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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十七) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十七「昭和八年(一九三三)」

[東洋城・五十六歳。足利にて俳句大会。奈良、京都に遊ぶ。母の遺骨を宇和島に埋葬。「渋柿句集」春夏秋冬四巻・宝文館刊。]

松根東洋城・大洲旧居.jpg

「松根東洋城・大洲旧居」(大洲城二の丸金櫓跡に「俳人松根東洋城 大洲旧居」があった。)
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大洲城本丸.jpg

「大洲城本丸」
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[ 東洋城は本名を松根豊次郎といい、明治11年(1878年)2月25日、東京の築地に松根権六(宇和島藩城代家老松根図書の長男)を父に、敏子(宇和島藩主伊達宗城の次女)を母に長男として生まれた。
 明治23年(1890年)10月父権六が、大洲区裁判所判事として、大洲に赴任するに伴って東洋城も大洲尋常高等小学校に転校して来た。当時、この屋敷が裁判官判事の宿舎で、明治31年(1898年)10月、権六が退官するまで、約8年間、松根家の人々はここに居住した。
 東洋城は明治25年、大洲尋常小学校を卒業すると、松山の愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)に入学した。
 4年生の時、夏目漱石が英語教師として赴任し、ふたりの運命的出会いが、その後の東洋城の生き方に大きな影響を及ぼすことになった。
 俳人東洋城は俳誌『渋柿』を創刊(大正8年)、多くの同人を指導し、大洲にもしばしば訪れた。昭和8年(1933年)この「大洲旧居」にも立ち寄り「幼時を母を憶ふ」と次の句を詠んでいる。

淋しさや昔の家の古き春      東洋城
 また大洲の東洋城の句碑には、如法寺河原に
芋鍋の煮ゆるや秋の音しずか   東洋城
 がある。大洲史談会により平成5年(1993年)建立された。

 東洋城は戦後、虚子と共に芸術院会員となり昭和39年(1964年)10月28日東京で87歳で死去した。墓は宇和島市金剛山大隆寺にある。
 なお、ここの家屋(平屋建)は、明治2年(1869年)4月、大洲城二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代末期の武家屋敷の遺構が一部のこされている。]

 「亡母と西下 六十二句」中の十句

淋しさや昔の家の古き春(前書「大洲旧居(幼時を母を憶ふ)」)
柴門は三歩の春の蒲公英かな(前書「大洲にて」)
山(サ)ン川(セン)の何も明ろき木の芽かな(前書「庵主の吟『荘にして何か明るき時雨かな』に和す」)
如法寺を寝法師と呼ぶ霞かな
朧とや昔舟橋あのほとり
春愁や夜の蒲公英をまぼろしに(前書「大洲を出で立つとて」)
蓋とりて椀の蕨に別れかな(前書「大洲甲南庵留別」)
神代こゝに神南山(カンナンザン)の霰かな(前書「若宮平野にて」)
伊予富士の丸きあたまや春の雨(前書「今出の浜四句」のうち)
海を見てゐてうしろ田や春の雨(前書「今出の浜四句」のうち)

松根東洋城句碑(大隆寺)」.jpg

「松根東洋城句碑(宇和島市宇和津町・大隆寺)」
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[黛を濃うせよ/草は芳しき/東洋城(句意=黛は眉のこと。若草がいっせいに萌えだして芳しい春の天地の中、あなたの眉墨をも濃くおひきなさい。若草さながら芳しく。)/平成13年(2001年)2月25日、松根敦子建立。]


[寅彦(寅日子)・五十六歳。昭和八年(一九三三)。
1月12日、帝国学士院で“Distribution of Terrestrial Magnetic Elements and the Structure of Earth’s Crust in Japan”および“Kitakami River Plain and Its Geophysical Significance”を発表。1月17日、地震研究所談話会で「四国に於ける山崩の方向性」および「日本のゼオイドに就て」を発表。4月11日、航空評議会臨時評議員になる。4月12日、帝国学士院で“Result of the Precise Levelling along the Pacific Coast from Koti to Kagosima, 1932”を発表。5月16日、地震研究所談話会で「統計に因る地震予知の不確定度」を発表。5月25日、理化学研究所学術講演会で「墨汁皮膜の硬化に及ぼす電解質の影響」(内ヶ崎と共著)、「墨汁粒子の毛管電気現象」(山本と共著)および「藤の実の射出される物理的機構」(平田・内ヶ崎と共著)を発表。6月12日、帝国学士院で“On a Measure of Uncertainty Regarding the Prediction of Earthquake Based on Statistics”を発表。10月12日、帝国学士院で“Luminous Phenomena Accompanying Destructive Sea-Waves”を発表。11月17日、理化学研究所学術講演会で「墨汁粒子の電気的諸性質(続報)」(山本・渡部と共著)を発表。11月21日、地震研究所談話会で「相模湾底の変化に就て」を発表。12月11日、航空学談話会で「垂直に吊された糸を熱するときに生ずる上昇力と之に及ぼす周囲の瓦斯の影響」(竹内能忠と共著)を発表。

