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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十四) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十四「明治三十五年(一九〇二)・「糸瓜・絲瓜」など」

(子規、九月十八日、「絶筆三句」、十九日、午前一時永眠(三十六歳)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=&season=&classification=&kigo=%E7%B3%B8%E7%93%9C&s=&select=

秋に形あらば糸瓜に似たるべし   ID1461 制作年24 季節秋 分類植物 季語糸瓜
しばらくは風のもつるゝ糸瓜かな  ID1462 制作年24 季節秋 分類植物 季語糸瓜
露いくつ糸瓜の尻に出あひけり   ID4026 制作年25 季節秋 分類植物 季語糸瓜
蔓かれてへちまぶらりと不二の山  ID4027 制作年25 季節秋 分類植物 季語糸瓜
茶屋淋し糸瓜の蔓の這ひかゝる   ID8458 制作年26 季節秋 分類植物 季語糸瓜
家一つ門は糸瓜の月夜かな     ID11585 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
柴の戸に糸瓜の風の静かさよ    ID11586 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
投げ出したやうな糸瓜や垣の外   ID11587 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
投げ出したやうに垣根の糸瓜哉   ID11588 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜肥え鶏頭痩せぬ背戸の雨    ID11589 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
わぐなつて残る糸瓜や屋根の上   ID11590 制作年27 季節秋 分類植物 季語糸瓜
五六反叔父がつくりし糸瓜かな   ID14851 制作年28 季節秋 分類植物 季語糸瓜
雪隠の窓にぶらりと糸瓜かな    ID14852 制作年28 季節秋 分類植物 季語糸瓜
行く秋を糸瓜にさはる雲もなし   ID14853 制作年28 季節秋 分類植物 季語糸瓜
垢すりになるべく糸瓜愚也けり   ID18381 制作年29 季節秋 分類植物 季語糸瓜
秋のいろあかきへちまを畫にかゝむ ID20297 制作年30 季節秋 分類植物 季語糸瓜
へちまとは糸瓜のようなものならん ID20298 制作年30 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔の貧に處る糸瓜の愚を守る   ID20299 制作年30 季節秋 分類植物 季語糸瓜
西行に糸瓜の歌はなかりけり    ID21889 制作年31 季節秋 分類植物 季語糸瓜
内閣を糸瓜にたとへ論ずべく    ID21890 制作年31 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜とも瓢ともわかぬ目利哉    ID23012 制作年32 季節秋 分類植物 季語糸瓜
愚なる処すなはち雅なる糸瓜かな  ID23888 制作年33 季節秋 分類植物 季語糸瓜
目鼻画く糸瓜の顔の長さ哉     ID23889 制作年33 季節秋 分類植物 季語糸瓜
秋ノ灯ノ糸瓜ノ尻ニ映リケリ    ID24485 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
棚ノ糸瓜思フ処ヘブラ下ル     ID24486 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
西ヘマハル秋ノ日影ヤ糸瓜棚    ID24487 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
病間ニ糸瓜ノ句ナド作リケル    ID24488 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
病閑ニ糸瓜ノ花ノ落ツル昼     ID24489 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
日掩棚糸瓜ノ蔓ノ這ヒ足ラズ    ID24490 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜サヘ仏ニナルゾ後ルゝナ    ID24491 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜ニハ可モ不可モナキ残暑カナ  ID24492 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜ブラリ夕顔ダラリ秋ノ風    ID24493 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
牡丹ニモ死ナズ瓜ニモ糸瓜ニモ   ID24494 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
黙然ト糸瓜ノサガル庭ノ秋     ID24495 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
物思フ窓ニブラリト糸瓜哉     ID24496 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔ト糸瓜残暑ト新涼と      ID24497 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔ノ棚に糸瓜モ下リケリ     ID24498 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
夕顔モ糸瓜モ同ジ棚子同士     ID24499 制作年34 季節秋 分類植物 季語糸瓜
「絶筆三句」
痰一斗糸瓜の水も間にあはず    ID25012 制作年35 季節秋 分類植物 季語糸瓜
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな    ID25013 制作年35 季節秋 分類植物 季語糸瓜
をととひのへちまの水も取らざりき ID25014 制作年35 季節秋 分類植物 季語糸瓜


