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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十九) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十九「昭和十年(一九三五)」

[東洋城・五十八歳。「満二十年記念号」刊。湘南大会挙行。伊予鹿島に句碑建つ。十二月三十一日、寺田寅彦没。]

松山市北条鹿島にある石碑(東洋城句碑).jpg

「松山市北条鹿島にある石碑(東洋城句碑)」(「伊達博(伊達博物館)通信」)
「鹿に聞け /潮の秋する/ そのことは/東洋城」 
http://datehaku.blogspot.com/2011/12/blog-post_29.html

東洋城句碑・下書き.jpg


「松山市北条鹿島にある石碑(東洋城句碑)下書き(石の曲がりに合わせてつぎはぎをしている下書き/非常に珍しい物である)」(「伊達博(伊達博物館)通信」)
「鹿に聞け /潮の秋する/ そのことは/東洋城」 
http://datehaku.blogspot.com/2011/12/blog-post_29.html

涼しさや山の墓また海の墓(前書「伊予鹿嶋に吾が句碑建つ。野州塩原のと東西二碑なり」)
風薫れ島神へさてともがらに(前書「鹿島の句碑除幕式に祝電」)

※ 「野州塩原の碑」は、下記のアドレスの「松根東洋城両面碑(塩原温泉・四季郷)」であろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-26

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-17

(再掲)

〇松根東洋城両面碑 塩湧橋先
【碑文】
 「さまみえて土になりゐる落葉哉」表
 「すずしさやこの山水に出湯とは」裏 (塩原四季郷より)
http://hotyu.starfree.jp/historicalspots/bungakuhi/bungakuhi.html

 「病寅日子君を慰む 五句」
秋雨や人の病にわが病(前書「君は腰を余は風邪を」)
足腰に三つの湯婆(トウバ)や冬を待つ(※「湯婆(タンポ)」=「湯タンポ」)
仰(「アオ(ムケ)」)に寝て秋の空見る遥かかな
まがつみの背骨にからむ寒さかな(※「まが」=「禍」=「禍罪」=災難)
時雨(シグ)るゝ夜(ヨ)歌仙の夢もありぬべし

 「『寺田寅彦追悼号』より 三句」(昭和十一年)
山茶花の白きに凍る涙かな
山茶花の久の曇りや今日よりは
枯菊や心の富を痩せたまひ

[寅彦(寅日子)・五十八歳。昭和十年(一九三五)。十二月三十一日没。
2月19日、地震研究所談話会で「水準線路の昇降と温泉の分布」(宮部と共著)を発表。3月12日、帝国学士院で“Hot Springs and Deformation of Earth’s Crust. PartⅡ”(with N. Miyabe)を発表。4月16日、地震研究所談話会で「コロイドと地震学(第一報)」を発表。5月23日、理化学研究所学術講演会で「割れ目と生命(第二報)」(渡部との共著)および「墨汁の諸性質(第五報)」(山本・渡部と共著)を発表。
6月12日、帝国学士院で“Cataphoresis of Chinese Ink in Water Containing Deuterium Oxide”(with R. Yamamoto)および“Relation between Topography and Vertical Displacement of Earth’s Crust”(with N. Miyabe)を発表。7月4日、『文学』の座談会(「日本文学に於ける和歌俳句の不滅性」)に出席。9月17日、地震研究所談話会で「浅間火山爆発実見記」を発表。10月1日、従三位に叙せられる。
11月19日、理化学研究所学術講演で「墨汁の諸性質(第六報)」(山本・渡部と共著)を発表。11月、島薗博士の診察を受ける。疼痛は身体各所に現われるようになる。12月3日、日本学術振興会第四特別委員会委員を委嘱される。12月17日、地震研究所談話会で「宮古—青森間地殻の垂直変動」(宮部と共著)を発表。
12月31日、病勢次第に募り、午後零時28分死去。病は転移性骨腫瘍。

