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夏目漱石の「俳句と書画」(その九) [「子規と漱石」の世界]

その九 漱石の「第五高等学校」」時代(その四・明治三十二年周辺)

蕪村忌.jpg

「蕪村忌(明治32年(1899)12月)」 (子規庵蔵)
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/famous_persons/shiki/japanese/page_04.html
≪西側黒板塀前で撮影。子規は、中央で脇息(きょうそく、肘掛け)にもたれています。≫

http://chikata.net/?p=2883

(再掲)

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
1月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

(追記) 夏目漱石俳句集(その六)<制作年順> 明治32年(1430~1540)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200912article_1.html

明治32年(1899年)

1430 我に許せ元日なれば朝寝坊(「虚子・碧悟桐」宛書簡)

1431 金泥の鶴や朱塗の屠蘇の盃 (子規へ送りたる句稿三十二・七十五句・一月)
1432 宇佐に行くや佳き日を選む初暦
1433 梅の神に如何なる恋や祈るらん
1434 うつくしき蜑の頭や春の鯛
1435 蕭条たる古駅に入るや春の夕
1436 兀として鳥居立ちけり冬木立
1437 神苑に鶴放ちけり梅の花
1438 ぬかづいて曰く正月二日なり
1439 松の苔鶴痩せながら神の春
1440 南無弓矢八幡殿に御慶かな
1441 神かけて祈る恋なし宇佐の春
1442 呉橋や若菜を洗ふ寄藻川
1443 灰色の空低れかゝる枯野哉
1444 無提灯で枯野を通る寒哉
1445 石標や残る一株の枯芒
1446 枯芒北に向つて靡きけり
1447 遠く見る枯野の中の烟かな
1448 暗がりに雑巾を踏む寒哉
1449 冬ざれや狢をつるす軒の下
1450 凩や岩に取りつく羅漢路
1451 巌窟の羅漢共こそ寒からめ
1452 釣鐘に雲氷るべく山高し
1453 凩の鐘楼危ふし巌の角
1454 梯して上る大盤石の氷かな
1455 巌頭に本堂くらき寒かな
1456 絶壁に木枯あたるひゞきかな
1457 雛僧の只風呂吹と答へけり
1458 かしこしや未来を霜の笹結び
1459 二世かけて結ぶちぎりや雪の笹
1460 短かくて毛布つぎ足す蒲団かな
1461 泊り合す旅商人の寒がるよ
1462 寐まらんとすれど衾の薄くして
1463 頭巾着たる猟師に逢ひぬ谷深み
1464 はたと逢ふ夜興引ならん岩の角
1465 谷深み杉を流すや冬の川
1466 冬木流す人は猿の如くなり
1467 帽頭や思ひがけなき岩の雪
1468 石の山凩に吹かれ裸なり
1469 凩のまがりくねつて響きけり
1470 凩の吹くべき松も生えざりき
1471 年々や凩吹て尖る山
1472 凩の峰は剣の如くなり
1473 恐ろしき岩の色なり玉霰
1474 只寒し天狭くして水青く
1475 目ともいはず口ともいはず吹雪哉
1476 ばりばりと氷踏みけり谷の道
1477 道端や氷りつきたる高箒
1478 たまさかに据風呂焚くや冬の雨
1479 せぐゝまる蒲団の中や夜もすがら
1480 薄蒲団なえし毛脛を擦りけり
1481 僧に似たるが宿り合せぬ雪今宵
1482 雪ちらちら峠にかかる合羽かな
1483 払へども払へどもわが袖の雪
1484 かたかりき鞋喰ひ込む足袋の股
1485 隧道の口に大なる氷柱かな
1486 吹きまくる雪の下なり日田の町
1487 炭を積む馬の脊に降る雪まだら
1488 漸くに又起きあがる吹雪かな
1489 詩僧死して只凩の里なりき
1490 蓆帆の早瀬を上る霰かな
1491 奔湍に霰ふり込む根笹かな
1492 つるぎ洗ふ武夫もなし玉霰
1493 新道は一直線の寒さかな
1494 棒鼻より三里と答ふ吹雪哉
1495 なつかしむ衾に聞くや馬の鈴
1496 親方と呼びかけられし毛布哉
1497 餅搗や明星光る杵の先
1498 行く年の左したる思慮もなかりけり
1499 染め直す古服もなし年の暮
1500 やかましき姑健なり年の暮
1501 ニッケルの時計とまりぬ寒き夜半
1502 元日の富士に逢ひけり馬の上
1503 蓬莱に初日さし込む書院哉
1504 光琳の屏風に咲くや福寿草
1505 眸に入る富士大いなり春の楼  (1431~「同上」)

