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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十八) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十八「昭和九年(一九三四)」

[東洋城・五十七歳。栃木、桐生、佐野にて俳句大会。満州各地を遍歴すること月余に及ぶ。大連にて「東洋城百短冊展」開催。「満州行」連載。「句作問答」始まる。「俳句研究」創刊。品川区上大崎一丁目四七〇へ移転。]

「『満州行』」より二百十一句]中の十句 

青嵐しづかに汽船の左舷かな(前書「神戸出港」)
夏海へ今関門の若葉かな(前書「玄海」)
アカシヤの花や大陸第一歩(前書「大陸上陸」)
三伏を奉天城の繁華かな(前書「奉天」)
掘り下げて地獄の道や日の盛(前書「撫順」)
あはれむや塀の崩れに夏柳(前書「柳条溝」)
浴衣着てそぞろに行けば日本かな(前書「新京銀座の夜店」)
楡並木ロシヤ女の夏着かな(前書「哈爾濱」)
夜を秋や七星落ちて七山に(前書「蒙古七山の一の玻璃山遠望」)
峡川につづく水車や夏柳(前書「顧望満州」)

※ この「満州行」で、東洋城が日本を離れていた時に、俳誌「渋柿」の主要同人が「渋柿」を離脱して、新たに「あら野」という俳句結社を作るという、東洋城にとっては、予期しない大きな出来事があった。この主要同人は、「小杉余子(よし)」「上甲平谷(へいこく)」「星野石木」「南仙臥(せんが)」らで、これらの主要同人は、東洋城が最も頼りしていた、謂わば、「渋柿」という俳句結社の中枢を担っていたメンバーでもあった。
 この「あら野」については、『俳文学大辞典(角川書店)』では、次のように記述されている。

[ あら野 俳誌
 昭和十年(一九三五)一月(創刊)。月間。編集発行人は上甲保一郎(上甲平谷)、選者小杉余子・星野石木。「一に風雅の誠を貫いて平等無礙(むげ)なる方人悦楽の王土を現ずる」を理念とする。昭和十九年の雑誌統合により、「渋柿」に合併。(以下略) ]

 小杉余子と上甲平谷とについても、『俳文学大辞典(角川書店)』に記述されているが、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」などでは、次のとおりである。

[小杉余子( こすぎよし)  1888-1961 明治-昭和時代の俳人。
明治21年1月16日生まれ。銀行勤務のかたわら,松根東洋城に師事して大正4年「渋柿」に参加。昭和10年東洋城のもとをはなれ,「あら野」の創刊にくわわる。平明な写生句で知られた。昭和36年8月3日死去。73歳。神奈川県出身。本名は義三。句集に「余子句集」「余子句選」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[上甲平谷(じょうこうへいこく)
明治25年4月10日愛媛県生れ。昭和61年8月29日歿。早稲田大学文学部哲学科卒。初め村上霽月、のち河東碧梧桐、次いで松根東洋城の門に入る。俳誌「澁柿」、「あら野」を経て、昭和13年「俳諧藝術」を創刊(のち「火焔」と改題)。句集三冊。
芭蕉俳諧 ( 昭和24年4月10日 冨山房 )
紀行文集 無明一杖 ( 昭和63年7月5日 谷沢書房 )
俳諧襍稿 遊戯三昧 ( 平成4年4月10日 谷沢書房 )  ](「近代文献人名辞典β」)

