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夏目漱石の「俳句と書画」(その十一) [「子規と漱石」の世界]

その十一 漱石の「子規没後の俳句その一)」(「明治三十七年~四十年」周辺)

https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html

子規・絶筆三句.jpg

「絶筆三句 子規」(紙本墨書/31.0×44.3㎝/国立国会図書館蔵) 
https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html
≪〔正岡子規 著〕〔正岡子規 明治35(1902)年〕写【WB41-61】43 〔絶筆三句〕の画像(デジタルコレクション)
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした俳人、歌人の正岡子規が臨終間際に書き残した三句。明治35(1902)年9月18日の午前11時頃、紙を貼りつけた画板を妹の律に持たせ、仰臥しながら記した。翌19日午前1時頃、子規の息は絶えた。満34歳の若さであった。病魔に苦しみながらも、死の直前まで俳人として生き抜いた壮絶な姿がうかがえる。
(書き起こし)
をととひのへちまの水も取らざりき/糸瓜咲て痰のつまりし佛かな/痰一斗糸瓜の水も間にあはず  ≫

(漱石「略年譜」)「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html

明治35(1902) 9月 子規死去
10月 スコットランド旅行
12月 帰国の途に着く

明治36(1903) 1月 帰国
4月 第一高等学校講師 東京帝国大学英文科講師
10月 三女・英子誕生 藤村操自殺

明治37(1904) 4月 明治大学講師
12月 「吾輩は猫である」を「山会」で朗読

明治38(1905) 1月 「吾輩は猫である」(『ホトトギス』)
1月 「倫敦塔」(『帝国文学』)
1月 「カーライル博物館」(『学燈』)
6月 「琴のそら音」(『七人』)
12月 四女・愛子誕生

明治39(1906) 4月 「坊っちやん」(『ホトトギス』)
9月 「草枕」(『新小説』)
10月 「二百十日」
10月11日 第1回「木曜会」 伊藤左千夫『野菊の墓』

明治40(1907) 1月 「野分」(『ホトトギス』)
3月末~4月初 京都 大阪に旅行
5月 『文学論』(大倉書店)
5月 入社の辞(『東京朝日新聞』)
6月 長男・純一誕生
6月~10月 「虞美人草」
6月 西園寺公望からの文士招聘会を断る
9月 牛込区早稲田南町7番地へ転居

(追記) 夏目漱石俳句集(その七)<制作年順> 明37年(1904年)~明治39年(1906年)

明治37年(1904年)

1851 人の上春を写すや絵そら言
1852 ともし寒く梅花書屋と題しけり
1853 鳩鳴いて烟の如き春に入る
1854 杳として桃花に入るや水の色
1855 雨ともならず唯凩の吹き募る
1856 見るからに涼しき島に住むからに
1857 骸骨を叩いて見たる菫かな
1858 罪もうれし二人にかゝる朧月
1859 小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く
1860 伏す萩の風情にそれと覚りてよ
1861 白菊にしばし逡巡らふ鋏かな
1862 女郎花を男郎花とや思ひけん
1863 人形の独りと動く日永かな
1864 世を忍ぶ男姿や花吹雪
1865 野に下れば白髯を吹く風涼し
1866 夏の月眉を照して道遠し
1867 十銭で名画を得たり時鳥
1868 秋立や断りもなくかやの内
1869 ばつさりと後架の上の一葉かな
1870 秋風のしきりに吹くや古榎
1871 名月や杉に更けたる東大寺

明治38年(1905年)

1872 朝貌の葉影に猫の眼玉かな
1873 蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く
1874 初時雨故人の像を拝しけり
1875 うそ寒み故人の像を拝しけり
1876 白菊の一本折れて庵淋し
1877 只寒し封を開けば影法師
1878 一人住んで聞けば雁なき渡る

明治39年(1906年)

1879 寄りそへばねむりておはす春の雨
1880 本来はちるべき芥子にまがきせり
1881 短冊に元禄の句や京の春
1882 春風や惟然が耳に馬の鈴    (『草枕』より十七句~)
1883 馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春
1884 花の頃を越えてかしこし馬に嫁
1885 海棠の露をふるふや物狂ひ
1886 花の影、女の影の朧かな
1887 正一位、女に化けて朧月
1888 春の星を落して夜半のかざしかな
1889 春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
1890 春や今宵歌つかまつる御姿
1891 海棠の精が出てくる月夜かな
1892 うた折々月下の春ををちこちす
1893 思ひ切つて更け行く春の独りかな
1894 海棠の露をふるふや朝烏
1895 花の影女の影を重ねけり
1896 御曹司女に化けて朧月
1897 木蓮の花許りなる空を瞻る
1898 春風にそら解け襦子の銘は何(~『草枕』より十七句)
1899 釣鐘のうなる許りに野分かな
1900 祖師堂に昼の灯影や秋の雨
1901 かき殻を屋根にわびしや秋の雨
1902 青楼や欄のひまより春の海
1903 渡殿の白木めでたし秋の雨
1904 春雨や爪革濡るゝ湯屋迄
1905 暮れなんとしてほのかに蓼の花を踏む
1906 乱菊や土塀の窓の古簀垂
1907 冬籠り染井の墓地を控へけり
1908 鰒汁と知らで薦めし寐覚かな
1909 春を待つ下宿の人や書一巻

(参考その一)「絶筆三句 子規」周辺

http://www.sakanouenokumo.com/siki_zeppitu.htm

≪ 子規の辞世の句となった糸瓜の三句。その場に居合わせた河東碧梧桐は、当時の様子を次のように回顧している(出典「子規言行録(明治版)」)。

十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈《やがて》例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審ながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ

 糸瓜咲て

とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて

 痰のつまりし

までまた一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに

 佛かな

と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ

 痰一斗糸瓜の水も

と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ

 間に合わず

と書いて、矢張り投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに

 をとひのへちまの

と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ

 水の

と書いて

 取らざりき

はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。  ≫

(参考その二) 「子規居士弄丹青図(浅井忠)」周辺

子規居士弄丹青図.jpg

「子規居士弄丹青図」(「ホトトギス」正岡子規追悼号(明治35年12月)挿絵用画稿 浅井忠)
http://nobless.seesaa.net/article/483626589.html
≪浅井は子規没後、ホトトギスの子規追悼集に「子規居士弄丹青図」を描いて子規を哀悼している。サラサラと鉛筆で描いたような戯画風の絵で、縁側のほうにころがる3個の柿と鉢植えの花を写生しているのだろうか、無精ひげの子規が床に横になったまま絵を描いている。生前の子規の特徴をよくとらえた愛情あふれる絵だ。≫
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