1506 馬に蹴られ吹雪の中に倒れけり(「手帳」より 三十一句)
1507 雪の客僧に似たりや五七日
1508 沈まざる南瓜浮名を流しけり
1509 石打てばかららんと鳴る氷哉
1510 楽しんで蓋をあくれば干鱈哉
1511 乾鮭や薄く切れとの仰せなり
1512 妾と郎離別を語る柳哉
1513 春風に祖師西来の意あるべし
1514 禅僧に旛動きけり春の風
1515 郎を待つ待合茶屋の柳かな
1516 鞭つて牛動かざる日永かな
1517 わが歌の胡弓にのらぬ朧かな
1518 煩悩の朧に似たる夜もありき
1519 吾折々死なんと思ふ朧かな
1520 春此頃化石せんとの願あり
1521 招かれて隣に更けし歌留多哉
1522 追羽子や君稚児髷の黒眼勝
1523 耄碌と名のつく老の頭巾かな
1524 筋違に葱を切るなり都振
1525 玉葱の煮えざるを焦つ火鉢哉
1526 湯豆腐に霰飛び込む床几哉
1527 立ん坊の地団太を踏む寒かな
1528 べんべらを一枚着たる寒さかな
1529 ある時は鉢叩かうと思ひけり
1530 寄り添へば冷たき瀬戸の火鉢かな
1531 雪を煮て煮立つ音の涼しさよ
1532 挙して曰く可なく不可なし蕪汁
1533 善か悪か風呂吹を喰つて我点せよ
1534 何の故に恐縮したる生海鼠哉
1535 老たん(※耳偏に冉)のうとき耳ほる火燵かな
1536 仏画く殿司の窓や梅の花     (1506~「同上」)

1537 夫子貧に梅花書屋の粥薄し(子規へ送りたる句稿三十三・一〇五句・二月)
1538 手を入るゝ水餅白し納屋の梅
1539 馬の尻に尾して下るや岨の梅
1540 ある程の梅に名なきはなかり鳧
1541 奈良漬に梅に其香をなつかしむ
1542 相伝の金創膏や梅の花
1543 たのもしき梅の足利文庫かな

