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夏目漱石の「俳句と書画」(その十) [「子規と漱石」の世界]

その十 漱石の「五高・英国留学・帰朝(子規没前後)」時代(「明治三十三・四・五・六年」周辺)

浅井忠送別会.jpg

「浅井黙語(忠)のパリ留学を祝う送別会(浅井忠画) 「ホトトギス」明治33年(1900)1月号掲載」
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/famous_persons/shiki/japanese/page_04.html
≪ 明治33年(1900)1月16日、万国博覧会視察と留学のためパリへ行く画家浅井忠の送別会が子規庵で開かれました。集まったのは、子規、浅井をはじめ、内藤鳴雪(ないとうめいせつ 俳人)陸羯南(くがかつなん)、下村為山(しもむらいざん 画家、俳人)、中村不折、五百木瓢亭(いおきひょうてい 日本新聞記者、俳人)、松瀬青々(まつせせいせい 俳人)、高浜虚子です。画家三人による合作の絵に皆で賛(さん 画の余白に句等を添える)を書き、洋食を食べ、さまざまに楽しんでいます。その様子を子規は短歌にしています。≫

(上記の「画家浅井忠の送別会」の人物群像)

(前列の「画筆中の「浅井忠」と、左=「下村為山(黒羽織)?」と右「中村不折?」)

≪※浅井 忠(あさい ちゅう) 1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。(中略)1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞[2]。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。(中略)正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。『吾輩ハ猫デアル』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。(「ウイキペディア」)

※下村為山(しもむらいざん)生年/慶応1年5月21日(1865年)・ 没年/昭和24(1949)年7月10日・出生地/伊予国松山(愛媛県)/本名下村 純孝/別名別号=百歩,牛伴。経歴/上京して洋画を小山正太郎に学び、不同舎塾の後輩に中村不折がいる。のち日本画を久保田米遷に学び、俳画に一家をなした。明治22年内国勧業博覧会で受賞。俳句は正岡子規に師事し、洋画写生の優越姓を不折に先立って子規に説いたと伝えられる。27年松山に日本派俳句会の松風会を興し、日本派の俳人として活躍、句風は子規に「精微」と評された。30年松山版「ホトトギス」創刊時に初号の題字を書いたといわれる。その後も東京発行の「ホトトギス」や「新俳句」に表紙・挿画などを寄せ、同派に貢献した。句は「俳句二葉集」「春夏秋冬」などに見られる。(「20世紀日本人名事典」) 

※中村不折(なかむらふせつ)[生]慶応2(1866).7.10. 江戸[没]1943.6.6. 東京洋画家,書家。本名はさく太郎,号は環山。初め南画を学び,1887年小山正太郎,浅井忠に洋画を学んだ。 94年日本新聞社に入社し新聞挿絵を担当。 1901年渡仏,アカデミー・ジュリアンに学び J.P.ローランスに師事して官学派の画風を習得。 05年帰朝後は太平洋画会会員となる。文展審査員,19年帝国美術院会員,34年太平洋美術学校校長,39年帝国芸術院会員を歴任。重厚な画風の歴史画にすぐれ,また日本画も巧みで北画風の水墨画を得意とした。書の造詣も深く六朝風を学び,能書家としても著名。また東京根岸の自宅の邸内に書道博物館を創設して,書に関する文献,参考品1万点余を展示。主要作品『建国そう業 (そうぎょう) 』 (1907,焼失) ,『賺蘭亭図 (らんていをあざむくのず) 』 (20,東京国立近代美術館) 。

(後列の「病臥中の子規」の右側の「黒羽織」の三人)

