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夏目漱石の「俳句と書画」(その十二) [「子規と漱石」の世界]

その十二 漱石の「子規没後の俳句その二)」(「明治四十年~四十四年」周辺)

吾輩は猫である・初出.jpg

「吾輩は猫である」初出/俳句雑誌「ホトトギス」(第8巻4号・1905年・明治35年1月)
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「ホトトギス((第8巻)」(目次集)

http://www.hototogisu.co.jp/

第4号/明治38年(1905)1月
第5号/明治38年(1905)2月
第6号/明治38年(1905)3月
第7号/明治38年(1905)4月
第8号/明治38年(1905)5月
第9号/明治38年(1905)6月
第10号/明治38年(1905)7月
第11号/明治38年(1905)7月
第12号/明治38年(1905)8月
第13号/明治38年(1905)9月

「吾輩は猫である」(「初出」と「単行本」)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-neko.html

吾輩は猫である・初出と単行本.jpg

(初出)『ホトトギス』 明治38年1月~明治39年8月まで10回にわたり断続的に連載
(単行本)上編 明治38年10月 中編 明治39年11月 下編 明治40年5月 大倉書店・服部書店
≪(内 容)
 猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は「坊っちゃん」とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石(1867-1916)となった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 東風君、苦沙弥君、皆勝手な事を申候。それ故に太平の逸民に候。現実世界にあの主義では如何と存候。御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らのいふ所は皆真理に候。しかしただ一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故(これなきゆえ)その辺は御了知被下(くだされたく)候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ『猫』中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致したくと存候。
(明治39年8月7日 畔柳芥舟あて書簡より)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけでしまうつもり。またかくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。(中略)
 妙なもので、書いてしまった当座は、全然胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日経ち廿日経って見ると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いて来る。材料も蒐められる。こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。(「文学談」)≫(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」)

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=209617

≪「俳句の五十年(高浜虚子著)」抜粋

 ある時私は漱石が文章でも書いて見たならば気が紛れるだろうと思いまして、文章を書いて見ることを勧めました。私は別に気にも留めずにおったのでありまして、果して出来るか、出来んかも分らんと考えておったのでありました。ところが、その日になって立寄ってみますと、非常に長い文章が出来ておりまして、頗(すこぶ)る機嫌が良くって、ぜひこれを一つ自分の前で読んでみてくれろという話でありました。文章会は時間が定まっておりまして、その時間際に漱石の所に立寄ったのでありましたが、そういわれるものですから止むを得ず私はその文章を読んでみました。ところがなかなか面白い文章であって、私等仲間の文章とすると、分量も多くそれに頗る異色のある文章でありましたから、これは面白いから、早速今日の文章会に持出して読んでみるからといって、それを携えて文章会に臨みました。私がその漱石の家で読んだ時分に、題はまだ定めてありませんでして、「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。それでその原稿を持って帰って、「ホトトギス」に載せます時分に、「吾輩は猫である」という表題を私が自分で書き入れまして、それを活版所に廻したのでありました。
 それからその時分は、誰の文章でも一応私が眼を通して、多少添削するという習慣でありましたからして、この『吾輩は猫である』という文章も更に読み返してみまして、無駄だと思われる箇所の文句はそれを削ったのでありました。そうしてそれを三十八年の一月号に発表しますというと、大変な反響を起しまして、非常な評判になりました。それというのも、大学の先生である夏目漱石なる者が小説を書いたという事で、その時分は大学の先生というものは、いわゆる象牙の塔に籠もっていて、なかなか小説などは書くものではないという考えがあったのでありますが、それが小説を書いたというので、著しく世人の眼を欹(そばだ)たしめたものでありました。そればかりではなく、大変世間にある文章とは類を異にしたところからして、非常な評判となったのでありました。
 それで、漱石は、ただ私が初めて文章を書いてみてはどうかと勧めた為に書いたという事が、動機となりまして、それから漱石の生活が一転化し、気分も一転化するというような傾きになってきたのでありました。それと同時に『倫敦塔』という文章も書きまして「帝国文学」の誌上に発表しました。
 それから『吾輩は猫である』が、大変好評を博したものですから、それは一年と八ヶ月続きまして、続々と続篇を書く、而(しか)もその続篇は、この第一篇よりも遙かに長いものを書いて、「ホトトギス」は殆(ほとん)どその『吾輩は猫である』の続篇で埋ってしまうというような勢いになりました。それが為に「ホトトギス」もぐんぐんと毎号部数が増して行くというような勢いでありました。≫

