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夏目漱石の「俳句と書画」(その三) [「子規と漱石」の世界]

その三「英国留学中の夏目漱石の絵はがき」周辺

https://www.sankei.com/photo/story/news/180523/sty1805230006-n1.html

≪ 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いたはがき3通が福井市内の古書店で見つかった。「僕ハ独リボツチデ淋イヨ」。異国での孤独な思いが細かな字でつづられており、鑑定した中島国彦・早稲田大名誉教授(日本近代文学)は「ロンドンでの生活ぶりが率直に書かれた貴重な資料」としている。福井県が23日、発表した。
 3通は、漱石がロンドンに渡った直後の1900年11月から翌年8月にかけて書かれた。寄託された県立こども歴史文化館によると、いずれも1917年から刊行された全集に掲載されているが、原本は所在不明となっていた。昨年9月、入手した古書店から同館に連絡があった。
 宛先はドイツ文学者藤代禎輔と福井県出身の国文学者芳賀矢一で、2人とも当時ドイツに留学していた。≫

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 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その一)

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 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その二)

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 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その三)

    倫敦にて子規の訃を聞て(五句)
1824 筒袖や秋の棺にしたがはず (漱石・36歳「明治35年(1902)」) 
≪ 季=秋(雑)。※子規は九月十九日に他界した。虚子から要請のあった子規追悼文に代えてこれらの句を送った。その書簡では子規の死について、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候」と述べている。その後で、「子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖にてピステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と言い、これらの句を記した。句のあとに「皆蕪雑句をなさず。叱正」とある。筒袖は洋服姿。◇書簡(高浜虚子宛、明治35.12.1)。雑誌「ホトトギス」(明治36.2)。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1825 手向くべき線香もなくて暮の秋 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=暮の秋。◇1824。≫(「同上」)

1826 霜黄なる市に動くや影法師 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=霧(秋)。◇1824。(「同上」)≫

1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=きりぎりす(秋)。◇1824。≫(「同上」)

1626 招かざる薄に帰り来る人ぞ (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=薄(秋)。◇1824。≫(「同上」)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202010190000/

≪   筒袖や秋の柩にしたがはず    漱石(明治35)
   手向くべき線香もなくて暮の秋  漱石(明治35)
   霧黄なる市に動くや影法師    漱石(明治35)
   きりぎりすの昔を偲び帰るべし  漱石(明治35)
   招かざる簿に帰り来る人ぞ    漱石(明治35)
漱石のところに子規の死を知ったのは、高浜虚子と河東碧梧桐の手紙が届いた11月下旬のことでした。
 漱石は、高浜虚子への手紙に「倫敦にて子規の訃を聞きて」という詞書で読んだ5つの俳句を送っていますが、最後に「皆蕪雑句をなさず。叱正」 と描き、その悲しみを吐露しています。
 
 そして、この手紙を書いた4日後の12月5日、漱石は日本郵船会社の博多丸に乗り、印度洋を通って日本に帰ってきました。
 
 啓。子規病状は毎度御恵送のほととぎすにて承知致候処、終焉の模様逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶い申間敷と存候。これは双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、あるいは本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰籍かたがたかき送り候。筆のすさび取るに足らぬ冗言と御覧被下度、その後も何かかき送り度とは存候いしかど、御存じの通りの無精ものにて、その上時間がないとか勉強をせねばならぬなどと生意気なことばかり申し、ついつい御無沙汰をしておる中に故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄らに対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。
 同人生前のことにつき何か書けとの仰せ承知は致し候えども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。
 さて小生来五日いよいよ倫敦発にて帰国の途に上り候えば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕万事はその節まで御預りと願いたく、この手紙は米国を経て小生よりも四五日さきに到着致すことと存候。子規追悼の句何かと案じ煩い候えども、かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりはむしろ無理やりに得さしめたる次第に候えば、ただ申訳のため御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半ば日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。
 文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にて認め候えば、くるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におえぬ代物と相成候。日本に帰り候えば随分の高襟党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。
     倫敦にて子規の訃を聞きて
   筒袖や秋の柩にしたがはず
   手向くべき線香もなくて暮の秋
   霧黄なる市に動くや影法師
   きりぎりすの昔を偲び帰るべし
   招かざる簿に帰り来る人ぞ
 皆蕪雑句をなさず。叱正。(高浜虚子宛書簡 明治35年12月1日) ≫

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1967/32/1967_32_1/_pdf/-char/ja

「漱石の俳句(熊坂敦子稿)」

≪  1789 秋風の一人をふくや海の上   明治三十三年
  1790 阿呆鳥熱き国へそ参りける    同上
      倫敦にて子規の訃を聞ぎて
  1824 筒袖や秋の柩にしたがはず   明治三+五年   ≫
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