※陸羯南(くがかつなん)/ 没年:明治40.9.2(1907)/生年:安政4.10.14(1857.11.30)/明治時代の新聞記者。陸奥国(青森県)弘前に津軽藩士中田謙斎の長男として生まれる。幼少時から漢学を学び,藩校の後身東奥義塾に入学,漢学,英学等を学ぶ。明治6(1873)年東奥義塾を中退し,仙台の宮城師範学校に入学したが,校長と衝突し退学となり,9年上京。同年7月,司法省法学校に入学した。同期生には,原敬,福本日南,国分青崖らがいた。12年寮の食事への不満が原因で起きた賄征伐事件で,原敬らと共に退学処分を受け,故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となった。またこの年,親戚の陸家再興の名目で陸姓を名乗る。13年,讒謗律に触れ罰金刑を受ける。青森新聞社を退職し,種々の仕事を転々としたのち,16年に太政官御用掛となり,官僚の世界に入った。この間,フランスの政治,行政の調査に当たり,その書物を翻訳出版するなど後年の政論の基礎を培った。 18年内閣官報局が新設されるや,編集課長に就任したが,21年,在野の言論活動を志し退職,同年4月3日,谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊し,さらに発展させて翌22年2月11日新聞『日本』を発刊,新聞の党派性,営利性を否定し,自らの信ずる「道理」のみによって自立する「独立新聞」という峻厳な新聞理念を提示し新聞ジャーナリズムに大きな影響を与えた。同時に国民主義を標榜し,三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社の発行する雑誌『日本人』と提携しながら,明治20年代,30年代を通じて,欧化主義を批判するナショナリズムを領導する言論活動を展開した。しかし明治末期には,新聞界の営業主義化の大勢のなかで新聞経営は苦境に陥り,39年『日本』を手放さざるをえなくなった。翌年病没。明治期の「独立新聞記者」の典型であった。<著作>『陸羯南全集』全10巻/(有山輝雄) (「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)→(「子規」の右側の人物?)

※内藤鳴雪(ないとうめいせつ)/俳人。江戸に生まれる。本名素行。松山藩校明教館・昌平黌で漢学を学ぶ。明治に入り文部省に勤務。藩の常盤会寄宿舎の舎監となり正岡子規を知り句作、日本派の長老と仰がれた。句集に「鳴雪句集」「鳴雪俳句鈔」など。弘化四~大正一五年(一八四七‐一九二六)(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)→(「不折?」の右後方の人物?)

※五百木瓢亭(いおきひょうてい) 1871-1937 明治-昭和時代前期のジャーナリスト,俳人。明治3年12月14日生まれ。22年上京し,同郷の正岡子規らと句作にはげむ。28年日本新聞社にはいり,34年「日本」編集長。昭和3年政教社にうつり,「日本及日本人」を主宰。大アジア主義をとなえた。昭和12年6月14日死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俳号は飄亭(ひょうてい)。著作に「飄亭句日記」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)→(「鳴雪?」の後方の人物?)

(「羯南?」と「瓢亭?」の間の二人)

※松瀬 青々(まつせ せいせい) 明治2年(1869年)4月4日 - 昭和12年(1937年)1月9日)は、日本の俳人。「倦鳥」を創刊・主宰。関西俳壇で高濱虛子主宰の「ホトトギス」と一線を劃す俳人として重きをなした。本名・弥三郎[1]。大阪市出身。(「ウイキペディア」)

※阪本(坂本)四方太(さかもとしほうだ)  1873年〈明治6年〉2月4日 - 1917年〈大正6年〉5月16日)は、俳人。本名、よもた。鳥取県出身。正岡子規門下生。俳誌『ホトトギス』にて活躍。代表作は『夢の如し』。墓所は豊島区駒込の染井霊園。(「ウイキペディア」)
→(「ホトトギス」の記事中に「四方太」の名あり。)

(「子規」の左側の人物→虚子?)

※高浜虚子(たかはまきょし) 没年:昭和34.4.8(1959)/生年:明治7.2.22(1874)
明治から昭和の俳人,小説家。本名清。虚子号は本名をもじって正岡子規によりつけられた。伊予国(愛媛県)松山藩の元藩士池内家の4男として松山市に生まれ,祖母方の姓を継ぎ高浜姓となる。伊予中学時代に同級生の河東碧梧桐を介して郷里の先輩で帝国大学文科大学の学生であった子規と文通して文学を志し,やがて碧梧桐と共に仙台の二高を中退,子規による日本派俳句を推進する両輪となった。明治31(1898)年松山から発行されていた『ホトトギス』を引き継いで東京から編集発行し,俳句とともに写生文や小説を掲載,明治38年からは夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊つちやん』などの掲載で誌名を高め,自らも『俳諧師』『風流懺法』などを発表。俳句は碧梧桐にまかせ小説に転じようとしたが,碧梧桐の客観写生俳句が新傾向へと進んで定型や季題を無視する形勢となった大正2(1913)年俳句に復活,以後多数の傑出した俳人を育てて,子規の抱いていた俳句の未来への疑問を吹き払い,庶民の詩,花鳥諷詠の詩として俳句を普及し繁栄させた。その指導方針は主観尊重の写生から客観写生へと変わったが,俳句は有季定型の伝統詩であるという守旧派の立場を貫いた。その人柄は洋行中も和服で通したこと,ファシズムも戦争も自然現象のごとく「何事も野分一過の心」で過ごしたこと,『ホトトギス』を家系相続とし家元化したことなどに顕著である。『進むべき俳句の道』『五百句』『句日記』『虚子俳話』『定本虚子全集』など著書多数。文化勲章受章。(矢島渚男)  (「朝日日本歴史人物事典」)