(追記) 夏目漱石俳句集(その八)<制作年順> 明40年(1907年)~明治44年(1911年)(1910~2283)

明治40年(1907年)

1910 御降になるらん旗の垂れ具合
1911 隠れ住んで此御降や世に遠し
1912 御降に閑なる床や古法眼
1913 打つ畠に小鳥の影の屡す
1914 物いはぬ人と生れて打つ畠か
1915 長短の風になびくや花芒
1916 月今宵もろもろの影動きけり
1917 里の灯を力によれば燈籠かな
1918 春寒の社頭に鶴を夢みけり
1919 布さらす磧わたるや春の風
1920 屑買の垣より呼べば蝶黄なり
1921 香焚けば焚かざれば又来る蝶
1922 旅に寒し春を時雨れの京にして
1923 永き日や動き已みたる整時板
1924 加茂にわたす橋の多さよ春の風
1925 雀巣くふ石の華表や春の風
1926 花食まば鶯の糞も赤からん
1927 姫百合に筒の古びやずんど切
1928 恋猫の眼ばかりに痩せにけり
1929 藤の花に古き四尺の風が吹く
1930 若葉して又新なる心かな
1931 髪に真珠肌あらはなる涼しさよ
1932 時鳥厠半ばに出かねたり
1933 のうぜんの花を数へて幾日影
1934 看経の下は蓮池の戦かな
1935 蓮剪りに行つたげな椽に僧を待つ
1936 蓮に添へてぬめの白さよ漾虚集
1937 白蓮に仏眠れり磬落ちて
1938 生死事大蓮は開いて仕舞けり
1939 ほのぼのと舟押し出すや蓮の中
1940 蓑の下に雨の蓮を蔵しけり
1941 田の中に一坪咲いて窓の蓮
1942 夕蓮に居士渡りけり石欄干
1943 明くる夜や蓮を放れて二三尺
1944 蓮の欄舟に鋏を渡しけり
1945 蓮の葉に麩はとゞまりぬ鯉の色
1946 石橋の穴や蓮ある向側
1947 一八の家根をまはれば清水かな
1948 したゝりは歯朶に飛び散る清水かな
1949 宝丹のふたのみ光る清水かな
1950 苔清水天下の胸を冷やしけり
1951 ところてんの叩かれてゐる清水かな
1952 底の石動いて見ゆる清水哉
1953 二人して片足宛の清水かな
1954 懸崖に立つ間したゝる清水哉
1955 したゝりは襟をすくます清水かな
1956 両掛や関のこなたの苔清水
1957 市に入る花売憩う清水かな
1958 樟の香や村のはづれの苔清水
1959 澄みかゝる清水や小き足の跡
1960 法印の法螺に蟹入る清水かな
1961 追付て吾まづ掬ぶ清水かな
1962 三どがさをまゝよとひたす清水かな
1963 汗を吹く風は歯朶より清水かな
1964 岩清水十戸の村の筧かな
1965 かち渡る鹿や半ばに返り見る
1966 二三人砧も打ちぬ鹿の声
1967 寄りくるや豆腐の糟に奈良の鹿
1968 橋立や松一筋に秋の空
1969 抽んでゝ富士こそ見ゆれ秋の空
1970 鱸釣つて舟を蘆間や秋の空
1971 春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
1972 花落チテ砕ケシ影ト流レケリ
1973 朝貌や惚れた女も二三日
