を過ぎて寶嚴寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の靈地とかや 古往今來當地出身の第一の豪傑なり 妓廊門前の楊柳往來の人をも招かで一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覺えて

古塚や戀のさめたる柳散る

   寶嚴寺の山門に腰うちかけて
色里や十歩はなれて秋の風

明治28年(1895年)10月7日、子規は人力車で今出(いまず)の村上霽月を訪ねた。

明治廿八年十月七日     子規子

今出の霽月一日我をおとづれて來れといふ。われ行かんと約す。期に至れば連日霖雨濛々 我亦褥(しとね)に臥す。爾後十餘日霽月書を以て頻りに我を招く。今日七日は天氣快晴心地ひろくすがすがしければ俄かに思ひ立ちて人車をやとひ今出へと出で立つ。道に一宿を正宗寺に訪ふ 同伴を欲する也。一宿故ありて行かず

朝寒やたのもとひゞく内玄関    ≫

http://urawa0328.babymilk.jp/arekore/murakami0.html

≪ 「村上霽月ゆかりの地」抜粋

明治28年(1895年)10月7日、正岡子規は人力車で霽月邸を訪ねる。
明治28年(1895年)11月、上京中に根岸の子規庵を訪ねる。
明治29年(1896年)1月3日、高浜虚子は子規庵の初句会で村上霽月を知る。この日、夏目漱石、森鴎外も出席。
明治29年(1896年)3月1日、漱石と虚子が霽月を訪ねる。
明治29年(1896年)4月、高浜虚子は夏目漱石の第五高等校赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に泊まる。漱石は霽月に贈る句を虚子に托している。

   松山より熊本に行く時
   虚子に托して霽月に贈る〔一句〕
逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし     ≫
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