(追記) 夏目漱石俳句集(その七)<制作年順> 明治33年(1900年)~明治36年(1903年)

明治33年(1900年)

1780 新しき願もありて今朝の春
1781 菜の花の隣もありて竹の垣
1782 鶯も柳も青き住居かな
1783 新しき畳に寐たり宵の春
1784 春の雨鍋と釜とを運びけり
1785 折釘に掛けし春著や五つ紋
1786 ひとり咲いて朝日に匂ふ葵哉
1787 京に行かば寺に宿かれ時鳥
1788 ふき通す涼しき風や腹の中
1789 秋風の一人をふくや海の上
1790 阿呆鳥熱き国にぞ参りける
1791 稲妻の砕けて青し海の上
1792 雲の峰風なき海を渡りけり
1793 赤き日の海に落込む暑かな
1794 日は落ちて海の底より暑かな
1795 空狭き都に住むや神無月
1796 柊を幸多かれと飾りけり
1797 屠蘇なくて酔はざる春や覚束な
1798 貧乏な進士ありけり時鳥

明治34年(1901年)

1799 絵所を栗焼く人に尋ねけり
1800 白金に黄金に柩寒からず
1801 凩の下にゐろとも吹かぬなり
1802 凩や吹き静まつて喪の車
1803 熊の皮の頭巾ゆゝしき警護かな
1804 吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
1805 満堂の閻浮檀金や宵の春
1806 見付たる菫の花や夕明り
1807 病んで一日枕にきかん時鳥
1808 礎に砂吹きあつる野分かな
1809 角巾を吹き落し行く野分かな
1810 近けば庄屋殿なり霧のあさ
1811 後天後土菊匂はざる処なし
1812 栗を焼く伊太利人や道の傍
1813 栗はねて失せけるを灰に求め得ず
1814 渋柿やにくき庄屋の門構
1815 ほきとをる下駄の歯形や霜柱
1816 月にうつる擬宝珠の色やとくる霜
1817 茶の花や智識と見えて眉深し
1818 茶の花や読みさしてある楞伽経

明治35年(1902年)

1819 山賊の顔のみ明かき榾火かな
1820 花売に寒し真珠の耳飾
1821 なつかしの紙衣もあらず行李の底
1822 三階に独り寐に行く寒かな
1823 句あるべくも花なき国に客となり
1824 筒袖や秋の柩にしたがはず
1825 手向くべき線香もなくて暮の秋
1826 霧黄なる市に動くや影法師
1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし
1828 招かざる薄に帰り来る人ぞ

明治36年(1903年)

1829 落ちし雷を盥に伏せて鮓の石
1830 引窓をからりと空の明け易き
1831 ぬきんでゝ雑木の中や棕櫚の花
1832 愚かければ独りすゞしくおはします
1833 無人島の天子とならば涼しかろ
1834 短夜や夜討をかくるひまもなく
1835 更衣同心衆の十手かな
1836 ひとりきくや夏鶯の乱鳴
1837 蝙蝠や一筋町の旅芸者
1838 蝙蝠に近し小鍛冶が槌の音
1839 市の灯に美なる苺を見付たり
1840 玻璃盤に露のしたゝる苺かな
1841 能もなき教師とならんあら涼し
1842 蚊帳青く涼しき顔にふきつける
1843 更衣沂に浴すべき願あり
1844 薔薇ちるや天似孫の詩見厭たり
1845 楽寝昼寝われは物草太郎なり
1846 雪の峰雷を封じて聳えけり
1847 船此日運河に入るや雲の峰
1848 一大事も糸瓜も糞もあらばこそ
1849 座と襟を正して見たり更衣
1850 衣更て見たが家から出て見たが

