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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その三) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その三「明治二十四年(一八九一)・朝顔(朝貌)など」

(子規・二十五歳。二月、国文科に転科。虚子を指導。駒込に転居)

https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=24&season=&classification=&kigo=%E6%9C%9D%E9%A1%94&s=&select=

朝かほや斜にさきしつる一ツ  ID1471 制作年24 季節秋 分類植物 季語朝顔
朝な朝な朝がほながき契り哉  ID1472 制作年24 季節秋 分類植物 季語朝顔
朝な朝な朝がほながきさかり哉 ID1473 制作年24 季節秋 分類植物 季語朝顔

(漱石・二十五歳。七月、親しかった兄嫁・登世没)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

23 朝貌に好かれそうなる竹垣根 (季=「朝貌」=「朝顔」=秋。)
25 朝貌や咲た許りの命哉(「悼亡十三句」(嫂登世の追悼句)、冒頭の句。「朝顔=秋」。)
(付記)
26 細眉を落す間もなく此世をば (「同上」、無季の句。)
27 人生を廿五年に縮めけり (「同上」、無季。)
28 君逝きて浮世に花はなかりけり (「同上」、花(春)の句とうより無季の句。)
29 仮位牌焚く線香に黒む迄 (「同上」、無季の句。「通夜」の句。)
30 こうろげの飛ぶや木魚の声の下 (「同上」、「こうろげ=こおろぎ=秋」。「通夜」の句)
31 通夜僧の経の絶間やきりぎりす (「同上」、「きりぎりす=秋」、「通夜」の句)
32 骸骨や是も美人のなれの果 (「同上」、無季、「骨揚(こつあげ)のとき」の句)
33 何事ぞ手向し花に狂ふ蝶 (「同上」、「花・蝶=春)」、「無季(花=亡嫂、蝶=漱石)」)
34 鏡台の主の行衛や塵埃 (「同上」、無季。「初七日」の句)
35 ますら男に染模様あるかたみかな (「同上」)
36 聖人の生れ代りか桐の花 (「同上」、「桐の花」=夏、「朝顔の花」=秋。)
37 今日よりは誰に見立ん秋の月(「同上」、「秋の月」=秋。「月」=亡嫂の見立て。)

(追記)

(寅彦=「漱石」との出会い「明治二十九年・十八歳時=第五高校入学時。出典=『牛頓先生俳句集・季題別』、『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

枳殻(キコク=からたち)垣を朝顔二三のぞきけり(明治三十一年作。二十一歳、漱石初出会)
所狭きまで朝顔並べ屋根の上(「同上」。漱石との初出会いは試験失敗の友人の「点貰い」)
かれがれの朝顔からむれんじ窓(「同上」。五高(田丸卓郎)で「物理学」専攻を固める。)
朝顔の唯一色に淋しさよ(漱石に「俳句」の話を聞き、漱石に師事。「落穂集」など。)

(東洋城=「明治二十八年、十八歳時、松山中学校五年生の四月、漱石が教師として来任し、英語の教授を受ける。明治三十八年、京大卒業、翌年、二十九歳時に、宮内省に入り、式部官などを歴任。出典=『東洋城全句集(上・中・下)』の中巻の「年譜」)

朝顔の夕顔の種蒔きにけり(明治三十五年作、二十五歳。九月、子規没。)
朝顔や置屋もすなる鄙の宿(明治三十七年作、二十七歳。新設の京都大学へ転校。)
朝顔や縁を畳へ日二尺(明治四十四年作、三十四歳。寅彦帰朝。漱石、大阪で病む。)
朝顔や天過つて紺青を(大正八年作、四十二歳。宮内省を退官。「朝日俳壇」の選を担当。)
朝顔やどの色とめし妹が帯(大正九年作、四十三歳。寅彦・豊隆「渋柿」に毎号執筆。)

仰臥漫録・朝顔.jpg

「仰臥漫録・朝顔」(子規画賛)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202010050000/

(参考その一) 「仰臥漫録5:朝顔」周辺

≪ 子規は明治34年9月9日の『仰臥漫録』には、川崎(のちに原)安民が鋳造した蛙の置物の絵を描きました。高さ7cmの実物大の絵には正面と背面が描かれ、「無花果に手足生えたると御覧ぜよ」と句を詠んでふざけています。(中略)
9月13日には、中央に朝顔を置き、句を添えています。
   朝皃や絵の具にじんで絵を成さず
   朝顔や絵にかくうちに萎れけり 
   朝顔のしぼまぬ秋となりにけり
   蕣のー輪ざしに萎れけり
 
 明治32年8月10日の「ホトトギス」に掲載された『庭』という文に子規庵の庭の変遷が書かれています。子規が家族と移った明治27年2月の頃の庭には、「余が六年前にこの家に移って来た時は、始めて空地を開いて建てた家で、その新しい家へ始めて住んだのだから、庭の隅に一本の椎があり、垣の外に大きな椎と槻がある外は、木も草も何もなかった」とあり、ほとんど何も植えていませんでした。この年の秋の「朝顔の引き捨てられし莟かな」という句には、「草庵の囲いあるとある限り、蕣はいつかせて朝な朝な楽しみしに、ある日家主なる人の使して杉垣枯れなんとてことごとくそを引かせたる。誠に悲しく浮世のさまなりける」の詞書があり、引かれてしまった庭の朝顔を寂しく思う子規が感じられます。
 ただ、翌年もまた、庭の朝顔は花を咲かせました。当時の子規は、日清戦争取材の帰りの船中で吐血したため、須磨保養院で療養していました。看病していた高浜虚子が、子規の母に子規の病状を報告するために一時東京に帰りました。その時の庭の様子を子規に告げたのでしょう。子規は「須磨にある頃、虚子おとずれして、君が庵の朝顔は今さかりというに」の詞書で「帰るかと朝顔咲きし留守の垣」と詠んでいます。(後略)  ≫

(参考その二)  高浜虚子『子規句解』(「蕣」二句抜粋)

http://geo.d51498.com/urawa0328/siki/sikikukai.html

≪蕣や君いかめしき文學士(明治廿六年)

 朝顔は立派な花をつけている。漱石は新たに文學士になつてやつて來た、といふだけの句であるあるが、子規も大學につゞけて居さへすれば共に文學士となつたのである。自分から好んでゞはあつたが、併し病氣のためもあつて、大學を中途退學した。「前にも「孑孑の蚊になる頃や何學士」といふ句があるやうに、もとの同窓生が何學士といふ肩書を背負つて世の中に出て來るのを見ると、多少の感慨が無いでもない。殊に親しい交りを呈した漱石が、文學士といふ肩書を持つてけふ改まつて子規のところへ來た、といふやうな感じである。

蕣に今朝は朝寢の亭主あり(明治廿六年)

 この句はおそらく東北の旅を終へて歸つた時の句であらうと思ふ。子規は元來朝寢坊であつた。それといふのも、夜更かしをして仕事をする癖があつたので自然朝寢をする傾きになつたものであらう。子規の留守中はお母さんも妹さんも、朝早く起きて拭掃除も早く出來る日がつづいたのであるが、子規が歸つて來ると、旅疲れもまじつて忽ち朝寢坊の主人がある家になつた、と云ふことをいつたものである。 ≫
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