(漱石、三十六歳。十二月、帰国の途につく。その直前に子規没との虚子・碧悟桐の書翰が届く。)

66  風ふけば糸瓜をなぐるふくべ哉(明治二十八年)
904  長けれど何の糸瓜とさがりけり(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十七」)
1737 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな(明治三十二年。「子規へ送りたる句稿三十五」)
1848 一大事も糸瓜も糞もあらばこそ(明治三十六年)


(寅彦、二十五歳。『俳句と地球物理』所収「略年譜」/『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』」)

面白し瀬戸の絲瓜(へちま)の長短(明治三十一年作)
日一日ぶらりぶらりと絲瓜哉(同上)
世をすねて日影の絲瓜そりかへる(明治三十一~二年作)
長過て肥手桶たゝく絲瓜哉(同上)
干からびし絲瓜をつるす納屋の軒(同上)


(東洋城、二十五歳。『東洋城全句集上・中巻』)

糸瓜忌や只句を作るあな尊と(明治四十五年作)
道の家の糸瓜に起す話頭かな(大正九年作。前書「子規忌順礼 二十七句」)


(参考その一) 「絶筆三句 子規」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-05

(再掲)

https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html

子規・絶筆三句.jpg

「絶筆三句 子規」(紙本墨書/31.0×44.3㎝/国立国会図書館蔵) 
https://www.ndl.go.jp/exhibit70/23.html
≪〔正岡子規 著〕〔正岡子規 明治35(1902)年〕写【WB41-61】43 〔絶筆三句〕の画像(デジタルコレクション)
 日本の近代文学に多大な影響を及ぼした俳人、歌人の正岡子規が臨終間際に書き残した三句。明治35(1902)年9月18日の午前11時頃、紙を貼りつけた画板を妹の律に持たせ、仰臥しながら記した。翌19日午前1時頃、子規の息は絶えた。満34歳の若さであった。病魔に苦しみながらも、死の直前まで俳人として生き抜いた壮絶な姿がうかがえる。
(書き起こし)
をととひのへちまの水も取らざりき/糸瓜咲て痰のつまりし佛かな/痰一斗糸瓜の水も間にあはず  ≫

(追記)

   倫敦にて子規の訃を聞て(五句)
1824 筒袖や秋の棺にしたがはず (漱石・36歳「明治35年(1902)」) 
≪ 季=秋(雑)。※子規は九月十九日に他界した。虚子から要請のあった子規追悼文に代えてこれらの句を送った。その書簡では子規の死について、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候」と述べている。その後で、「子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖にてピステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と言い、これらの句を記した。句のあとに「皆蕪雑句をなさず。叱正」とある。筒袖は洋服姿。◇書簡(高浜虚子宛、明治35.12.1)。雑誌「ホトトギス」(明治36.2)。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1825 手向くべき線香もなくて暮の秋 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=暮の秋。◇1824。≫(「同上」)
1826 霜黄なる市に動くや影法師 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=霧(秋)。◇1824。(「同上」)≫
1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=きりぎりす(秋)。◇1824。≫(「同上」)
1626 招かざる薄に帰り来る人ぞ (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=薄(秋)。◇1824。≫(「同上」)


(参考その二)  「碧梧桐の『子規の回想』」周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202105250000/

≪ 子規の最期については、高浜虚子の『子規居士と余』が引き合いに出されます。かたや河東碧梧桐の文が引用されることはあまりありません。『子規居士と余』は岩波文庫の『回想 子規・漱石』に収録されていますが、碧梧桐の『子規の回想』は、子規が漱石の下宿・愚陀仏庵に行くところまでしか『子規を語る』に収録されていないのです。
『子規の回想』に記された「辞世の句」を、次の回は「死後」をみていただきます。
 これが終わりましたら、虚子と碧梧桐の俳句観について書かせていただきます。
 