1544 抱一は発句も読んで梅の花
≪季=梅の花(春)。※抱一は江戸後期の画家、酒井抱一。諸芸に優れ、俳諧は江戸座に学んだ。自選発句集『屠龍之技』がある。≫

1545 明た口に団子賜る梅見かな
1546 いざ梅見合点と端折る衣の裾
1547 夜汽車より白きを梅と推しけり
1548 死して名なき人のみ住んで梅の花
1549 法橋を給はる梅の主人かな
1550 玉蘭と大雅と語る梅の花
1551 村長の上座につくや床の梅
1552 梅の小路練香ひさぐ翁かな
1553 寄合や少し後れて梅の掾
1554 裏門や酢蔵に近き梅赤し
1555 一つ紋の羽織はいやし梅の花
1556 白梅や易を講ずる蘇東坡服
1557 蒟蒻に梅を踏み込む男かな
1558 梅の花千家の会に参りけり
1559 碧玉の茶碗に梅の落花かな
1560 粗略ならぬ服紗さばきや梅の主
1561 日当りや刀を拭ふ梅の主
1562 祐筆の大師流なり梅の花
1563 日をうけぬ梅の景色や楞伽窟
1564 とく起て味噌する梅の隣かな
1565 梅の花貧乏神の祟りけり
1566 駒犬の怒つて居るや梅の花
1567 筮竹に梅ちりかゝる社頭哉
1568 一斎の小鼻動くよ梅花飯
1569 封切れば月が瀬の梅二三片
1570 ものいはず童子遠くの梅を指す
1571 寒徹骨梅を娶ると夢みけり
1572 驢に乗るは東坡にやあらん雪の梅
1573 梅の詩を得たりと叩く月の門
1574 黄昏の梅に立ちけり絵師の妻
1575 髣髴と日暮れて入りぬ梅の村
1576 梅散るや源太の箙はなやかに
1577 月に望む麓の村の梅白し
1578 瑠璃色の空を控へて岡の梅
1579 落梅花水車の門を流れけり
1580 梅の下に槙割る翁の面黄也
1581 妓を拉す二重廻しや梅屋敷
1582 暁の梅に下りて嗽ぐ
1583 梅の花琴を抱いてあちこちす
1584 さらさらと衣を鳴らして梅見哉
1585 佩環の鏘然として梅白し
1586 戛と鳴て鶴飛び去りぬ闇の梅
1587 眠らざる僧の嚏や夜半の梅
1588 尺八のはたとやみけり梅の門
1589 宣徳の香炉にちるや瓶の梅
1590 古銅瓶に疎らな梅を活けてけり
1591 鉄筆や水晶刻む窓の梅
1592 墨の香や奈良の都の古梅園
1593 梅の宿残月硯を蔵しけり
1594 畠打の梅を繞ぐつて動きけり
1595 縁日の梅窮屈に咲きにけり
1596 梅の香や茶畠つゞき爪上り
1597 灯もつけず雨戸も引かず梅の花
1598 梅林や角巾黄なる売茶翁
1599 上り汽車の箱根を出て梅白し
1600 佶倔な梅を画くや謝春星
1601 雪隠の壁に上るや梅の影
1602 道服と吾妻コートの梅見哉
1603 女倶して舟を上るや梅屋敷
1604 梅の寺麓の人語聞こゆなり
1605 梅の奥に誰やら住んで幽かな灯
1606 円遊の鼻ばかりなり梅屋敷
1607 梅の中に且たのもしや梭の音
1608 清げなる宮司の面や梅の花
1609 月升つて枕に落ちぬ梅の影
1610 相逢ふて語らで過ぎぬ梅の下
1611 昵懇な和尚訪ひよる梅の坊
1612 月の梅貴とき狐裘着たりけり
1613 京音の紅梅ありやと尋ねけり
1614 紅梅に艶なる女主人かな
1615 紅梅や物の化の住む古館
1616 梅紅ひめかけの歌に咏まれけり
1617 いち早く紅梅咲きぬ下屋敷
1618 紅梅や姉妹の振る采の筒
1619 長と張つて半と出でけり梅の宿
1620 俗俳や床屋の卓に奇なる梅
1621 徂来其角並んで住めり梅の花
1622 盆梅の一尺にして偃蹇す
1623 雲を呼ぶ座右の梅や列仙伝
1624 紅梅や文箱差出す高蒔絵
1625 藪の梅危く咲きぬ二三輪
1626 無作法にぬつと出けり崖の梅
1627 梅活けて古道顔色を照らす哉
1628 潺湲の水挟む古梅かな
1629 手桶さげて谷に下るや梅の花
1630 寒梅に磬を打つなり月桂寺
1631 梅遠近そぞろあるきす昨日今日
1632 月升つて再び梅に徘徊す
1633 糸印の読み難きを愛す梅の翁
1634 鉄幹や暁星を点ず居士の梅
1635 梅一株竹三竿の住居かな
1636 梅に対す和靖の髭の白きかな
1637 琴に打つ斧の響や梅の花
1638 槎牙として素琴を圧す梅の影
1639 朱を点ず三昧集や梅の花
1640 梅の精は美人にて松の精は翁也
1641 一輪を雪中梅と名けけり    (1537~「同上」)