「夢判断」、『文芸春秋』、1月。
「新春偶語」、『都新聞』、1月。
「新年雑俎」、『一橋新聞』、1月。
「追憶の医師達」、『実験治療』、1月。
「西鶴と科学」、『日本文学講座』、改造社、1月。
「自由画稿」、『中央公論』、1〜5月。
「Hakari no Hari」、『RS』、1月。
「相撲」、『時事新報』、1月。
「蛆の効用」、『自由画稿』、2月。
「颱風雑俎」、『思想』、2月。
「詩と官能」、『渋柿』、2月。
「鴉と唱歌」、『野鳥』、2月。
「映画雑感」、『セルパン』、2月。
「人間で描いた花模様」、『高知新聞』、2月。
「一般人の間へ」、普及講座『防災科学』、岩波書店、3月。
「最近の映画に就て——俳諧的な情味などを」、『帝国大学新聞』、4月。
「映画雑感」、『渋柿』、4月。
アンケート「古事記全歌謡の註釈と鑑賞」、『文学』、4月。
「土井八枝『土佐の方言』序文」、春陽堂、5月。
「物売りの声」、『文学』、5月。
「伯林大学(1909‐1910)」、『輻射』、5月。
「五月の唯物観(A)——ホルモン分泌の周期」、『大阪朝日新聞』、5月。
「五月の唯物観(B)——ホルモン分泌の数式」」、『大阪朝日新聞』、5月。
「清少納言の健康——五月の唯物観(C)」、『大阪朝日新聞』、5月。
「映画雑感」、『映画評論』、5月。
「箱根熱海バス紀行」、『短歌研究』、6月。
「随筆難」、『経済往来』、6月。
「映画雑感」、『渋柿』、6月。
「『漱石襍記』——豊隆の新著について」、『帝国大学新聞』、6月。
「Neko sanbiki」、『RS』、6月。
「『万華鏡』再刊添え書」、岩波書店、6月。
「『物質と言葉』再刊添え書」、岩波書店、6月。
『蛍光板』、岩波書店、7月。
「B教授の死」、『文学』、7月。
「災難雑考」、『中央公論』、7月。
「僕流の見方」、『映画と演芸』、7月。
「海水浴」、『文芸春秋』、8月。
「糸車」、『文学』、8月。
「映画と生理」、『セルパン』、8月。
「映画雑感」、『渋柿』、8月。
「静岡地震被害見学記」、『婦人之友』、9月。
「高原」、『家庭』、9月。
「小浅間」、『東京朝日新聞』、9月。
アンケート「ローマ字綴方に関する諸家の意見」、『言語問題』、9月。
「映画雑感」、『渋柿』、10月。
「雨の上高地」、『登山とスキー』、10月。
「日本人の自然観」、岩波講座『東洋思潮』、10月。
「俳句の精神」、『俳句作法講座』、改造社、10月。
「小爆発二件」、『文学』、11月。
「三斜晶系」、『中央公論』、11月。
「埋もれた漱石伝記資料」、『思想』、11月 ]

なつかしや末生(ウラナリ)以前の青嵐(「渋柿七月」)

 「手帳の中より、十年八月一日グリーンホテル三句」
鶯や夏を浅間のから松に(八月一日松根豊次郎氏絵葉書「軽井沢より」)
白樺の窓松の窓風薫る(「同前」)
萱草(カンゾウ)や浅間をかくすちぎれ雲(※「寅彦」の絶句とも?)

※ この「八月一日松根豊次郎氏絵葉書『軽井沢より』」の全文は次のとおり。

[八月一日 木 長野県北佐久郡軽井沢千ケ瀧グリーンホテルより品川区上大崎一ノ四七〇松根豊次郎氏へ(絵葉書 署名の「寅」に輪を施しあり)
 今夜はグリーンホテルへ泊つて原稿を書いてゐる。午後は星野へ下りてそれから子供等と附近や軽井沢を歩いてゐる。今年は天気に恵まれて高原の涼気を満喫することが出来て仕合せです。星野にゐると人の出入りがしげくて仕事は出来ないが此処は実に閑寂で先般来の神経の疲れも十二分に休める事が出来さうです。
  白樺の窓松の窓風薫る
  鶯や夏を浅間のから松に    寅  ]