(参考その一)「画家浅井忠の送別会」周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202008010000/

≪ 忠は、明治33年2月16日に新橋から神戸に向かい、28日に神戸港から「神奈川丸」に乗り込んでパリを目指しました。4月15日にマルセイユについた忠は、マルセイユ観光ののち列車に乗って17日の夕方にパリに着きました。開催されていたパリ万国博覧会をしばしば訪れ、5月からはマラコフ58番地で池辺義象、福地復一らと共同生活を始めています。パリの生活にようやく慣れた5月20日に、忠は子規に宛てて手紙を送りました。その内容は、『巴里消息』として7月10日号の「ホトトギス」に掲載されています。博覧会の絵を見て不満が募ったこと、日本風の装飾(アールヌーボー風)がヨーロッパを席巻していることなどが伝わってきます。
 
 拝啓、近頃御病気如何、好時節に向い御快方のことと奉存候。小生不相替健全、はばかりながら御安慮被下度候。博覧会この頃ようやくおおかた整頓仕候。美術館の絵画、仏国十年以来の名作を陳列して大に世界に驕らんとす、諸外国また競争日本の国画及び油画その間にはさまれ実に顔色なし。その前に立留るもうら恥しく候。もとより美術館に入りて恥かき候ことは予め期したることなれど、かくはかり萎れかえりたる有様を目の前に見るは情けなき次第に有之候。油画の画風、概していえば、前世紀のものは曇天に向い当世紀の画風は晴天に向いたる傾きありて、すべて明るく晴したる有様に有之候。画風の千差万別なる、あまり奇を好みて文人画的なるあり、また美術院的なるもありて、何が何やら画いた人も知らざるならんと思わるる物さえ有之候。彩色の研究は確に当世紀に大進歩をなしたる様相見え候。しかしてその弊のある所もまた相見え候。山水画の進歩は年々著しき様も相見え候。平易なる画題をとらえて洒落なる無邪気なる山水画も増加せし様見え候。英独諸国も大抵仏国風に化せられたる様相見え侯。仔細に熟視すれば、おのおの異りたる所は有之候得共、以前の如く特有を顕わし居らざる様に有之候。
 独の着実なると英の色の濃きはよく見れば確に分別有之候。伊太利は退歩、露と米は中々強敵に有之候。甚だ不思議なるは油画の変化極りなきことにて、日本油画の皆同一流儀の如く見えて色の枯痩したるは先ずおくも、日本画の四條と狩野の絶対に反対なる画風もこの場内に入りては皆一流の如く無味淡泊にして白紙に少少形を止めたる様見え候もおかしく候。総じてたっぷりしたる墨画が一番目を引き、細かき彩色画の如きは少しも目に止らず、日本画には彩色なしというても宜敷候。日本の美術は、工芸家の通弊として、大体の組織に甚だ不注意にして、細かき筆遣い細かき仕事を自慢して、女の頭の髪の毛の線がきとか、象牙彫りの魚の鱗とかいうものに骨折りて四昼半の座敷で賞翫せんとするものを、五間や六間離れて見ては何が書きあるや更にわからず。少くとも十間以上離れざれば品物が分明ならざる様な大胆の仕事の数千もある中に入り込みせられたるその筈と申すべし。陶器、織物、室内装飾に至りてはただあっけに取られ申候。八九分は皆日本意匠を取りて日本品よりは遥に上手に仕事され、茶人の涎を流しそうなるもの、骨董屋の堀り出し相なるものより、埃及(エジプト)、支那、日本を加味して自由自在に応用変化したるもの、着眼の点可恐ことに候。ヲーストリー、ホンガリー、ノルウヱー、デンマークなどの東洋的室内装飾の渋くして凝りたるには宜に一驚を喫し候。仏国自慢の工芸列品は未だ整頓不致、アシバリード右方は諸外国の列品にして、左方は仏国の諸列館なり。整頓の上はまた肝玉をつぶすことと存居候。クシャクシャ的、金ピカ的のものは独逸、露西亜の列品の一部に在るのみにて、余は皆ノロリとしたる東洋的曲線の形式に法りて、模様に至りては純然たる日本画か亜細亜的装飾のみ競争して応用したる様見えたり。色彩は多くじみに傾き、鈍き鼠色か、鈍き緑か、鈍き紫か、シットリと