二十八 辞世
 ことさらに辞世の句を作らないと言った芭蕉を、さすがに芭蕉らしい、と話したこともある。また太祇の辞世の句が、平生の伎価に似ない。あれ程の蕪村にしても辞世はどこか弱々しいと言ったこともある。
 古人の辞世の句をおおむね否定していたから、自分の場合にも無論思い及んだ筈であるが、どういうものか、辞世を作ることにかなり執着を持っていた。芭蕉でもない者が、芭蕉を気取るのを避けた意味であったかも知れぬ。死ぬる三日前に「九月十四日の朝」と題して文章を口誦した程、死生の間に超然としていた人であるから、考え得るなら辞世を考えてもいい、と例の強烈な心的生活力が働いていたかも知れない。
 明治三十三年十八日の「病牀六尺」と四月発行の「ほととぎす」の消息は、子規自らも「近頃不覚をとった」と言っているように、辞世について閑葛藤のあったことを明らかにしている。それによって、追憶の糸たぐって見ると、その五月十三日午後六時頃、子規直筆の急便によって、私はある宴会の席上から駆け付け、虚子も宮本国手も相次いで来着したのだが、子規の阿鼻叫喚の苦悶は、真に見るに堪えぬものがあった。その夜は虚子宿直して翌十四日となり、病苦はやや平静に帰したが、疲労その極に達して、何の食欲もなく、時には失神したのかを患える程全く元気がなかった。その夜私が宿直することになったが、夜九時頃、枕元に坐っておられた母堂に、低いかすれかすれな声で、またとぎれとぎれに、自分死後如何にすべきかの心得と言ったようなようなものを、さも最後の遺言のように語るのであった。側に他人の私の居るのに関らず、随分突っ込んだ辛辣な言葉も交じる。居るにも居られずというのは、その時の私の思いで、さし出口はならず、膝をただしたまま身動きも出来なかった。
 その翌日の朝のことである。三日間の絶食にも煩いされたのであろう。もういよいよ最後だというような悲観的なことのみを口にし、その応接に狼狽困倒したのであった。私の書いた消息に、
 …松山の親族へ電報を打とう、何と打とうか、サヨナラ、ネギシでわかるだろうか、ゴキゲンヨウ、ネギシとしょうかなどと言わるるに到っては小生の衷心矢も楯も堪らず…ご親族への電報ならば看護人より打つかた穏やかなるべし、とて異議申立てしに、さらば露月に、カツ〇ネギシと打つてくれとて、電報頼信紙を取出さるるなど・・・。
 とある。今までも幾度か病体危険を報ぜられたが、私の知る限りにおいて、ここまで切羽詰まったことはなかった。あるいは子規も他日告白しているように、以前自分が何死ぬるものか、と思っている時には周囲が顛動し、今度自分が危険だと思う時には、周囲が冷静である。と言った多少の反抗気分も手伝っていたかも知れぬ。それから、秀真の作った子規の塑像を持って来いと言って、その裏に「白題 土一塊牡丹生けたる其下に 年月日」と墨をつぎつぎ書くのであった。「病林六尺」にも、
 もしこのままに眠ったらこれが絶筆であるぞと言わぬ許りの振舞。
 とあるように、明らかに辞世の一句であったのだ。
「お前はこれ(塑像)を持っといでるので手がダルイかな。
「石膏というものは墨付きの心持のいいものだ。
「いくらでも書いて見たいよ。
 など、静かに言われる・・・°
 と同じ消息にある。どの位の大きさのものか判然記憶はしないが、ともかく仰向けに寝ていたなら、病体に触れないように持っていなけねばならない。横向きであれば、字を書くに都合のいいように向けなければならない。手がだるいより、その工夫の方に苦しみつつ、私はアア辞世の句だ、と「土一塊」の初筆で、もうじーんとと電気をかけられたようになってしまった。
 ところが時経るままに天気回復して、その日の根岸祭りを祝う料理注文など、打って変わった微笑、平和な光景になった。
   この祭いつも卯の花下しにして (子規)
 と、さきの辞世はどこへやらと言った即吟さえ浮かぶ、周囲の愁眉を開くシーンとなった。
 これが歿年五月十五日のことであった。この夏の酷暑を乗り切れば、あるいはまた余命をつなぐことが出来るであろうとも、周囲の人々と話し合っていたのであるが、幸いにして危篤を患えることもなく過ぎた。同七月の『ほととぎす」消息に、
 
 意外の事には例の腰の患部の痛み次第に薄らぎ行きて、昨今は殆んどその疼痛を忘れらるる程とも相成り……されば子規君はその虚に乗じて元気百倍日に十句二十句を作り、写生画一枚二枚を画き、病牀六尺の原稿も手づからみとめらるることあり……
 