[豊隆(蓬里雨)・五十二歳。昭和十年(一九三五)。一月『能と歌舞伎』出版。五月『漱石襍記』出版。七月合著『西鶴俳諧研究』出版。十二月寺田寅彦が死んだ。]

思想・ 寺田寅彦追悼號.jpg

『思想 特輯 寺田寅彦追悼號』(特集 寺田寅彦追悼号) 岩波書店 昭和11年(1936年) 3月号初版(表紙)

思想・ 寺田寅彦追悼號・目次.jpg

『同上』(目次)

※ 上記の「目次」を見ると、「安倍能成(寺田さん)・石原純(寺田物理学の特質)・松根東洋城(寺田君と俳諧)/藤原咲平(寺田先生を悼む)・宇田道隆(海の物理学の父寺田寅彦先生の思ひ出)・中谷宇吉郎(指導者としての先生の半面)・田内森三郎(水産物理学の開祖としての先生)・小幡重一(音と言語に向けられた先生の注意)・矢島祐利(「ルクレチウス」以後の寺田先生)・田中信(航空研究所の最近の実験室)・玉野光男(渦をめぐる寺田先生の思出)・宮沢直巳(寺田先生の「地殻変動の研究」)」が、その名を連ねている。
 ここに、当然に名を連ねるべき「小宮豊隆(蓬里雨)」の名がない。これらに関して、上記の追悼文の中で、「中谷宇吉郎(指導者としての先生の半面)」は、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/53224_49846.html

[「「指導者としての寺田先生(中谷宇吉郎)」(抜粋)
 先生の臨終の席に御別(おわかれして、激しい心の動揺に圧(おさ)れながらも、私はやむをえぬ事情のために、その晩の夜行で帰家の途に就いた。同じ汽車で小宮(こみや)さんも仙台へ帰られたので、途中色々先生の追想を御伺いする機会を与えられた。三十年の心の友を失われた小宮さんは、ひどく力を落された御(ご)様子でボツリボツリと思い出を語られた。常磐線(じょうばんせん)の暗い車窓を眺めながら、静かに語り出される御話を伺っている中(うち)に、段々切迫した気持がほぐれて来て、今にも涙が零(こぼれ)そうになって困った。小宮さんが先生の危篤の報に急いで上京される途次、仙台のK教授に御(お)会いになったら、その由を聞かれて大変愕(おどろ)かれて、「本当に惜しい人だ、専門の学界でも勿論(もちろん)大損失だろうが、特に若い連中が張合いを失って力を落すことだろう」といわれたという話が出た。その話を聞いたら急に心の張りが失せて、今まで我慢していた涙が出て来て仕様がなかった。(以下略) ) ]

 ここに出て来る、「三十年の心の友を失われた小宮さんは、ひどく力を落された御(ご)様子でボツリボツリと思い出を語られた」の、この「小宮さん」こと、これが、当時の「小宮豊隆(蓬里雨)」の実像で、その知己(「岩波茂雄・和辻哲郎・阿部次郎」など)の携わっていた、その「思想」の、その「追悼号」に、一文を遺さず、その「三十年の心の友」の「寺田寅彦(寅日子)」への追悼句は、何と、亡くなる最晩年(東洋城が没する昭和三十九年=一九六四)に近い、「昭和三十七年十一月二十五日 寺田寅彦忌 二句」(七十九歳)として、その『蓬里雨句集』に収録されている。

柿一つ残る梢に時雨かな(前書「寺田寅彦忌/十月二十五日/二句」)
もごもごと苺を喰ひし君が口(同上)

(追記その一) 「破門」(『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』所収)周辺

破門.jpg

「破門」(『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1127319/1/147

 太平洋戦争が勃発した翌年の昭和十七年(一九四三)に、小宮豊隆は、『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』を刊行する。これは、豊隆の「漱石・寅彦・(鈴木)三重吉・(芥川)龍之介」に関する回想録ともいうべきもので、その内容(目次)は、次のとおりである。