1974 垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
1975 秋風や走狗を屠る市の中
1976 山の温泉や欄に向へる鹿の面
1977 灯火を挑げて鹿の夜は幾時
1978 芋の葉をごそつかせ去る鹿ならん
1979 厠より鹿と覚しや鼻の息
1980 山門や月に立たる鹿の角
1981 ひいと鳴て岩を下るや鹿の尻
1982 水浅く首を伏せけり月の鹿
1983 見下して尾上に鹿のひとり哉
1984 行燈に奈良の心地や鹿の声
1985 漫寒の温泉も三度目や鹿の声
1986 岩高く見たり牡鹿の角二尺
1987 蕎麦太きもてなし振や鹿の角
1988 郡長を泊めてたまたま鹿の声
1989 宵の鹿夜明の鹿や夢短か
1990 暁に消ぬ可き月に鹿あはれ
1991 秋の空幾日迎いで京に着きぬ
1992 雲少し榛名を出でぬ秋の空
1993 押分る芒の上や秋の空
1994 秋の空鳥海山を仰ぎけり
1995 朝顔の今や咲くらん空の色
1996 立秋の風に光るよ蜘蛛の糸
1997 恩給に事足る老の黄菊かな
1998 菊に結へる四っ目の垣もまだ青し
1999 端渓に菊一輪の机かな
2000 杉垣に昼をこぼれて百日紅
2001 酸多き胃を患ひてや秋の雨
2002 大鼓芙蓉の雨にくれ易し
2003 後仕手の撞木や秋の橋掛り
2004 朝日のつと千里の黍に上りけり
2005 露けさの庵を繞りて芙蓉かな
2006 露けさの中に帰るや小提灯
2007 かりがねの斜に渡る帆綱かな
2008 雁や渡る乳玻璃に細き灯を護る
2009 北窓は鎖さで居たり月の雁
2010 傾城に鳴くは故郷の雁ならん
2011 夕雁や物荷ひ行く肩の上
2012 灯を入るゝ軒行燈や雁低し
2013 帆柱をかすれて月の雁の影
2014 客となつて沢国に雁の鳴く事多し
2015 遠近の砧に雁の落るなり
2016 提灯に雁落つらしも闇の畔
2017 花びらの狂ひや菊の旗日和
2018 侘住居作らぬ菊を憐めり
2019 白菊や書院へ通る腰のもの
2020 草庵の垣にひまある黄菊かな
2021 旗一竿菊のなかなる主人かな
2022 草共に桔梗を垣に結ひ込みぬ
2023 白桔梗古き位牌にすがすがし
2024 草刈の籠の目を洩る桔梗かな
2025 桔梗活けて宝生流の指南かな
2026 扶け起す萩の下より鼬かな
2027 ふき易へて萱に聴けり秋の雨
2028 藁葺に移れば一夜秋の雨
2029 雷の図にのりすぎて落にけり
2030 秋の蚊の鳴かずなりたる書斎かな
2031 黒塀にあたるや妹が雪礫
2032 女の童に小冠者一人や雪礫
2033 茶の花や黄檗山を出でゝ里余
2034 丸髷に結ふや咲く梅紅に
2035 むら鴉何に集る枯野かな
2036 川ありて遂に渡れぬ枯野かな
2037 法螺の音の何処より来る枯野哉
2038 たゝむ傘に雪の重みや湯屋の門
2039 吾影の吹かれて長き枯野哉
2040 女うつ鼓なるらし春の宵
2041 白絹に梅紅ゐの女院かな
2042 酒買ひに里に下るや鹿も聞き
2043 文債に籠る冬の日短かゝり