沈んだる色多し。噪々しく目を射るような派手なる時代は過ぎ去りたりと見え申候。織物の模様に至りては、中村不折をして泣かしむるやうなもの多く、ビカピカと絹の光りたるようなものでなく、木綿物ににぶ色を以て不器用に埃及的模様を施したる、いうに言われぬ味ありて、旅で買いたきものばかりたくさんにしてただ涎を流しおり候。五六尺の小さき織物でも百五十法以上のもの多く、手も出しかねおり候。
 これに反し日本の出品には実に嘔吐を催し候。諸外国のスッカリ整頓したる真中に挟まれ、未だ荷ときもせず明箱ばかりにて、少しつら出しおるものは相も不替横浜仕入れの義経弁慶などの赤画をただ無暗矢鱈に透間なくかき散したるもの多く、蒔画に至りては勧工場的安物の仕入物の如く、形と模様とすべよくもよくも不揃にかつ厭味にかくも出来たものと思わるるもののみ少々面出しおり候。小生悪口をたたき候所、普き物は未だ箱内に仕舞ありと弁解致居候が、日本品はかなり手後れになりて閉場まで陳列に間に合わざる方仕合せかと存候。しかしその内どんなものが出るや不分候。見ぬ内の攻撃はこれ位に致置可申候。織物は先ず日本の出品の中にて比較的一番宜敷様見受候。しかし色の配合などいうことは知らぬと見え、折角の模様を地合でぶっこわしたるものや工手間を掛けてますますマズクしたるもの多し。今少し学問的に講究して、彩色の取り合せとか、線の一致とかいう位のことは知らぬ内は到底だめに有之候。日本の位置が余り欧洲と遠かり過ぎて世界の広きを不知、西洋人に世辞を言われて鼻を高くしておる間は何事もダメと存候。西洋人の日本意匠を取るは明治時代の小刀細工的のものなどは毫末も省みず、少なくも元緑以前の心持の大なる大マカなる処に着眼せるなり。故にある人はまたこれを弁解して古物崇拝となり、ただ先人の跡を学ばしめんとするに至る。この辺宜敷具合ものと存候。何に致せ日本の美術家工芸家が大本を睨めずしてただ枝葉ばかりに走り、田舎に引込みて井中の蛙たる中はイツもこんなものと存候。これまでとても外国博覧会に賛同して本国に報告することは手前味噌の偽りの報告のみにて出品者を誤らしめたる罪軽からずと存候。この度は岡目の人も大分見え候間幾分兵相を知ることも出来可くと存候。しかし熱心なる芸術家は少く、ツマリ運動者が運動の結果ごますりて保護金に有り附きたる人多き故、有益なる報告を費し帰る人は幾何ならんか、誠に思うままにならぬは世の常ながら、真実芸術に身を入れおる人はイツモ人後に立つは悲むべき至りに候。如何に従来の博覧会屋と唱えて再三再四宜務に当りたる人が無学なる職人を誤りたるかを宜見致候。兼てよりこれらのこと知らざるに非るも眼前に見ることの腹立たしさ御推察可被下候。その他面白からぬこと見聞、不平はますます嵩み申候。国に帰りてこんな悪口をきいたら、外国に行て年月も立たぬうち外国贔屓になりて本国をくさす不届物とて人は相手にせざるならん。本国の人に世辞を遣うて賞られたければ矢張り従来の老人連の太鼓事務官の亜流たらざるべからず。目あり耳あるもの見聞して黙してはおられず候。ついに報告やら不平やらごったになりて無益の寝言に流れ汗顔の至に御坐候。
 この表紙はノルウエーの敷物に余程面白き鬼や不思議の動物のかたありて面白く感じ候間ふと浮び申候。可成鈍き色に上るよう印刷屋へ御命し被下度候。黄色は黄土色が宜敷かと存候。
 陸翁へもこの寝言御咄し被下度、この次は全部整頓の上まじめの報告御送り可申上候。過日来サンクルー、ベルサイユ、サンゼルマンなどの二三里離れたる田舎へ遊び、巴里の盛界を脱して何ともいわれざる愉快を覚え候。巴里附近の田舎の景、実に美しくセーブル、ムードレなどセーヌ河の河蒸気に乗りて二錢を投ずれば三四十分にて逹し申候。この頃当地一年中の好時節、青葉茂りて百花開き、三河島、王子あたりの景色よりは田園の様清潔にして実に心地よく、その内このあたりに居を移して気楽に暮し度思いおり候。乍末御社中諸君へ宜敷御伝声奉願上候。   巴里にて。
   五月廿日
  子規  詞兄
 表紙の下絵を御目に掛けんとて書き出し候所、ついに不平を洩して面白くも無きこと長々書き連ね候段御許し被下度候。(浅井忠 子規宛書簡)≫

