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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その六) [漱石・東洋城・寅彦]

その六「明治四十一年(一九〇八)」

[漱石・四十二歳]
[明治41(1908) 1月~4月、「坑夫」、6月、「文鳥」、7月~8月、「夢十夜」、9月~12月 「三四郎」「吾輩は猫である」のモデルの猫死亡。12月、次男・伸六誕生。 ]

2085 この下に稲妻起こる宵あらん
[九月十三日『吾輩は猫である』のモデルとなった猫が死んだ。その猫の墓標の裏に書いた句(夏目鏡子「漱石の思ひ出」)。]

(付記) 『吾輩は猫である』の猫死亡(周辺)

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

[ 漱石は、親しい弟子達に、猫の死亡通知も出している。 葉書の周囲を墨で黒く縁取りした自筆の死亡通知である。 その文言は、

辱知(じょくち)猫儀久々病気の処 療養不相叶(あいかなわず)昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候
埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候(つかまつりそろ)
但し主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候(もうさずそろ)
 以上

というものだった。 日付は(明治41年=1908年)9月14日、文面に「昨夜」とあるから、猫君の死亡日時は13日晩ということになる。
その後、妻鏡子は、毎月13日を猫の月命日とし、その日には、鮭の切り身と鰹節飯を欠かさずお供えしたという。

なお、漱石の猫の死にちなんで、

松根東洋城は、その時伊豆は修善寺にいた高浜虚子に、猫の訃報を知らせようとこんな電報を打った。

センセイノネコガシニタルサムサカナ

それに対する虚子の返電。

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
吾輩の戒名も無き薄(すすき)かな 

また、鈴木三重吉からは、

猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり

寺田寅彦からは、

蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元
土や寒きもぐらに夢や騒がしき
驚くな顔にかかるは萩の露 
などの句が寄せられた。          ]

(再掲) 「あかざと黒猫図(漱石)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18

あかざと黒猫図(漱石).jpg

「あかざと黒猫図」(夏目漱石画/墨,軸/1311×323/箱書き:漱石書「あかざと黒猫」「大正三年七月漱石自題」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)

https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

[東洋城・三十一歳。「定型を代表するものは「ホトトギス」と「国民俳壇」で、この二つを掌握しているのは虚子であった。虚子は俳句を断念し小説に専念することになり、虚子の懇請により、東洋城は「国民俳壇」の選を引き継いだ(十月)。碧悟桐の新傾向(非定型)の盛んになりゆく頃で、定型派、東洋城の傘下に集まった。 ]

センセイノネコガシニタルサムサカナ(この句は『東洋城全句集・上巻』には収載されていない。この句は「ホトトギス」に、虚子の句などともに掲載されている。)

[寅彦・三十一歳。「障子の落書」を藪柑子の筆名で「ホトトギス」に発表。十月、「尺八の音響的研究」により理学博士の学位を受け、漱石邸で祝宴が催される。]

蚯蚓鳴くや冷たき石の枕元(日記の中より三句。前書「夏目先生より猫病死の報あり。見舞いの端書認む。)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき(同上)
驚くな顔にかゝるは萩の露(同上)


(参考その一)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」周辺

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

[「この青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」の「洋一」とは、漱石門下にも連なる「日本の数学者。元北海道帝国大学教授。立教大学名誉教授。随筆家、俳人」の「吉田洋一(1898年 - 1989年)」その人である(「ウィキペディア」)。
 ちなみに、「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)』で、「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」を寄稿した「松根新八郎」も、「吉田洋一」と同じく「数学者」の世界の人のようである。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1140563741724347776

 上記の「松根東洋城家族」で、一般に、「俳人・東洋城」より以上に知られているのは、「日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた」(「ウィキペディア」)、末弟の「松根宗一」(1897年4月3日 - 1987年8月7日)であろう。

松根宗一夫妻.jpg

「原子力産業新聞(第157号=昭和35年10月5日)=日本代表ら:コール事務総長と交歓=(左から)松根宗一氏夫人・松根原産代表(松根宗一)」
https://www.jaif.or.jp/data_archives/n-paper/sinbun1960-10.pdf

(参考その二)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」周辺

松中時代の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「東洋城」(明治二十八年当時、十八歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

最晩年の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「最晩年の東洋城」(昭和三十九年当時、八十七歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24
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