明治41年(1908年)

2044 日毎踏む草芳しや二人連
2045 二人して雛にかしづく楽しさよ
2046 鼓打ちに参る早稲田や梅の宵
2047 青柳擬宝珠の上に垂るゝなり
2048 居士が家を柳此頃蔵したり
2049 門に立てば酒乞ふ人や帽に花
2050 鶯の日毎巧みに日は延びぬ
2051 吾に媚ぶる鶯の今日も高音かな
2052 勅額の霞みて松の間かな
2053 飯蛸の一かたまりや皿の藍
2054 飯蛸や膳の前なる三保の松
2055 飯蛸と侮りそ足は八つあると
2056 春の水たるむはづなを濡しけり
2057 連翹に小雨来るや八っ時分
2058 花曇り尾上の鐘の響かな
2059 籠の鳥に餌をやる頃や水温む
2060 山伏の関所へかゝる桜哉
2061 強力の笈に散る桜かな
2062 南天に寸の重みや春の雪
2063 真蒼な木賊の色や冴返る
2064 そゝのかす女の眉や春浅し
2065 塩辛を壺に探るや春浅し
2066 名物の椀の蜆や春浅し
2067 僧となつて鐘を撞いたら冴返る
2068 穴のある銭が袂に暮の春
2069 いつか溜る文殻結ふや暮の春
2070 逝く春や庵主の留守の懸瓢
2071 嫁がぬを日に白粉や春惜む
2072 垢つきし赤き手絡や春惜む
2073 春惜む人にしきりに訪はれけり
2074 おくれたる一本桜憐なり
2075 逝く春やそゞろに捨てし草の庵
2076 青柳の日に緑なり句を撰む
2077 短夜を交す言葉もなかりけり
2078 文を売りて薬にかふる蚊遣かな
2079 安産と涼しき風の音信哉
2080 二人寐の蚊帳も程なく狭からん
2081 青梅や空しき籠に雨の糸
2082 五月雨や主と云はれし御月並
2083 鮟鱇や小光が鍋にちんちろり
2084 まのあたり精霊来たり筆の先
2085 此の下に稲妻起る宵あらん
2086 朝寒や自ら炊ぐ飯二合
2087 公退や菊に閑ある雑司ケ谷
2088 大輪の菊を日に揺る車かな
2089 たゞ一つ湯婆残りぬ室の隅
2090 春色や暮れなんとして水深み
2091 一つ家を中に夜すがら五月雨るゝ
2092 垣老て虞美人草のあらはなる

明治42年(1909年)

2093 小袖着て思ひ思ひの春をせん
2094 初日の出しだいに見ゆる雲静か
2095 とかくして鶯藪に老いにけり
2096 空に消ゆる鐸のひゞきや春の塔
2097 俊寛と共に吹かるゝ千鳥かな
2098 五月雨やももだち高く来る人
2099 初秋の芭蕉動きぬ枕元
2100 春はものゝ句になり易し京の町
2101 手を分つ古き都や鶉鳴く
2102 黍遠し河原の風呂へ渡る人
2103 黍行けば黍の向ふに入る日かな
2104 草尽きて松に入りけり秋の風
2105 鞭鳴らす頭の上や星月夜
2106 なつかしき土の臭や松の秋
2107 負ふ草に夕立早く逼るなり
2108 高麗人の冠を吹くや秋の風
2109 秋の山に逢ふや白衣の人にのみ
2110 秋晴や山の上なる一つ松
2111 故郷を舞ひつゝ出づる霞かな
2112 動かざる一篁や秋の村
2113 帰り見れば蕎麦まだ白き稲みのる
2114 銅の牛の口より野分哉

明治43年(1910年)