(参考その二)「夏目漱石と浅井忠との交流」周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202204250000/

≪ 漱石と忠の交流は、漱石のロンドン留学から始まりました。漱石は途中のパリで万博に夢中になり、この万国博に22日、25日、27日の3度、訪れています。明治33年10月22日の『漱石日記』には「十時頃より公使館に至り、安達氏を訪う。あらず。その寓居を尋ねしが、また遇わず。浅井忠氏を尋ねしも、また不在にて不得已帰宿。午後二時より渡邊氏の案内にて博覧会を観る。規模宏大にて二日や三日にて容易に観尽せるものにあらず。方角さえ分らぬ位なり。『エヘル』塔の上りて帰路。渡邊氏方にて晩餐を喫す。それよりGrand Voulevardに至りて繁華の様を目撃す。その状態は夏夜の銀座の景色を五十倍位立派にしたるものなり」、10月26日には「朝浅井忠氏を訪う。それより芳賀藤代二氏と同じく散歩す。雨を衝て還る。樋口氏来る」と書かれており、中を訪ねていたことがわかります。
 
 明35(1902)年7月2日付の妻鏡子宛の手紙に、「只今巴理より浅井忠と申す人帰朝の序拙寓へ止宿是は画の先生にて色々画の話杯承り居候」と記し、この時から漱石と忠は一気に親しくなったと思われます。明治41年2月15日、神田美土代町で行われた第一回朝日講演会の記録『創作家の態度』には「その時、浅井先生はどの街へ出ても、どの建物を見ても、あれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰るまで色尽くしで御仕舞いなりましたーー先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだなと大に悟りました」とあり、浅井とロンドン市内を歩いた漱石は、画家のものの見方を直に触れることができました。また、談話の『文士と酒、煙草』で「いつかロンドンにいる時分、浅井さんといっしょに、とある料理屋で、たったビール一杯飲んだのですが、たいへんまっかになって、顔がほてって町中を歩くことができず、ずいぶん困りました。日本では、酒を飲んでまっかになると、景気がつくとか、上きげんだとか言いますが、西洋ではまったく鼻つまみです
からね」と語っています。
 
 浅井は佐倉藩士の長男として江戸に生まれ、1876年に工部美術学校に入学しフォンタネージの指導を受けます。そして明治美術会の結成に参加し、東京美術学校教授となって1900年からフランスヘ留学していました。1902年に掃国した忠は京都に移り、後進の指導にあたります。
 
 忠は、漱石の依頼で処女作『吾輩は猫である』の中篇と下篇の挿画を頼みました。明治38年2月12日の橋口五葉への自筆絵はがきに「浅井の口絵画の百姓の足はうまいと思う。如何」と送っています。また、明治39年11月11日、橋口五葉宛に「浅井の画はどうですか。不折は無暗に法螺を吹くから近来絵をたのむのがいやになりました」とあり、上篇のみ中村不折が挿画を担当した理由がほの見えてきます。
 
 また、漱石は『それから』にも、忠を登場させています。「直木は代助の顔を見てとうとう笑い出した。代助も笑って、座敷へ来た。そこには誰も居なかった。替え立ての畳の上に、丸い紫檀の刳抜盆が一つ出ていて、中に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった。からんとした広い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、すべてが静かに見えた。戸外の風は急に落ちたように思われた。(11)」とあります。浅井忠は「黙語」という画名を持っていたのです。
 「三四郎」では三四郎と美彌子が深見という画家の遺作展を見る場面がありますが、これは第6回太平洋画会で行われた忠の遺作展を念頭に描いています。
 
「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
「ありがとう」
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。
 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるということである。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。(三四郎 8)  ≫