[目次

漱石と戀愛/1
漱石二題/15
漱石と讀書/32
漱石と畫/39
漱石と烟草/49
決定版『漱石全集』/56
僞物/60
靈夢/72
「かな」と「がね」と/78
ラヂオの『坊ちやん』/89
『坊ちやん』とそのモデル/93
『三四郎』の材料/103
『行人』の材料/112
『明暗』の材料/129
漱石二十三囘忌/144
休息している漱石/152
日記の中から/184
修善寺日記/203
雪鳥君の『修善寺日記』/248
『腕白時代の夏目君』はしがき/256

『藪柑子集』の後に/261 → 大正十二年一月二十六日  
『冬彦集』後語/264   → 大正十一年十二月二十日 
『萬華鏡』/267     → 昭和四年八月六日
『觸媒』/270      → 昭和九年十二月二十五日
『寅彦全集』/275    → 昭和十二年九月
「破門」/278      → 昭和十一年一月二十三日
『橡の實』のはじめに/286 → 昭和十一年二月二十一日
『囘想の寺田寅彦』序/297 → 昭和十二年八月一日

三重吉の思ひ出/307
鈴木三重吉/312
三重吉のこと/324
『三重吉童話全集』序/339

芥川龍之介の死/345
一插話/358          ]『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 『思想 特輯 寺田寅彦追悼號』(特集 寺田寅彦追悼号) 岩波書店 昭和11年(1936年) 3月号の、「松根東洋城(寺田君と俳諧)」の追悼文中の、「『小宮の所謂破門』的爆弾(「渋柿」寅彦追悼号所載)の、その全文は、上記目次の[「破門」/278→ 昭和十一年一月二十三日]で収載されている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-30

[豊隆(蓬里雨)・昭和七年(一九三二)、三十三歳。]

 『漱石 寅彦 三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』(昭和十七年初版)の中に、「破門」(昭和十一年一月二十三日「渋柿(寺田寅彦追悼号)」初出)という、豊隆が寅彦より「もう君とは俳諧をやらない」と、「東洋城・寅彦・蓬里雨」の三吟俳諧(連句)の座から「破門」されたという内容のものがある。

[(前略)

―― 或時、たしか京橋の竹葉で三人(※「東洋城・寅彦・蓬里雨」)一緒に飯を喰つてゐた時だった。寺田さんは急に眞顔になつて、私に、もう君とは一緒に俳諧をやらないと言ひ出した。―― 君のやうに不熱心ではしやうがない。僕はうちの者の機嫌をとつて、うちで会をしてゐる。それなのに君は一向真面目に句を作らない。雑談計りしてゐる。それでなければ昼寝をする。君のやうな不誠実な人間は破門する。――

(中略)

―― 是が寺田さんと私との長いつき合ひの間に、寺田さんから叱られた唯一の思ひ出である。寺田さんと話をしてゐると、時々横つ面を張り飛ばされるやうに感じる事がある。然しそれは、大抵こつちが何等の点で、馬鹿になつてゐる時、いい気にゐる時である。その際寺田さんの方では、別にこつちの横つ面を張り飛ばさうと意図してゐる訳ではなく、寺田さんから言へば、ただ当り前の事を言つてゐるのが、此方では横つ面を張り飛ばされて感じるのである。然し是はさうではない。寺田さんはほんとに叱る積りで叱つたのである。然もよくよく考へて見ると、寺田さんの叱つたのは、私の俳諧のみではなかつた。私の仕事、私の学問、私の生活。

―― いつまでたつても「後見人」を必要とするやうな私の一切を、寺田さんは是で叱つたのだといふ気が、段段して来る事を、私は禁じ得ない。これは或は私の感傷主義であつたとしても、少くとも寺田さんの俳諧に対する打ち込み方、学問に対する打ち込み方、生活に対する打ち込み方、――人生の凡てののもを受けとる受けとり方を、最も鮮やかに代表してゐるものであつたとは、言ふ事が出来るのである。 ](『漱石 寅彦 三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)p278-285』 )