「鐘に釁る」、『応用物理』、1月。
「北氷洋の氷の破れる音」、『鉄塔』、1月。
「Image of Physical World in Cinematography」、『Scientia』、1月。
「重兵衛さんの一家」、『婦人公論』、1月。
「鉛をかじる虫」、『帝国大学新聞』、1月。
「鎖骨」、『工業大学蔵前新聞』、1月。
「ニュース映画と新聞記事」、『映画評論』、1月。
「書翰」、『アララギ』、1月。
「短歌の詩形」、『勁草』、1月。
「自然界の縞模様」、『科学』、2月。
「藤の実」、『鉄塔』、2月。
「銀座アルプス」、『中央公論』、2月。
「珈琲哲学序説」、『経済往来』、2月。
談話「不連続線と温度の注意で山火事を予防」、『報知新聞』、2月。
「空想日録」、『改造』、3月。
「地震と光り物——武者金吉著『地震に伴ふ発光現象の研究及び資料』紹介」、『東京朝日
新聞』、3月。
「映画雑感」、『帝国大学新聞』、3月。
「物質群として見た動物群」、『理学界』、4月。
「病院風景」、『文学青年』、4月。
「猿の顔」、『文芸意匠』、4月。
「「ラヂオ」随想」、日本放送協会『調査時報』、4月。
「Opera wo kiku」、『Romazi Zidai』、4月。
「測候瑣談」、『時事新報』、4月。
「ことばの不思議 二」、『鉄塔』、4月。
「津波と人間」、『鉄塔』、5月。
「耳と目」、『映画評論』、5月。
※『柿の種』、小山書店、6月。
「蒸発皿」、『中央公論』、6月。
「記録狂時代」、『東京朝日新聞』、6月。
「言葉の不思議(三)」、『鉄塔』、7月。
「感覚と科学」、『科学』、8月。
「涼味数題」、『週刊朝日』、8月。
「錯覚数題」、『中央公論』、8月。
「神話と地球物理学」、『文学』、8月。
「言葉の不思議(四)」、『鉄塔』、8月。
アンケート「最近読んだ日本の良書愚書」、『鉄塔』、8月。
「学問の自由」、『鉄塔』、9月。
「試験管」、『改造』、9月。
「軽井沢」、『経済往来』、9月。
「科学と文学」、岩波講座『世界文学』、9月。
アンケート「記・紀・万葉に於けるわが愛誦歌」、『文学』、9月。
『物質と言葉』、鉄塔書院、10月。
「科学者とあたま」、『鉄塔』、10月。
「浅間山麓より」、『週刊朝日』、10月。
「沓掛より」、『中央公論』、10月。
「二科展院展急行瞥見記」、『中央美術』、10月。
「KからQまで」、『文芸評論』、10月。
「科学的文学の一例——維納の殺人容疑者」、『東京朝日新聞』、10月。
「猿蟹合戦と桃太郎」、『文芸春秋』、11月。
「俳諧瑣談」、『渋柿』、11月。
「人魂の一つの場合」、『帝国大学新聞』、11月。
『地球物理学』、岩波書店、12月。
『蒸発皿』、岩波書店、12月。
「伊香保」、『中央公論』、12月。
「異質触媒作用」、『文芸』、12月。  ]


哲学も科学も寒き嚏(クサメ)哉(二月「渋柿」)
※清けさや色さまざまに露の玉(四月二十二日付け「松根豊次郎宛書簡」)
※薫風や玉を磨けばおのづから(同上)