 この「渋柿」離脱と「あら野」の創刊は、結果的には、昭和十三年(一九三八)に、上甲平谷が、新たに「俳諧芸術」を創刊して、内部分裂の結果、昭和十九年(一九四四)の用紙統制による雑誌統合などにより、「渋柿」へと吸収され、事実上姿を消して行くことになる。
 何故、このような主要同人の離脱と、新たなる俳誌「あら野」の創刊になったのかという、その要因の一つに、寅彦の言葉ですると、「連句の道の要諦は、銘々が自分の個性を主張すると同時に他者の個性を尊重し受容して御互に活かし合ひ響き合ふ處にある。此れは或意味での則天去私に外ならない、處が君はどうも自分の個性だけで一色にしてしまはうとするので困る」(「大正十五年(一九二六)二月十三日付け松根豊次郎宛書簡」)という、「東洋城の『自我の強さ』『狷介(自分の意志をまげず、人と和合しないこと)』『非妥協・潔癖・厳格・守節・守拙』等々の、その「東洋城個人主宰誌」的な「俳誌運営」からの脱却ということが挙げられるであろう。
 そして、そのことは、「あら野」の俳句理念の「平等無礙(むげ)なる方人悦楽の王土を現ずる」という、「平等無礙(むげ)・自由闊達」に、「俳諧道場」(「芭蕉を宗とし俳諧を道として立つ」=「渋柿・東洋城」の理念)ではなく、「俳諧悦楽」(芭蕉を宗とし俳諧を楽(楽しみ)として相互に共有する)ということからも、その一端が覗い知れる。
 それと同時に、この時に「渋柿」から離脱した主要同人達には、「渋柿」(東洋城主宰)が、謂わば、「本城」で、その一つの「出城」として、その裾野を拡げるような意味合いもあったことであろう。
 しかし、この「渋柿」からの離脱と「あら野」の創刊は、後の、昭和四十八年(一九七三)に刊行された『風狂俳人列伝』(石川桂郎著)によって、「東洋城スキャンダル」の一つとして、次のとおりに記述されることになる。

[ 過日、東洋城がY邸に泊まった折のこと、夫人が別室に床をのべていたときであろうか、暴力をもって東洋城が夫人を犯そうとした。それを知ったYが短刀をつきつけてその無礼をなじり謝罪させたという。Yは東洋城と絶交状態となっていたのだ。Yが新誌に走ると彼についていた多くの弟子もこれに従ってしまい、迎えた側にとってはこの上ない喜びとなった。](『風狂俳人列伝 (石川桂郎著) 』)

 この「Y」が、「小杉余(Y)子」であることは、当時の俳人達には容易に想像され得ることであったろう。しかし、この「Y」が、仮に「小杉余(Y)子」としても、余子は、東洋城の生存中の、昭和三十六年(一九六一)に亡くなっており、この『風狂俳人列伝』(石川桂郎著)は目にしていない。
 また、水原秋櫻子に俳句の手ほどきをしたという「南仙臥」も、昭和四十四年(一九六九)に他界し、東洋城と、明治三十八年(一九〇五)の「京大・三高俳句会」以来の仲間で、「渋柿」で共に「俳諧(連句)」の研鑽を積んだ同士でもあった「星野石木」も、昭和三十五年(一九六〇)も、東洋城在世中に亡くなっている。
 とすると、『風狂俳人列伝(石川桂郎著)』の著者(石川桂郎)に、「ある人から東洋城を書いてみないかと意外な資料を送られ、小説の主題、俗世間にザラにある事件だが、俳句の鬼のような彼に、これほどの女好きな、人間くさい面のあるのを知って、この列伝に加える気になった」という、この「意外の資料を送った人」とは、「上甲保一郎(上甲平谷)」ということになることは、当の「上甲平谷」も、そこまでは考えが及ばなかったのかも知れない。

風狂俳人列伝(石川桂郎著).jpg

『風狂俳人列伝(石川桂郎著)』(「中公文庫」)