 と近来の快事とさえ報じている。患部の痛みの去ったというのは、その癒着のためでなくて、かえって病勢の進行した麻痺状態でなかったであろうか。
 かくて九月に入って、三、四日頃より先ず下痢症に罹り、日に三、四回の便通を見、同八日に初めて脚の水腫を発見した。当時の消息に、
 
 …丁度点灯後小生ー碧梧桐ーと外に数人、例の枕頭にて何くれと雑談中、子規君もいつになく快詞を挟み一時病苦など忘れられたる様子ありしに、突如同君の声にて「アラッ」とさも驚きたる調子に叫ばれ候、何れも何事の起りしぞと、病人の方を注視したる際「早く灯を見せておくれ」と甚だ性急に申され、母上と妹君ランプを提げてその足の方を照されしに、子規君つくづく己が足の甲を見て「コンナに水を持ってる…」と申され…聞けばその水腫れは数日前よりその兆候見えしも、さして著しき変化も見えざれば、それと病人にも明されざりしものの由…
 
 とある。医師は運動不足の病体には普通に見る徴候だと言っている、子規は「甚だ不気味な物じゃな」と不安な言葉を漏らしている。七、八月小康を得ていた病勢は、この水腫を皮切りに、再び猛威を逞しくして、十日の朝には腰部以下の自由を失い、かつ左右両足の位置によって激烈な痛みを感じ、モヒ剤も功を奏しないので、十二日には皮下注射を行っている。子規の苦悶状態はその極度に達したらしく、自ら「拷問」と歎息している。十三日、再び注射、十四日水腫腰部に及び、という風に加速度に昂進を示して、十八日の朝となった。
午後十時頃、いつも画を書く紙を貼る板に、唐紙を張らせたのをお律さんに持たせて、仰向けのまま何かを書こうとする。もう余り物も言わない。痰が切れないということで、かなり苦しそうな咳をする。私が筆に墨を含ませて、子規の右手に渡すしぐさを幾度も繰り返して、
   糸瓜咲て痰のつまり仏かな(子規)
 以下三句の絶筆が出来た。私は五月の辞世の先例もあるので、またこの辞世が笑い話の種となるのではないかの空想を描いたりした。この三句の辞世のことは、「子規言行録」に私の見たままを詳細に報告している。一句書いては休み休みして、最後の「取らざりき」を書き終えた後、筆を捨てるのも、もの臭ささそうに、穂先がシーツの上に落ちて、すこしばかり墨を印した。その画板はそのまま病室の障子に先せかけられて、誰にも見えるようになっている。子規も一度はそれを注視したようであるが、何とも口をきかない。先程この辞世を書き始めてから、一切だんまりで、誰一人口をきかないのであるから、病人の咳が時々静寂を破る外、シーンとして闇の底へ落ちて行くような、重々しい空気がよどんでしまった。それに辞世がいつまでもそこにさらされているのが辛かった。どこかへ片付けようか、と言って見たい咽が強ワ張って詰まっていた。
 どうも五月の時のような余裕も活気もない、もうぐったりした子規であった。いっさい万事これでおしまいだ、と言う風に見える顔色でもあった。私は何を聞こうにも、何を話しかけようにも、頭の中が洞になって、考えも工夫もなかった。どよんだ部屋の空気に金縛りになって、指一本動かすことも出来なかった。子規は最後の元気で、句を考える力もあったのであるから、次に辞世の歌をと思わないでも無かったであろう。また、そこらに居合わす誰にでも、さらに最後の言葉を与えよう思いに耽っていたのかも知れない。不幸にして、丁度その言葉を分かつ適当な人が居なかったせいで、余儀なく、沈黙していたのかも知れない。あるいは平凡なお別れの言葉なんかと、この二月頃時々試みていた仏偶39のような、奇抜な文言でも練っていたのか。それとも最後を取り乱さないように、心の平静を破るまいとしていたのか。
 遺憾ながら、この三句の辞世は、終に真の辞世になってしまった。また好個の記念の絶筆ともなってしまった。私には、それを書き終わった当時の息詰まるような沈黙の方が、一層深く焼きつけられた辞世の印象となった。≫ 
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