2115 独居や思ふ事なき三ケ日
2116 御堂まで一里あまりの霞かな
2117 花びらに風薫りては散らんとす
2118 ふと揺るゝ蚊帳の釣手や今朝の秋
2119 秋の思ひ池を繞れば魚躍る
2120 宮様の御立のあとや温泉の秋
2121 尺八を秋のすさみや欄の人
2122 温泉の村に弘法様の花火かな
2123 別るゝや夢一筋の天の川
2124 秋の江に打ち込む杭の響かな
2125 秋風や唐紅の咽喉仏
2126 秋晴に病間あるや髭を剃る
2127 秋の空浅黄に澄めり杉に斧
2128 衰に夜寒逼るや雨の音
2129 旅にやむ夜寒心や世は情
2130 蕭々の雨と聞くらん宵の伽
2131 秋風やひゞの入りたる胃の袋
2132 風流の昔恋しき紙衣かな
2133 生残る吾恥かしや鬢の霜
2134 立秋の紺落ち付くや伊予絣
2135 骨立を吹けば疾む身に野分かな
2136 稍寒の鏡もなくに櫛る
2137 鯛切れば鱗眼を射る稍寒み
2138 病む日又簾の隙より秋の蝶
2139 病んでより白萩に露の繁く降る事よ
2140 蜻蛉の夢や幾度杭の先
2141 蜻蛉や留り損ねて羽の光
2142 取り留むる命も細き薄かな
2143 仏より痩せて哀れや曼珠沙華
2144 虫遠近病む夜ぞ静なる心
2145 余所心三味聞きゐればそゞろ寒
2146 月を亘るわがいたつきや旅に菊
2147 起きもならぬわが枕辺や菊を待つ
2148 生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
2149 たそがれに参れと菊の御使ひ
2150 範頼の墓濡るゝらん秋の雨
2151 菊作り門札見れば左京かな
2152 洪水のあとに色なき茄子かな
2153 菜の花の中の小家や桃一木
2154 秋浅き楼に一人や小雨がち
2155 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
2156 鶴の影穂蓼に長き入日かな
2157 一山や秋色々の竹の色
2158 古里に帰るは嬉し菊の頃
2159 静なる病に秋の空晴れたり
2160 菊の宴に心利きたる下部かな
2161 大切に秋を守れと去りにけり
2162 竪に見て事珍らしや秋の山
2163 坐して見る天下の秋も二た月目
2164 ともし置いて室明き夜の長かな
2165 堂守に菊乞ひ得たる小銭かな
2166 力なや痩せたる吾に秋の粥
2167 佳き竹に吾名を刻む日長かな
2168 見もて行く蘇氏の印譜や竹の露
2169 秋草を仕立てつ墓を守る身かな
2170 秋の蚊や我を螫さんと夜明方
2171 頼家の昔も嘸栗の味
2172 鮎の丈日に延びつらん病んでより
2173 肌寒をかこつも君の情かな
2174 貧しからぬ秋の便りや枕元
2175 京に帰る日も近付いて黄菊哉
2176 稲の香や月改まる病心地
2177 天の河消ゆるか夢の覚束な
2178 裏座敷林に近き百舌の声
2179 帰るは嬉し梧桐の未だ青きうち
2180 帰るべくて帰らぬ吾に月今宵
2181 雲を洩る日ざしも薄き一葉哉
2182 甦へる我は夜長に少しづゝ
2183 骨の上に春滴るや粥の味
2184 鶺鴒や小松の枝に白き糞
2185 寐てゐれば粟に鶉の興もなく