1642 靴足袋のあみかけてある火鉢哉 (「手帳」より 十六句 )
1643 ごんと鳴る鐘をつきけり春の暮
1644 炉塞いで山に入るべき日を思ふ
1645 白き蝶をふと見染めけり黄なる蝶
1646 小雀の餌や喰ふ黄なる口あけて
1647 梅の花青磁の瓶を乞ひ得たり
1648 郎去つて柳空しく緑なり
1649 行春や紅さめし衣の裏
1650 紫の幕をたゝむや花の山
1651 花の寺黒き仏の尊さよ
1652 僧か俗か庵を這入れば木瓜の花
1653 其愚には及ぶべからず木瓜の花
1654 寺町や土塀の隙の木瓜の花
1655 たく駝呼んで突ばい据ぬ木瓜の花
1656 木瓜の花の役にも立たぬ実となりぬ
1657 若葉して籠り勝なる書斎かな   (1642~「同上」)

1658 暁や白蓮を剪る数奇心 (「村上霽月」宛書簡)  

1659 馬渡す舟を呼びけり黍の間(子規へ送りたる句稿三十四・五十一句・九月)
1660 堅き梨に鈍き刃物を添てけり
1661 馬の子と牛の子と居る野菊かな
1662 温泉湧く谷の底より初嵐
1663 重ぬべき単衣も持たず肌寒し
1664 谷底の湯槽を出るやうそ寒み
1665 山里や今宵秋立つ水の音
1666 鶏頭の色づかであり温泉の流
1667 草山に馬放ちけり秋の空
1668 女郎花馬糞について上りけり
1669 女郎花土橋を二つ渡りけり
1670 囲ひあらで湯槽に逼る狭霧かな
1671 湯槽から四方を見るや稲の花
1672 鑓水の音たのもしや女郎花
1673 帰らんとして帰らぬ様や濡れ燕
1674 雪隠の窓から見るや秋の山
1675 北側は杉の木立や秋の山
1676 終日や尾の上離れぬ秋の雲
1677 蓼痩せて辛くもあらず温泉の流
1678 白萩の露をこぼすや温泉の流
1679 草刈の籃の中より野菊かな
1680 白露や研ぎすましたる鎌の色
1681 葉鶏頭団子の串を削りけり
1682 秋の川真白な石を拾ひけり
1683 秋雨や杉の枯葉をくべる音
1684 秋雨や蕎麦をゆでたる湯の臭ひ
1685 朝寒み白木の宮に詣でけり
1686 秋風や梵字を刻す五輪塔
1687 鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな
1688 灰に濡れて立つや薄と萩の中
1689 行けど萩行けど薄の原広し
1690 語り出す祭文は何宵の秋
1691 野菊一輪手帳の中に挟みけり
1692 路岐して何れか是なるわれもかう
1693 七夕の女竹を伐るや裏の藪
1694 顔洗ふ盥に立つや秋の影
1695 柄杓もて水瓶洗ふ音や秋
1696 釣瓶きれて井戸を覗くや今朝の秋
1697 秋立つや眼鏡して見る三世相
1698 喪を秘して軍を返すや星月夜
1699 秋暑し癒なんとして胃の病
1700 聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ
1701 秋茄子髭ある人に嫁ぎけり
1702 湖を前に関所の秋早し
1703 初秋の隣に住むや池の坊
1704 荒壁に軸落ちつかず秋の風
1705 唐茄子の蔓の長さよ隣から
1706 端居して秋近き夜や空を見る
1707 顔にふるゝ芭蕉涼しや籐の寝椅子
1708 涼しさや石握り見る掌 (前書「寅彦桂浜の石数十顆を送る」)
1709 時くれば燕もやがて帰るなり
1710 秋立つや萩のうねりのやゝ長く (1659~「同上」)