(参考その三)「世紀転換期のヨーロッパ滞在 : 浅井忠と夏目金之助(伊藤徹稿)」(「関西大学学術リポジトリ」)

(参考その四)「浅井忠の明治」周辺

http://nobless.seesaa.net/article/483626589.html

≪ 明治3年に土佐藩が送り出した英国留学生5人の中に、のちの民権家馬場辰猪のほか明治洋画界の草分けとなる国沢新九郎(明治10年死去)がいた。国沢は法律の勉強を命じられていたが、画家に転向して明治7年に帰国、東京麹町平河町に洋画塾「彰技堂」を開いて人気を博すようになる。このあたらしい画塾に、佐倉藩出身の20歳の聡明な若者が入塾する。のちの洋画家浅井忠(ちゅう)(1856~1907)である。
 夏目漱石の『三四郎』に、美禰子と三四郎が絵画の展覧会「丹青会」に行く有名なくだりがある。画家の原口が三四郎に「深見さんの水彩は普通の水彩の積りで見ちゃ不可ませんよ。何処までも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、中々面白い所が出て来ます」と言い残して野々宮と出て行き、次のように続く。
 <細長い壁に一列に懸っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思う程地味に描いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞っていない。殆んど一気呵(か)成(せい)に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭(りんかく)が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。>
 丹青会とは、明治41年に上野で開催された太平洋画会第6回展のことで、ここで深見先生こと浅井忠の回顧展が開催されていた。浅井はこの展覧会の前年、明治40年に京都で51歳で亡くなっている。
 夏目漱石はひと回り年配の洋画家浅井忠を畏敬してやまなかった。上の『三四郎』の文章からも、浅井の絵の質の高さを世に知らしめる意図が窺えるし、『それから』にも「湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった」と浅井を登場させているほどだ(「黙語」は浅井の号)。
 漱石は明治33年10月に英国留学の途上パリに立ち寄り、ひと足先に同地に44歳という遅い留学をしていた浅井を訪ねている。浅井は明治29年に東京・上根岸に居を構えたことで近くに住むジャーナリストの陸羯南(くがかつ(なん)や正岡子規と交流を深め、子規庵にも出入りするようになっていた。漱石はその子規の紹介で、パリの浅井を訪ねたのである。このときの出会いがふたりの初対面らしく、よほど気が合ったのか2年後の明治35年には日本への帰国途上の浅井がロンドンの漱石を訪ね、下宿に4日間も滞在しているのである。
 漱石は浅井没後、明治41年の講演で次のように回想している。
 「私が先年倫敦に居った時、此間亡くなった浅井先生と市中を歩いたのであります。其時浅井先生はどこの町へ出てもどの建物を見てもあれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰る迄色尽しで御仕舞いになりました。流石画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだと大いに悟りました」
 わかいころ建築家志望だった漱石は、留学時代から美術工芸誌「The Studio」を定期購読するほどの美術好きで、かれの芸術観の基層には当時欧州を席巻していたアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーの影響、そして洋画家浅井忠の存在がどっしりと盤踞(ばんきょ)していたはずである。
 また子規が「写生」に目覚めるのも浅井忠との出会いによる。浅井はわかい弟子の中村不折(ふせつ)(画家・書家)を子規に紹介し、その不折をして浅井が師フォンタネージから学んだ絵画技法である写生の本質を子規に伝授せしめ、子規はそれを俳句や短歌にも応用するようになる。漱石の『吾輩は猫である』初版本の上巻挿画を不折、中・下巻を浅井が描いていることからも漱石・子規と画家の浅井・不折の親密さが見てとれるだろう。
