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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その五) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その五「明治二十六年(一八九三)・「蒟蒻・心太」など」

(子規・二十七歳。帝国大学文化大学中退。『獺祭書屋俳話』刊。)

菎蒻につゝじの名あれ太山寺 ID2069 制作年25 季節春 分類植物 季語つつじ
菎蒻の水さえ返る濁りかな  ID4744 制作年26 季節春 分類時候 季語冴返る
立ちながら心太くふ飛脚哉  ID6983 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
心太水にもならず明けにけり ID6984 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
心太龍宮城のはしら立て   ID6985 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
庭先の清水に白し心太    ID6986 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
婆々の留守海月にやならん心太 ID6987 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太
みちのくの水の味しれ心太  ID6988 制作年26 季節夏 分類人事 季語心太

(参考その一)  高浜虚子『子規句解』(「菎蒻」の句)

菎蒻につゝじの名あれ太山寺(明治廿五年)

 松山から一里ばかり離れた處に三津といふ港があつて、それが其時分松山から他に旅行する時の唯一の港であつた。現在は高濱といふ港が其近傍に出來て、其方に汽船が主として發著するやうになつたのであるが其頃は未だ其處は一漁村に過ぎなかつたのである。其の三津の近傍に太山寺といふ山があつて、そこには太山寺といふ寺がある。菎蒻が其處の名物であつてそれを太山寺菎蒻といつて、松山あたりの人々は特に賞翫して居た。そのまた太山寺には躑躅の花が見事であつた。そこで蒟蒻には太山寺菎蒻といふ名前があるが、又つゝじ蒟蒻といふ名前があつてもいゝではないか、と戯れて言つたものであらう。私の子供の時分には太山寺菎蒻といふのは名物であつたが、今は果してどうであらうか。躑躅の花も尚盛りであるかどうか。

(漱石・二十七歳。帝国大学文化大学卒業。高等師範学校英語教師。)

1218 槽底に魚あり沈む心太(明治三十年作。「子規へ送りたる句稿二十五」)
1557 蒟蒻に梅を踏み込む男かな(明治三十二年作。「子規へ送りたる句稿三十三」)  
1951 ところてんの叩かれてゐる清水かな(明治四十年作。「手帳より」)

(寅彦・十六歳。高知県尋常中学校(現・高知追手前高等学校)。)

心太とラムネの瓶を浸しけり(明治三十二年作。二十二歳。) 
心太水晶簾と賛すべく(明治三十四年作。二十四歳。)
涼しさの心太とや凝りけらし(三十四年作。二十四歳。)

(東洋城・十六歳。愛媛県尋常中学校(現・松山東高等学校))

甘酒や一樹の下の心太(明治三十三年作。二十三歳。)

(参考その二) 「寒山落木抄」周辺

https://shikihaku-digital-archive.jp/kanzanrakubok_sho

子規自選句稿「寒山落木抄.jpg

「子規自選句稿「寒山落木抄」明治27(1894)年秋/縦245㎜×横167㎜(綴じた状態)
(「松山市立子規記念博物館/デジタルアーカイブ」)

≪※子規の選句眼の成長を物語る、まぼろしの自選句集
本資料「寒山落木抄」(かんざんらくぼくしょう)は、子規が明治23年頃から同27年冬までの間に自分が作った俳句の中から、計945句を書き抜いて作成した自選句稿です。本文は全50丁、各頁は10行ずつ記されており、収録された俳句は春223句(うち抹消16句)、夏293句(うち抹消32句)、秋236句(うち抹消20句)、冬193句(うち抹消11句)を数えます。

 子規は明治18年頃に俳句を作り始めて以降、明治27年までに1万句を超える俳句を作っていました。子規が自分自身で詠んだ膨大な俳句の中から、様々な観点で良いと思う句を選抜して書き写し、一冊にまとめたのが本資料です。しかしながら本資料は、正式な子規の句集として出版されることはなく、子規の死後も自筆句稿のまま長く保管されていました。

 子規は晩年、唯一の自選句集として『獺祭書屋俳句帖抄上巻(だっさいしょおくはいくちょうしょうじょうかん)』(明治35年4月刊)を出版しています。この『獺祭書屋俳句帖抄』と「寒山落木抄」を比較してみると、共通して選抜されている俳句は全体の半数にも満たず、子規の選句眼(何をもって「良い俳句」とするか)が明治27年と同35年の間で大きく変化したことがうかがえます。本資料「寒山落木抄」は、子規の俳句の成長過程を知る上で、たいへん貴重な資料です。 ≫
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