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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その二) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その二「明治二十三年(一八九〇)・東風(春風)など」

(子規・二十四歳。第一高等中学校卒、帝国大学文化大学哲学科入学。碧悟桐を指導。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&haiku_id&p_age=23&season&classification&kigo=%E6%98%A5%E9%A2%A8&s&select&doing_wp_cron=1694306169.9556319713592529296875

春風の吹き残したり富士の雪  ID623 制作年23 季節春 分類天文 季語春風
春風も眠る日和や子守うた   ID625 制作年23 季節春 分類天文 季語春風

(漱石・二十四歳。帝国大学文化大学英文科入学。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

4 寐てくらす人もありけり夢の世に(「眼病で退屈している」旨の子規宛書簡、無季)
6 東風吹くや山一ぱいの雲の影(「東風(こち)」=東から吹く風。春風)
(※=付記)
※2337 春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(大正三年作。四十八歳)

(追記)

(寅彦=「漱石」との出会い「明治二十九年・十八歳時=第五高校入学時。出典=『牛頓先生俳句集・季題別』、『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

電線に凧のかかりて春の風(明治三十一~二年作。「漱石へ送りたる句稿その十一」)
春風や遊女屋並ぶ向ふ岸(明治三十二年作。「ホトトギス(五月)」)

(東洋城=「明治二十八年、十八歳時、松山中学校五年生の四月、漱石が教師として来任し、英語の教授を受ける。明治三十六年、二十六歳時、漱石帰朝、一高・東大講師となり、漱石を師とする。腸チフスで東大休学、翌年、新設の京大に入学、明治三十八年、京大卒業、翌年、二十九歳時に、宮内省に入り、式部官などを歴任。出典=『東洋城全句集(上・中・下)』の中巻の「年譜」)

東風の汐膨ると思ひ地球かな(明治四十四年作。三十四歳)
東風吹くや伊豆眞鶴へただむきに(大正四年作。三十八歳)
東風の汐昔江の島といふを遺しぬ(同上)
東風吹くや鶏犬声を忘れ里(昭和八年作、五十六歳)

(参考)「 ※2337 春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(漱石、大正三年作。四十八歳)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201901290000/

銭湯風景.jpg

「春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(大正三年作。四十八歳)」当時の「漱石・千駄木時代」の「銭湯風景」(?)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201901290000/
≪  垢つきし赤き手絡や春惜しむ(明治41)
   黍遠し河原の風呂へ渡る人(明治43)
   春風に吹かれ心地や温泉の戻り(大正3)
 
 漱石の長女・筆子の回想録『夏目漱石の「猫」の娘』によると、初めて自宅に風呂がとりつけられたのは、家中で大騒ぎだったといいます。
 筆子の娘婿である半藤一利は『漱石先生ぞな、もし』で「漱石邸に内風呂が入ったのは? となると、残念ながらさだかではないが、明治末年、少なくとも大正元年に『彼岸過迄』が書かれる直前ぐらいのことではないかと二ランでいる。おそらく明治四十三年の修善寺大患後であろう。千駄木町の家に湯殿のあったことを示す図解があるが、風呂桶は据えられていなかったのである」とあります。長女の筆子が生まれたのは明治32年ですから、20歳前後の頃だったのでしょう。
 
 初めて、私の家にお風呂がとりつけられた時にも、家中で大騒ぎをした記憶がございます。家中はしゃぎ回って、私達は勿論のこと、父まで、何度も何度も書斎から出て来ては、お風呂に手を突込んで熱さ加減をみながら、右往左往して居りました。
 ところが、誰一人として、お湯を下の方から掻きまわさなければならないことを知らないのです。お手伝いさんの一人が、手を入れてもう良さそうだと、「旦那様、お湯がわきました」と書斎の父に報らせに参りますと、
「うん、よし、よし」
と待ちに待って板父が、張り切って出て参りました。
 ジャブンと飛び込んだ途端に、
「ひやっ、冷たい」 ≫

道後温泉本館.jpg

道後温泉本館「泳ぐべからず」
https://kinarino.jp/cat8/33008

≪ おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈(だけ)は立派なものだ。」
そう坊っちゃんも褒める「住田の温泉」とは、道後温泉のこと。道後温泉本館が完成した翌年の明治28(1895)年に松山に赴任した漱石は、知人にあてた手紙の中でも絶賛するほど道後温泉がお気に入りで、「坊っちゃん」さながら足繁く通っていたそうです。≫
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