1711 いかめしき門を這入れば蕎麦の花(子規へ送りたる句稿三十五・二十九句・十月)
1712 粟みのる畠を借して敷地なり
1713 松を出てまばゆくぞある露の原
1714 韋編断えて夜寒の倉に束ねたる
1715 秋はふみ吾に天下の志
1716 頓首して新酒門内に許されず
1717 肌寒と申し襦袢の贈物
1718 孔孟の道貧ならず稲の花
1719 古ぼけし油絵をかけ秋の蝶
1720 赤き物少しは参れ蕃椒
1721 かしこまる膝のあたりやそゞろ寒
1722 朝寒の顔を揃へし机かな
1723 先生の疎髯を吹くや秋の風
1724 本名は頓とわからず草の花
1725 苔青く末枯るゝべきものもなし
1726 南窓に写真を焼くや赤蜻蛉
1727 暗室や心得たりときりぎりす
1728 化学とは花火を造る術ならん
1729 玻璃瓶に糸瓜の水や二升程
1730 剥製の鵙鳴かなくに昼淋し
1731 魚も祭らず獺老いて秋の風
1732 樊かい(口偏に會)や闥を排して茸の飯
1733 大食を上座に粟の飯黄なり
1734 瓜西瓜富婁那ならぬはなかりけり
1735 就中うましと思ふ柿と栗
1736 稲妻の目にも留らぬ勝負哉
1737 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな
1738 転けし芋の鳥渡起き直る健気さよ
1739 靡けども芒を倒し能はざる  (1711~「同上」)

1740 重箱に笹を敷きけり握り鮓 (「手帳」より 十四句)
1741 見るからに涼しき宿や谷の底
1742 むつとして口を開かぬ桔梗かな
1743 さらさらと護謨の合羽に秋の雨
1744 渋柿や長者と見えて岡の家
1745 門前に琴弾く家や菊の寺
1746 時雨るゝや足場朽ちたる堂の漏
1747 釣鐘をすかして見るや秋の海
1748 菊に猫沈南蘋を招きけり
1749 部屋住の棒使ひ居る月夜かな
1750 蛤とならざるをいたみ菊の露
1751 神垣や紅葉を翳す巫女の袖
1752 火燵して得たる将棋の詰手哉
1753 自転車を輪に乗る馬場の柳かな  (1740~「同上」)

1754 見るからに君痩せたりな露時雨(霽月の「九州めぐり句稿」より十三句)
1755 白菊に酌むべき酒も候はず
1756 抜けば崇る刀を得たり暮の秋
1757 白菊に黄菊に心定まらず
1758 ホーと吹て鏡拭ふや霜の朝
1759 時雨るや宿屋の下駄をはき卸す
1760 凩や斜に構へたる纏持
1761 旅の秋高きに上る日もあらん
1762 行秋を鍍金剥げたる指輪哉
1763 秋風や茶壺を直す袋棚
1764 醸し得たる一斗の酒や家二軒
1765 京の菓子は唐紅の紅葉哉
1766 長崎で唐の綿衣をとゝのへよ (1754~「同上」)

1767 横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉(「虚子」宛書簡 四句)
1768 炭団いけて雪隠詰の工夫哉
1769 御家人の安火を抱くや後風土記
1770 追分で引き剥がれたる寒かな (1767~「同上」)

1771 決闘や町をはなれて星月夜  (『全集』収載)
1772 安々と海鼠の如き子を生めり
1773 時雨ては化る文福茶釜かな
1774 寒菊や京の茶を売る夫婦もの
1775 茶の会に客の揃はぬ時雨哉
1776 山茶花や亭をめぐりて小道あり
1777 茶の花や長屋も持ちて浄土寺
1778 小春日や茶室を開き南向
1779 水仙や髯たくはへて売茶翁  (1771~「同上」)


(参考) 「 根岸庵を訪う記(寺田寅彦)」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24406_15380.html

 九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居(ぐうきょ)を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑(にぎ)おうている。西郷の銅像の後ろから黒門(くろもん)の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力(じんりき)と何か八釜(やかま)しく云って直(ねぶ)みをしていたが話が纏(まと)まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠(かぶ)ったのがここばかりでない途中でも沢山(たくさん)見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入はいった。鞦韆(ぶらんこ)に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。