 この『風狂俳人列伝(石川桂郎著)』(「中公文庫」)の帯文の「俳句に憑かれた人びと」の中に、著者(石川桂郎)がいう「俳句の鬼」のような「彼(松根東洋城)」を取り上げることは、著者(石川桂郎)の一つの眼識なのかも知れない。
 しかし、「これほどの女好きな、人間くさい面のある」のかという、この一方的な興味本位の見方というのは、「漱石・東洋城・寅彦(寅日子)・豊隆(蓬里雨)」の書簡などからすると、やや飛躍しているという見方も拭えない。
 確かに、東洋城の「母(敏子)・妹(房子)、姪(柳原白蓮=血縁関係ではない)」等々に対する「フェミニスト(女性に優しく接する男性)」であることは、その[東洋城全句集(上・中・下)]からして窺い知れるところである。
と同時に、その「子供好き」などを加味するすると、単に、「フェミニスト(女性に優しく接する男性)」というよりも、より「雲上人(クモショウニン・クモノウエノヒト)」(東洋城をよく知る「鈴木三重吉」の「東洋城」あだ名)のように、「普通人(フツウジン)」の「石川桂郎(「桂郎自身も酒食と放言を好む風狂の人」=「ウィキペディア」)」)にとっては、「風狂俳人」というよりも、同根の「風狂の鬼」の「忘れえざる俳人」の一人であったことであろう。


[寅彦(寅日子)・五十七歳。昭和九年(一九三四三)。
1月9日、日本学術振興委員を委嘱され第四部常置委員会委員となる。1月12日、帝国学士院で“On Physical Properties of Chinese Black Ink”(with R. Yamamoto and T. Watanabe)を発表。1月16日、地震研究所談話会で「東北地方の地形に就て」を発表。2月12日、帝国学士院で“On a Regularity in Topographical Features of North-East Japan”を発表。
2月20日、地震研究所談話会で「粉末堆層の破壊に関する実験」を発表。3月12日、帝国学士院で“On the Modes of Fracture of a Layer of Powder Mass”(with T. Watanabe)および“On the Physical Meaning of Periodic Structure in Earth’s Crust”を発表。4月17日、地震研究所談話会で「大陸で収縮する?」および「中国の地形」を発表。
5月12日、帝国学士院で“Revision of Precise Levelling along R. Tenryu from Simosuwa to Kakegawa, 1934”(with N. Miyabe)および“On the Stability of Continental Crust”を発表。5月24日、理化学研究所学術講演会で「墨汁の諸性質(第三報)」(山本・渡部と共著)および「割れ目と生命」を発表。
6月19日、地震研究所談話会で「日本海の深さ」を発表。7月3日、地震研究所談話会で「地殻変動と温泉」を発表。7月12日、帝国学士院で“Hot Springs and Deformation of Earth’s Crust”を発表。
10月24日、水産試験場の海洋学談話会で「日本海海底の変化」を講演。11月12日、帝国学士院で“Results of Revision of Precise Levelling in Tohoku Districts”(with N. Miyabe)を発表。11月15日、理化学研究所学術講演会で「墨汁の諸性質(第四報)」(山本・渡部と共著)および「二三の生理光学的現象」(山本・渡部と共著)を発表。11月20日、地震研究所談話会で「珊瑚礁に就て」を発表。12月12日、帝国学士院で“Vertical Movement of Earth’s Crust and Growth of Coral Reef”を発表。