2186 粟の如き肌を切に守る身かな
2187 冷やかな瓦を鳥の遠近す
2188 冷かや人寐静まり水の音
2189 的礫と壁に野菊を照し見る
2190 鳥つゝいて半うつろのあけび哉
2191 朝寒や太鼓に痛き五十棒
2192 先づ黄なる百日紅に小雨かな
2193 いたつきも久しくなりぬ柚は黄に
2194 足腰の立たぬ案山子を車かな
2195 骨許りになりて案山子の浮世かな
2196 病んで来り病んで去る吾に案山子哉
2197 濡るゝ松の間に蕎麦を見付たる
2198 藪陰や濡れて立つ鳥蕎麦の花
2199 稲熟し人癒えて去るや温泉の村
2200 柿紅葉せり纏はる蔦の青き哉
2201 就中竹緑也秋の村
2202 数ふべく大きな芋の葉なりけり
2203 新らしき命に秋の古きかな
2204 逝く人に留まる人に来る雁
2205 鶏頭に後れず或夜月の雁
2206 釣台に野菊も見えぬ桐油哉
2207 思ひけり既に幾夜の蟋蟀
2208 過ぎし秋を夢みよと打ち覚めよとうつ
2209 朝寒も夜寒も人の情かな
2210 顧みる我面影やすでに秋
2211 暁や夢のこなたに淡き月
2212 ぶら下る蜘蛛の糸こそ冷やかに
2213 嬉しく思ふ蹴鞠の如き菊の影
2214 肩に来て人懐かしや赤蜻蛉
2215 渋柿も熟れて王維の詩集哉
2216 つくづくと行燈の夜の長さかな
2217 小行燈夜半の秋こそ古めけり
2218 一叢の薄に風の強き哉
2219 雨多き今年と案山子聞くからに
2220 柿一つ枝に残りて烏哉
2221 君が琴塵を払へば鳴る秋か
2222 たゞ一羽来る夜ありけり月の雁
2223 明けの菊色未だしき枕元
2224 日盛りやしばらく菊を縁のうち
2225 縁に上す君が遺愛の白き菊
2226 井戸の水汲む白菊の晨哉
2227 蔓で堤げる目黒の菊を小鉢哉
2228 いたつきも怠る宵や秋の雨
2229 形ばかりの浴す菊の二日哉
2230 三日の菊雨と変るや昨夕より
2231 白菊と黄菊と咲いて日本かな
2232 菊の香や幾鉢置いて南縁
2233 生垣の隙より菊の渋谷かな
2234 暖簾に芸人の名を茶屋の菊
2235 青山に移りていつか菊の主
2236 搨置いて菊あるところどころかな
2237 燭し見るは白き菊なれば明らさま
2238 菊の雨われに閑ある病哉
2239 菊の色縁に未し此晨
2240 蔵沢の竹を得てより露の庵
2241 柩には菊抛げ入れよ有らん程
2242 有る程の菊抛げ入れよ棺の中
2243 ひたすらに石を除くれば春の水
2244 病んで夢む天の川より出水かな
2245 風に聞け何れか先に散る木の葉
2246 萩に置く露の重きに病む身かな
2247 冷やかな脈を護りぬ夜明方
2248 露けさの里にて静かなる病
2249 迎火を焚いて誰待つ絽の羽織
2250 朝寒や生きたる骨を動かさず
2251 無花果や竿に草紙を縁の先
2252 屠牛場の屋根なき門や夏木立
2253 勾欄の擬宝珠に一つ蜻蛉哉
2254 冷かな文箱差出す蒔絵かな
2255 冷かな足と思ひぬ病んでより
2256 冷ややかに觸れても見たる擬宝珠哉
2257 冷やかに抱いて琴の古きかな
2258 提灯を冷やかに提げ芒かな
2259 なに食はぬ和尚の顔や河豚汁
2260 浦の男に浅瀬問ひ居る朧哉