其処(そこ)へ美術学校の方から車が二台幌(ほろ)をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場(かんこうば)の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方(そちら)へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切(ひときり)済んだのであろうぴたりと止(やめ)てしまって楽手は煙草などふかしてじろ/\見物の顔を見ている。後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々大姉(だいし)と刻してある。真逆(まさか)に墓表(ぼひょう)とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処(そこ)で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼(せいりょう)な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸(かみねぎし)までの道を聞いたら丁寧(ていねい)に教えてくれた。

不折(ふせつ)の油画(あぶらえ)にありそうな女だなど考えながら博物館の横手大猷院尊前(だいゆういんそんぜん)と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻(しきり)に叩頭(ぬか)ずいていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文(びたいちもん)も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。つくつくほうし(※漢字)が八釜(やかま)しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭(うやうや)しく子規しきの家を尋ねたが知らぬとの答故(ゆえ)少々意外に思うて顔を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。
交代の時間が来たからと云うて序(つい)でにこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔おうへいがお)が癪(しゃく)にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸(やしき)と云うに行当(ゆきあた)ったので漱石師(そうせきし)に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路(こうじ)で角に鶯横町(うぐいすよこちょう)と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十間(けん)ばかり行くと左側に正岡常規(つねのり)とかなり新しい門札がある。黒い冠木門(かぶきもん)の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予(かね)て紹介のあった筈(はず)である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上(まくらがみ)のしきを隔てて座を与えられた。

初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間(ま)の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳(せき)が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚(よる)事さえ叶(かな)わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居(かもい)に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本(もと)を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。
まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花(おしろいばな)ばかりは咲き残っていたが鶏頭(けいとう)は障子にかくれて丁度見えなかった。熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言(かげん)な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。
師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々喧嘩(けんか)などもする。そう云う風であるから自然細君(さいくん)といさかう事もあるそうだ。それを予(あらか)じめ知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。

室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々(らいらい)たる赭土塊(あかつちくれ)を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井忠(ちゅう)氏を除けばいずれも根性の卑劣な媚嫉(ぼうしつ)の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭(いや)であるから邪魔をしようとするのである。
驚いたものだ。不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬(ねたみ)を買い既に今度仏国博覧会へ出品する積(つも)りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道(しどう)の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白(こうはく)を貪(むさぼ)ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。
景色画でもそうだ。先頃上州(じょうしゅう)へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。
やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山(いざん)と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。
あのくらいの天才を抱きながら終ついに不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごん/\と通った。隣の庭の折戸の上に烏からすが三羽下りてガー/\となく。夕日が畳の半分ほど這入って来た。
不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処どこかから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵(こしら)える。
いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点(がてん)が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達(せんだ)って『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際真似(まね)は出来ぬ。あの瓦の形を近頃秀真(ほずま)と云う美術学校の人が鋳物(いもの)にして茶托(ちゃたく)にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕つくろったのもあるが、それが却(かえ)って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。
巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛(かたつむり)を這わして「角つのふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。話し半(なかば)へ老母が珈琲(コーヒー)を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って「※つくほうし」(漢字)の声を打消していった。
初対面からちと厚顔(あつかま)しいようではあったが自分は生来絵が好きで予(かね)てよい不折の絵が別けても好きであったから序(つい)でがあったら何でもよいから一枚呉(くれ)まいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞(かこ)っていた。

夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤(もっと)もこの頃人の話で大凡(おおよそ)こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。
黯然(あんぜん)として吾(われ)も黙した。また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込みこみがないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考(しろうとかんがえ)で何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手ひきての情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽がくの大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴(ろはん)の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。

空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか畳の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処(どこか)と聞いたから一両日中に谷中(やなか)の禅寺へ籠る事を話して暇(いとま)を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識(しらずしらず)其方へと路次を這入(はいる)と道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨といでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとよう/\広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘(こうもりがさ)を阿弥陀にさしてゆる/\あるく。山の上には人が沢山たくさん停車場から凌雲閣ゅりょううんかく)の方を眺めている。左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業(かるわざ)の太鼓御賽銭(おさいせん)の音に汚(けが)すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡き(んぶちめがね)隣に坐った禿頭の行商と欠伸(あくび)の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。 (明治三十二年九月)  ≫
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