「初冬の日記から」、『中央公論』、1月。
「猫の穴掘り」、『大阪朝日新聞』、1月、『東京朝日新聞』、1月。
「思出草」、『東炎』、1月。
「踊る線条」、『東京朝日新聞』、1月。
「徒然草の鑑賞」、『文学』、1月。
「雑記帖より」、『文体』、2月。
「本当の旅の味「ギリシャとスカンデイナヴィヤ」安倍能成氏の紀行記」、『帝国大学新聞』、
2月。
「ある探偵事件」、『大阪朝日新聞』、2月。
アンケート「ドイツ芸術の独白性について」、『カスタニエン』、2月。
「変つた話(四題)」、『経済往来』、3月。
「俳諧瑣談」、『俳句研究』、3月。
「学位に就て」、『改造』、4月。
「ジャーナリズム雑感」、『中央公論』、4月。
「科学に志す人へ」、『帝国大学新聞』、4月。
「『西洋拝見』を読んで」、『東京朝日新聞』、4月。
「函館の大火に就て」、『中央公論』、5月。
「マーカス・ショーとレビュー式教育」、『中央公論』、6月。
「庭の追憶」、『心境』、6月。
「映画雑記」、『キネマ旬報』、6月。
「“豆”と哲人——ピタゴラスの最期」、『東京日日新聞』、7月。
「御返事(石原純君へ)」、『立像』、7月。
「「山中常磐」の映画的手法」、『セルパン』、7月。
「夕凪と夕風」、『週刊朝日』、8月。
「鷹を貰い損なった話」、『行動』、8月。
「観点と距離」、『文芸春秋』、8月。
「喫煙四十年」、『中央公論』、8月。
「初旅」、『旅と伝説』、8月。
「雑記帖より」、『文学』、8月。
「ゴルフ随行記」、『専売協会誌』、8月。
「子規自筆の根岸地図」、『東炎』、8月。
「Rokugwatu no Hare」、『RS』、8月。
「星野温泉より」、『渋柿』、8月。
「藤棚の蔭から」、『中央公論』、9月。
「鳶と油揚」、『工業大学蔵前新聞』、9月。
「明治丗二年頃」、『俳句研究』、9月。
「映画雑感」、『文学界』、9月。
「地図を眺めて」、『東京朝日新聞』、9〜10月。
「疑問と空想」、『科学知識』、10月。
「映画雑感」、『映画評論』、10月。
「室戸の奇現象」、『土陽新聞』、10月。
「小泉八雲秘稿画本『妖魔詩話』」、『帝国大学新聞』、10月。
「破片」、『中央公論』、11月。
「天災と国防」、『経済往来』、11月。
「俳句の型式と其進化」、『俳句研究』、11月。
「青楓の果実蔬菜描写」、津田青楓『線描蔬菜花卉第二画集』、11月。
アンケート「ほんとほん」、『帝国大学新聞』、11月。
『触媒』、岩波書店、12月。
「家鴨と猿」、『文学』、12月。
「鴫突き」、『野鳥』、12月。
「追憶の冬夜」、『短歌研究』、12月。   ]

蝉鳴くや松の梢に千曲川(「八月十五日小宮豊隆氏宛絵葉書」の中より)
嶺すでに麓へぼかす紅葉哉(「十月一日松根豊次郎氏宛絵葉書」の中より)

※この「八月十五日小宮豊隆氏宛絵葉書」は、「長野県北佐久郡沓掛星野温泉旅館」よりのもので、例年、寺田寅彦家族は、避暑でこの星野温泉旅館などを利用していたことが、[寺田寅彦全集文学篇第十七巻(「書簡集三)」などから分かる。
 寅彦が亡くなる昭和十年(一九三五)の八月・九月の小宮豊隆氏宛の書簡などから、「寅彦家・豊隆家・安倍能成家・野上豊一郎家・東洋城(独身)」が、家族ぐるみの交遊関係にあったことが覗える  

[ 八月二十日 火 長野県北佐久郡軽井沢千ケ瀧グリーンホテルより仙台市北二番丁六八小宮豊隆氏へ(葉書、「寺田正二・寺田弥生・寺田雪子」・「安倍能成・安倍道子・安倍浩二・安倍亮・安倍恭子」の寄書き)
(赤鉛筆にて)
 千ケ瀧グリーンホテルの露台より            寅彦
 今朝軽井沢から来襲寅彦先生の実行力なきを憐れんで居る 成(※能成)
(黒インキにて) 「寄書き(省略)」

 八月二十一日 水 長野県北佐久郡軽井沢千ケ瀧グリーンホテルより長野県北軽井沢法政大学村増田山荘、安倍能成・同夫人・同令息・同令嬢諸氏へ(絵葉書、松根豊次郎・寺田正二・寺田弥生・寺田雪子署名の寄書き)
 昨日は失礼、今日は東洋城来襲、午後例のべランダでシューベルトのリンデンバウムを歌って聴かせました。御一同に聴かせなかつたのは恨事であります。