 この[「東洋城・寅彦・蓬里雨」の三吟俳諧(連句)の座から「蓬里雨破門」]関連については、『寺田君と俳諧』(『東洋城全句集(下巻)』所収)で、東洋城は、次のとおり記述している。

[ 始め連句は小宮君が仙台から上京するを機会とし三人の会で作つてゐた、それで一年に二度来るか三度来るかといふ小宮君を待つてのことだから一巻が中々進行しない。其上小宮君の遅吟乃至不勉強が愈々進行を阻害する。一年経つも一巻も上がらぬ、両人で癇癪を起し、仕舞には小宮君が上京しても三人会は唯飯を食ふ雑談の会として連句のことは一切持出さないことにしてしまつた。そこで余との両吟に自ら力が入つて来、屡(シバシバ)二人会合するやうになつた。昭和四年・五年は少なく、両吟・三吟各一連に過ぎなかったが、六年に至っては俄然増加して、両吟七、三吟一歌仙を巻きあげた。](『東洋城全句集(下巻))』所収「寺田君と俳諧」)  ]


(追記その二) 『思想 特輯 寺田寅彦追悼號』(特集 寺田寅彦追悼号) 岩波書店 昭和11年(1936年) 3月号の、「松根東洋城(寺田君と俳諧)」周辺

[(オ)
蝸牛やその紫陽花を樹々の底      東洋城
 むつと湿りの暑い土の香      寅日子
表戸を下ろした後の潜りにて       城
 暈(カサ)着た月の晴れて行く空   蓬里雨  月
張り切つて纜(トモヅナ)ゆるゝ望の潮   子
 一つの鯔(イナ)の三段に飛ぶ      城
(ウ)
ものゝふの戈(ホコ)を横へ詠(ヨ)へる哉  城
 流沙(ルサ)の果に紺碧(コンペキ)の山  子
群鴉(カラス)人里やがて見え初(ソ)めて  子
 土橋の札(フダ)の勧化(カンゲ)断り   城
足音に濁り立(タ)てたる河の魚      子
 袖肌寒う二人寄り添ふ         城  恋
中門の忍び草の月の影          子  恋 月
(昭和十年五月十七~八月三十日 軽井沢への車中)    ]

※ 『思想 特輯 寺田寅彦追悼號』(特集 寺田寅彦追悼号)所収「松根東洋城(寺田君と俳諧)」の末尾に「作りかけの歌仙一つ。―――」として、上記の未完の「歌仙」(昭和十年五月十七~八月三十日 軽井沢への車中) が掲載されている。それに続いて、次の寅彦の「東洋城宛書簡」と東洋城のメモが記されている。

[ 十三日は学術振興会のある事を忘れてゐて、朝思出し電話をかけた。悪しからず。信州から帰つてから足を痛め、びつこ引いて歩いてゐたら、その為か腹の筋が引きつつて起居が不自由で、その上胃の具合まで狂つて弱つてゐるが寝込む程でもないので、よぼよぼしながら出勤してゐる。少しヒカンした。からだが不自由だと癇シヤクが起つて困る。
  中門の忍び車の月の影
   読めば昔は美しの恋
 では如何哉
 今週金曜は多分大丈夫のつもりです。
  九月十六日(※昭和十年)
      本郷曙町   寺田寅彦
 今朝映画雑感を送りました  
―――(最後の書簡)
 「付句秋季でなくちやいけないぢやないか」と言ひかけて口をつぐむ。(※「東洋城」のメモ書きで、「『秋の月』の付句は『秋季』の句がルールと、何時ものクセが口を突いたが、またまた、寅日子に癇シャクをくらってはと、口をつぐんだ」というよう意であろう)   ](「昭和十一年三月、思想第一六六号」)