 さて浅井の洋行が決まってのち、明治33年1月16日に陸、子規のほか画家や俳人など10人ほどが集まり子規庵で送別会が開かれた。長身で端正な風貌の浅井をいつも「先生」と呼び尊敬してやまなかった子規であったが、病の悪化で死を覚悟していたかれはそのとき「先生のお留守さむしや上根岸」の句を詠み、もう会えぬかもしれぬ浅井を哀惜したのである。しかしさいわいにも浅井は帰国後、開校予定の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授として京都へ移住する前に子規を見舞うことができたのだ。このわずか3週間後に子規は亡くなる。
 浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。
 このように明治の文化人たちにおおきな影響を与えた“日本近代洋画の父”浅井忠はしかし没後、薩摩出身で11歳年少の黒田清輝(せいき)の陰に隠れてしまい、作品のレベルのみならずその先駆的業績すら過小評価されてきた感がある。浅井の生きた明治という時代は、社会のあらゆる分野が薩長土肥、なかんずく薩長二藩の下級武士たちによる「薩長に非ずんば人に非ず」と云われるほどに強力な藩閥政治の只中にあり、絵画芸術もむろんその埒外にはなかったのだ。
 浅井忠は、江戸東方の要衝であった下総の佐倉藩(現千葉県佐倉市)出身である。同藩は幕末、英邁な藩主堀田正陸(まさよし)(のち幕府老中首座)が江戸の蘭方医佐藤泰然を招き、大坂の適塾と並び称される高名な蘭学塾「順天堂」(現順天堂大学の前身)を創設するなど学問分野におおくの俊才―思想家の西村茂樹、外交官の林董(ただす)、医者の松本良順、農学者の津田仙(せん)など―を輩出したことで知られるが、戊辰戦争で新政府軍の前にやむなく恭順、禄高三百石の藩士の長男であった浅井忠之丞(のちに忠と改名)は朝敵の子、負け組として冷や飯を食うことになるのだ。
 一方、勝ち組である薩摩の子爵の養子として何不自由なく育った黒田清輝は、明治17年に弱冠18歳でフランスに留学する。もともとは政治家を目指し法律を学ぶ予定だったが、土佐の国沢新九郎同様に絵画に興味が移り転向する。この10年間にもわたる優雅な留学生活が、黒田におおきな僥倖をもたらすことになる。
 黒田の洋行中、国内では岡倉天心とフェノロサによる洋画排斥運動が燃えさかり、洋画家たちは死に体も同然になっていたのだ。展覧会での洋画展示も禁止され、明治22年に開校された東京美術学校(学長は岡倉天心)にも西洋画科は設置されないという逆風下、洋画家のリーダー格であった浅井は日本初の美術団体「明治美術会」を創設して必死に踏ん張っていた。そんな矢先の明治26年7月、薩閥のプリンス黒田清輝が帰国する。
 黒田の帰国は浅井ら洋画家に朗報と思われたが、黒田は帰国の3年後に明治美術会と袂を分かって新グループ「白馬会」を創設し、その翌月に天心は東京美術学校長を罷免され同校に西洋画科が設置されると同時に黒田が教授に就任、洋画界は政治に翻弄されつつ内部分裂してゆく。印象派風の明るい絵を描く白馬会の画家らは外光派・紫派と呼ばれてもてはやされ、浅井らは脂(やに)派・旧派と揶揄されるようになるのだ。日本の美術界はすでに黒田清輝を中心に回りはじめていたのである。
 そんな流派同士の不毛な争いにほとほと嫌気がさしていた浅井に突然、文部省からパリ万博の監査官任命と2年間のフランス留学の命が下る。浅井は渡りに船とばかりに翌年の明治33年に渡欧、帰国後は東京美術学校教授を辞して京都に赴き、京都高等工芸学校開校と同時に教授として図案科で美術やデザインを教え、聖護院洋画研究所のちに関西美術院を創設して後進の指導を行うようになる。派閥争いにうつつをぬかす東京の美術界をよそに、浅井は京都で悠然と油絵、水彩画、陶芸のほか洒脱なデザイン画を描き、のちの日本画壇を代表する梅原龍三郎、安井曾太郎、津田青楓らを育ててゆくのである。
 だが残念なことに、そんな生活も永くは続かなかった。
 京都に移住してわずか5年後の明治40年暮れ、美術・工芸の革新を目指した天性の芸術家は、時代の波に翻弄されながら51年の生涯を古都の地で閉じるのである。死の間際まで関西美術院と京都高等工芸学校の学生らを気にかけ、「どうか美術院も学校も宜しく頼む」と言い遺したという。
 実を云うと、わたしはその旧京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の建築工芸学科卒である。同科は昔の図案科であるから、不肖ながらわたしは浅井忠の遥か遠い弟子ということになる。そう勝手に決めこんで、最近はヘタな素描や水彩画をはじめている。お手本は云うまでもなく、浅井黙語先生である。≫
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