※ 八月二十日に、「軽井沢千ケ瀧グリーンホテル」に滞在中の「寅彦一家」の所に、北軽井沢法政大学村増田山荘」の「能成一家」がやって来て、ここで、寅彦は正二(次男)のピアノ伴奏で、シューベルトの「リンデンバウム(菩提樹)」を御披露する予定であったが、その日は「千ケ瀧グリーンホテル」の茶和会にぶつかっていて、その御披露は実現しなかった。翌日(八月二十一日)、東洋城が突然やって来て、昨日、叶わなかった、寅彦の「リンデンバウム(菩提樹)」の独唱を聴かせたというものである。

九月一日 日 長野県北軽井沢法政大学村より仙台市北二番丁六八小宮豊隆氏へ(絵葉書、松根豊次郎・野上豊一郎・野上八重子・寺田正二・寺田弥生・寺田雪子との寄書き)
(表に)
 雨のふる中を北軽井沢へ遊びに来て、松根君に案内して貰つて、野上荘を驚かし、唯今クラブで少憩中であります。 寅彦
 昨日東京から同車、連句をやり乍ら軽井沢で別れてこヽへ。今日雨襲来各知人を驚かす。城(※東洋城)
 寺田先生や東洋城師がお嬢さんやお坊ちやんと御いつしよに入らつしやいました。あなたのお噂をみんなでいたしております。弥生子(※野上弥生子)
 生れてはじめて彌生子さんのお顔を見ました。長谷川君にどうぞよろしく。正二、弥生・雪子(※「長谷川君」は「正二」の学友で、豊隆の東北帝大に職を得ている。)
(裏に) 
 君も厄介な仕事を引受けさせられて大変だね来年は此山へ又おみこしを上げないか 豊一郎(※野上豊一郎・野上臼川)   ]

法政大学村.jpg

「長野県北軽井沢法政大学村」(北軽井沢「法政大学村」~その1~)
https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/daigaku_shi/museum/2011/110720/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54
「法政大学村の第1期、第2期分譲地方面(『大学村七十年誌』より転載)。山荘はすべて、法政大学の校舎も手がけた蒲原重雄司法省技師が設計した。10坪から15坪前後の山荘は、1戸1戸外観・間取りが異なり、幾何学模様を多用したセセッション様式を取り入れた、素朴でエキゾチックな雰囲気だった。開村時は電気も水道もない生活だったが、都会からやってきた村民は、かえって原始的な暮らしを珍しがり楽しんだという。」

※ この「北軽井沢法政大学村」の産みの親は、当時の法政大学の「予科長・学監」の「野上豊一郎」教授(昭和八年=一九三三に「法政騒動」により休職・免職になるが、昭和十六年=一九四一に復職、後に、総長などを歴任する)であるが、上記の、「東洋城・寅彦とその家族」が、「北軽井沢法政大学村」の「野上豊一郎(臼川)・弥生子」山荘を訪れた頃は、いわゆる、「法政騒動」「1933 - 1934年(昭和8 - 9年)に法政大学で発生した学校騒動」)の余燼の中にあり、それぞれが、それぞれに激動の中にあった。

法政騒動.jpg

「法政騒動」「1933 - 1934年(昭和8 - 9年)に法政大学で発生した学校騒動」)に関する「朝日新聞」の記事(「ウィキペディア」)