※ この末尾の「作りかけの歌仙一つ。―――」の前に、寅彦が亡くなる前後のことについて、東洋城は、次のように記述している。

[ 余(※東洋城)は親しく病歴に持した。その病漸く重きに至つて苦悩をまさしく見、その末期の水を与へ、最後の一息を見極め、その棺に釘打つ際の面への訣別をなし、葬儀万端に列し、野辺の送りをなし、その焼け尽くした熱灰に対し、その白骨を拾ひ、壺に納めて携へて帰つた。彼の肉体の遂にまざまざと滅亡に帰したこと、これより明々歴々なことはない。余が眼疑ふことは出来ず、余が心誤るにはあまりに明らかだ。既に十日祭を過ぎ、二十日祭を過ぎた或夕、用を以て新宿に来、用を了つてふと思ひ立ち、ありし昔をなつかしくモナミの地下へもぐつた。八月九日(※東洋城と寅日子の最後の「モナミ」での両吟の日)以来だから、丁度五月(※五ケ月)を経てゐる。(中略)
 そこに、余には一つの奇跡が起つた。自分の前の空席に寺田君がゐる。正に居る、勿論形は無い。その姿はないが温容が迫る、その声はないが話が聞こえる。明に空席であるが、寺田君が居る。(中略)
 此時以来、余には寺田君は死んでゐないことになった。(中略)
 さうして余は今後、金曜日には君の霊と一しよに連句を作るべく、時々モナミの夕を一人で過ごさうと心にきめた。ふと一句口を衝いて出たが、急にシャンデリアの明るさを強く感じた。

  君が席のけふは留守なる冬夜哉       ](『東洋城全句集(下巻))』所収「寺田君と俳諧」)

[ 寺田寅彦は昭和十年十二月三十一日、東京市本郷曙町二十四番地の自邸で、五十七歳二カ月の生涯を終えた。病名は転移性骨腫瘍であった。剖検記録はない。
 告別式は、昭和十一年一月六日、谷中斎場で行われた。寺田家のしきたり通り神式であった。葬儀委員長は理化学研究所所長、子爵大河内正敏が務めた。夏目漱石の『三四郎』に描かれているように青年時代の大河内と寅彦は、穴蔵のような理科大学の地下室でともに研究生活を送っている。弔辞は東京大学総長長与又郎、同地震研究所所長石本巳四雄、友人総代安倍能成、門弟代表藤原平が読んだ。
 小林勇氏は『回想の寺田寅彦』の「告別式」で「これらの弔辞が寂としたあたりの中へ響いて行く時人々は咳一つせず沈黙の底に沈んでゐたが、安倍教授の弔辞が進むに従って、会葬者の席からあちらこちらにすすり泣きの声が聞え始めた」と記している。 ](『寺田寅彦覚書(山田一郎著・岩波書店)』)


(追記その三) 「俳句の精神」(初出「俳句作法講座(改造社)」1935(昭和10)年10月)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2513.html

一 俳句の成立と必然性
二 俳句の精神とその修得の反応(抜粋)

[ 風流とかさびとかいう言葉が通例消極的な遁世的《とんせいてき》な意味にのみ解釈され、使用されて来た。これには歴史的にそうなるべき理由があった。すなわち仏教伝来以後今日まで日本国民の間に浸潤した無常観が自然の勢いで俳句の中にも浸透したからである。
しかし自分の見るところでは、これは偶然のことであって決して俳句の精神と本質的に連関しているものとは思われない。仏教的な無常観から解放された現代人にとっては、積極的な「風流」、能動的な「さび」はいくらでも可能であると思われる。
日常劇務に忙殺される社会人が、週末の休暇にすべてを忘却して高山に登る心の自由は風流である。営利に急なる財界の闘士が、早朝忘我の一時間を菊の手入れに費やすは一種の「さび」でないとは言われない。日常生活の拘束からわれわれの心を自由の境地に解放して、その間にともすれば望ましき内省の余裕を享楽するのが風流であり、飽くところを知らぬ欲望を節制して足るを知り分に安んずることを教える自己批判がさびの真髄ではあるまいか。 ]
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