明治44年(1911年)

2261 腸に春滴るや粥の味
2262 蝶去つてまた蹲踞る小猫かな
2263 たく駝して石を除くれば春の水
2264 鶏の尾を午頃吹くや春の風
2265 冠せぬ男も船に春の風
2266 涼しさや蚊帳の中より和歌の浦
2267 四国路の方へなだれぬ雲の峰
2268 起きぬ間に露石去にけり今朝の秋
2269 蝙蝠の宵々毎や薄き粥
2270 稲妻に近くて眠り安からず
2271 灯を消せば涼しき星や窓に入る
2272 風折々萩先づ散つて芒哉
2273 耳の底の腫物を打つや秋の雨
2274 切口に冷やかな風の厠より
2275 たのまれて戒名選む鶏頭哉
2276 抱一の芒に月の円かなる
2277 稲妻に近き住居や病める宵
2278 石段の一筋長き茂りかな
2279 空に雲秋立つ台に上りけり
2280 広袖にそゞろ秋立つ旅籠哉
2281 鬢の影鏡にそよと今朝の秋
2282 朝貌や鳴海絞を朝のうち
2283 女して結はす水仙粽哉

(参考)「漱石氏と私(高浜虚子)」周辺(「抜粋」)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001310/files/47741_37678.html

≪ 漱石氏が創作に筆を執りはじめるようになってから、氏と私との交渉も雑誌発行人と人気のある小説家との関係というようなものがだんだんと重きをなして来た。今までは漱石氏は英文学者として、私の尊敬する先輩として、また俳友として、利害関係の無い交際であったのであって、何か文章を書くように勧めて「猫」の第一回が出来たのも、それを以て『ホトトギス』の紙上を飾ろうとか、雑誌の売れ行きを増そうとか、そういうような考は少しもなく、尊敬する漱石氏が蘊蓄(うんちく)を傾けて文章を作ってみたらよかろうという位な軽い考であったのであるが、一度び「猫」が紙上に発表されて、それが読書界の人気を得て雑誌の売行(うりゆき)が増してみると、発行人としての私は勢い『ホトトギス』のために氏の寄稿を要望せねばならぬような破目になって来た。漱石氏もまたはじめの間はその要望を寧ろ幸いとして強いて創作の機会を見出すようにつとめつつあったらしかった。
 そうこうしているうちに氏は一躍して文学界の大立物となってしまった。各種の雑誌は競うて君の作物を掲げ、その待遇も互に他におとらぬようにと競争するようになって来た。『ホトトギス』は従来原稿料というものを殆ど払ったことはなかったのであるが、「猫」には一頁一円の原稿料を払うことにした。そうしてこれはやがて他の作家にも及ぼしてすべての人の作物に同じような原稿料を仕払うことにした。しかしながら一頁一円の原稿料というものは、当時にあっても決して十分の待遇とはいえなかった。他の雑誌はもっと沢山の原稿料を支払って居るものであることが、後になって分った。今まで世間と殆んど没交渉であった『ホトトギス』は、原稿料の相場というようなものは皆目承知しなかった上に、四、五人の社員組織でやっていた窮屈な制度のもとにあっては、にわかに『ホトトギス』を世間体の雑誌に改革して競争場裡に打って出るというようなことは仲々難かしかった。漱石氏はそんなことには頓着なしに、『ホトトギス』は自分の生れ故郷としてこちらが要望するままに暇さえあれば筆を執ることをいつも快諾したのであったが、しかも他の雑誌社からの要求が烈しくなればなるほど自然『ホトトギス』のために筆を執る機会が少くなって来た。それと同時に氏はその門下生ともいうべき人々の作品を『ホトトギス』に紹介して、これを紙上に発表することを要求した。私は大概その要求に従った。中には止むを得ず載せたようなものもあったけれども、中にはまた沢山の傑作もあった。三重吉みえきち君をはじめとして今日文壇に名を成している漱石門下の多くの人が大概処女作を『ホトトギス』に発表するようになったのもそのためであった。
 漱石氏はまた『ホトトギス』を今少し機関の備わった堂々とした雑誌にして発行したらよかろうという考を持もっていたのであった。私がその事を快諾さえすれば、氏は十分に力を尽してくれる考があったことと想像するがその頃の『ホトトギス』の事情はその要求を容いれることが出来なかった。これを詳しく書くのは面倒臭いが、要するに四方太君などは漱石氏の文芸に不服で、それよりも純正の写生文雑誌として世間の人気などに頓着なく押し進みたいという希望を持っていたし、発行人としての私はそんなことをして損ばかりしていてもやり切れないから、少しは世間に面(つら)を出して人気のあるものにしたいと、漱石氏の作品などを歓迎する傾きがあった。けれどもまた私としては、漱石氏のような考のもとに全然『ホトトギス』を改革してしまって、四方太君らを排斥してしまうことは出来ないし、また世間の雑誌の如く原稿料を潤沢にして漱石氏はじめ多くの新進作家諸君を優遇するとなると、ただ鳴るが面白いことになってしまって『ホトトギス』の世帯はとてもやり切れない、と考えたところから、いつも四方太君などに不平を抱かせながら、漱石氏らにもまた慊(あき)たらぬ思いをさせるような態度で、その日暮(ひぐらし)に雑誌を出していた。
 明治三十九年以後の漱石氏と私との関係は、今言ったような有様で、ある時は漱石氏から私に対して雑誌編輯の上の督励となったり、後進の推薦となったり、また一般文壇に対する不平や懊悩(おうのう)を訴えて来るような場合も少くなかったが、今手紙を取り出してみても、最も多いのは私の原稿の依頼に対して何日までに書くとか、何枚書いたとかこう忙(せわし)くってはやり切れないとかいう用談の方が多くなって来て居る。今その手紙について一々当時の聯想を書いてみたら面白いのであるが、手紙だけの分量でもかなり多い上にその手紙だけでほぼ当時の状態も想像せられることと思うから左に明治三十九年の手紙で、手元に残って居るもの一切を掲載することにする。≫
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