 この「法政騒動」については、下記のアドレスの、「昭和八、九年の「法政騒動(宮永孝稿)」(「法制大学学術機関リポジトリ」)が、その全容を伝えている。

file:///C:/Users/user/Downloads/59-4miyanaga2.pdf

 この「法政騒動」は、上記の「朝日新聞」の記事にあるとおり、「漱石門」の「野上豊一郎」(学監兼予科長)を、「漱石門」の「森田草平」(教授、豊一郎が招聘した)が「関口存男(後に公職追放)らの右派の革新教授」に担ぎ上げられて、恰も、漱石門の「野上豊一郎(臼川)と森田草平」との確執によるものという、それが、クローズアップされての報道に力点が置かれたという一面も有している。
 この「野上豊一郎」(学監兼予科長)解任要求の、その「反野上派は四つのスローガン」は次のようなものであった。(「ウィキペディア」)

一 学長問題(他の有力な人物を学長に推すべきだとの声が一部にあった)
二 隣接地購入問題(大学の隣の旧陸軍用地を購入できないのはなぜか)
三 財政問題(松室致前学長が残した巨額の負債をどうするのか)
四 人事行政問題(法政大学出身者をもっと教員に採用せよとの動きもあった)

 この「人事行政問題(法政大学出身者をもっと教員に採用せよとの動きもあった)」は、これは、そっくり、同時期(「1933 – 1934・5年(昭和8 – 9・10年)))に勃発した、東洋城の主宰する俳誌「渋柿」における、「主要同人の『渋柿』脱退と新俳誌『あら野』の創刊」の背後に蠢いていた、その「『渋柿』出身者をもつと重視すると同時に、その主要同人の他者(社・派)との自由交流を認めよ」という、そういう面で、「野上豊一郎((臼川))」の「法政騒動」と、「松根東洋城」の「主要同人の『渋柿』脱退と新俳誌『あら野』の創刊」というのは、これは飛躍した見方も知れないが、こと、上記の、「寅彦」書簡の、「寅彦(一家)・東洋城・安倍能成(一家)・野上一家」(「臼川と弥生子」一家)・豊隆一家(仙台在住))などからすると、そういうことは、やはり、付記して置くべきものと思われる。

[豊隆(蓬里雨)・五十一歳。二月『巴理滞在記』『黄金虫』出版。]

木菟(ミミヅク)を雀の笑ふ麗らかかな(昭和九年「渋柿・五月号」)
草木国土花咲く春も暮れにけり(昭和九年「渋柿・七月号」)
瓜もみをいつ喰ひ初めて河童哉(昭和九年「渋柿・八月号」)
広々と道一筋や冬の霧 (昭和九年)

 小宮豊隆の俳句については、昭和四十七年(一九七二)刊行の『蓬里雨句集』(私家版)がある。そのうちの「昭和九年作」の四句である。

黄金虫.jpg

木下杢太郎装丁、多色刷木版画、 小宮豊隆『黄金虫』(小山書店、 昭和9年)

蓬里雨筆.jpg

小宮豊隆『黄金虫』(小山書店、 昭和9年)の「献呈本」に書かれた「蓬里雨筆の一句/広々と道一筋や冬の霧(蓬里雨)」

 この『黄金虫』は、寺田寅彦の『柿の種』(昭和八年初版・小山書店)の姉妹本で、寅彦の『柿の種』が、東洋城の「渋柿」の巻頭言(「無題」・「曙町より」)をまとめたものとすると、その豊隆の「渋柿」の巻頭言(「仙台より」をまとめたもので、その「序」で、「寅彦の「柿の種」は富有柿だが、自分(小宮)のは貧寒瘦地の渋柿」と記している。(この『黄金虫』は、ドイツ留学時の記述が主となっている。)

(付記)

[短章 その一

棄てた一粒の柿の種
生えるも生えぬも
甘いも渋いも
畑の土のよしあし   ] (『柿の種(寺田寅彦著)』)


『巴里滞在記』については、下記アドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1235730/1/7


(補記)

俳諧瑣談(寺田寅彦)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card1690.html

子規自筆の根岸地図(寺田寅彦)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card24419.html

明治三十二年頃(寺田寅彦)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card24397.html

俳句の型式とその進化(寺田寅彦)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2512.html
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