※ 上記の四月二十二日付け「松根豊次郎宛書簡」は、次のとおり。

[四月二十二日 土 本郷区駒込曙町二四より牛込区余丁四一松根豊次郎氏への「はがき」
 昨日はとんだ失礼、朝出がけ迄に御端書も電話もなかつたが念の為に五時数分前にモナミへ行つて見廻したが御出なく,矢張未だ御帰京ないものと考へて銀座の方へ出てしまつたのでありました。
 「無題」の集録も本文の校正は出来たが、装幀などが中々手間がとれて進行せず、併し五日中位には出来る事になると存候
 ――――――――――――――――――――――――――――
 友人の葡萄の画に賛を頼まれて考案中「清けさや色さまざまに露の玉」などは如何や御斧正を乞ふ。
 又学士院受賞者に祝の色紙を頼まれ苦吟中「薫風や玉を磨けばおのづから」では何の事か分かるまじく候、御高見御洩らし被下度祈候 
 四月廿二日    ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)

※ 上記の書簡中の「『無題』の集録も本文の校正は出来たが、装幀などが中々手間がとれて進行せず、併し五日中位には出来る事になると存候」は、上記の年譜中の、「※『柿の種』、小山書店、6月。」で刊行されたもので、その初出のものは、「渋柿」の「巻頭言(寅彦の「無題」)」の、その集録が主体になっていることを意味している。
 この『柿の種』(「小山書店」刊=小山久二郎(「小山書店主」)はは安倍能成の甥で、岩波書店勤務を経て創業)には、小宮豊隆も深く関わっている。
 また、書簡中の「モナミへ行つて見廻したが御出なく」のその「モナミ」は、「帝都座の地下室のモナミ」(「新宿3丁目交差点にあった帝都座(現在の新宿マルイ本館)の地下」)の、「モナミ(大食堂)」で、ここが、東洋城と寅彦との連句の制作現場である。

新宿 モナミ大食堂.jpg

TEITOZA「新宿 モナミ大食堂」
https://tokyomatchbox.blogspot.com/2022/03/blog-post_06.html

[ 寺田君は午後四時頃航空研究所を出て小田急で新宿駅に下車し、すぐモナミへ来る。僕の方が後になる事が多い為君はいつも待合室の長椅子で夕刊か何か読んでゐる。夕刊を読んでしまふと欧文原稿の校正などをしてゐる。僕が側へ腰を掛けて少し話をすると、「行かうか」とか「飯食はうか」というて立上がる。例の古い外套だ。そして左脇に風呂敷(時に大きなカバン)をかかへ右手に蝙蝠傘を杖いてサツサと食堂の方へ行く。ボックスがあいていればボックス、あいてゐなければ柱の蔭か棕櫚の蔭かになるやうな一卓に陣取る。さうして、何か一品註文する。(中略) それからソロソロと仕事にとりかかる。両人が汚い手帖を取り出して前回の附けかけの各自受持ちのところを出す。僕が小さい季寄せを提袋から出すと君がポケットから剥ぎ取りのメモを出し二三枚ちぎつて僕に呉れる。附くと見せ合つて対手が承知すると両方の手帖に記入する、不承知だとダメを出して考へ直す。(以下、略)  ] (『東洋城全句集(下巻)』所収「寺田君と俳諧」)


[豊隆(蓬里雨)・五十歳。昭和八年(一九三三)。一月合著『新続芭蕉俳諧研究』出版。十月『芭蕉の研究』出版。]

※ 小宮豊隆が、東北帝大法文学部(独逸文学)の教授として仙台(仙台市北二番丁六八)に移住したのは、大正十四年(一九三五)の四月、その翌年に「芭蕉俳諧研究会」(阿部次郎・太田正雄(木下杢太郎)・山田孝雄・岡崎義恵・土井光知・小牧健夫・村岡典嗣など)が始まり、この会は、昭和二十一年(一九四六)に、豊隆が東京音楽学校校長として仙台を去るまで続いた。その間の、大正十五年(昭和元年・一九二六)から昭和八年(一九三三)にかけての豊隆の論考は、昭和八年九月九日の「序」を付しての『芭蕉の研究(岩波書店・十月初版)』として結実を遂げている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-27

『芭蕉の研究』(小宮豊隆著・岩波書店)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1213547/1/1

[目次
芭蕉/1         → 昭和七年十一月四日(論文)
不易流行説に就いて/56  → 昭和二年四月五日(論文)
さびしをりに就いて/107 → 昭和五年八月七日(論文)
芭蕉の戀の句/139    → 昭和七年五月二十日(論文)
發句飜譯の可能性/167  → 昭和八年六月五日(論文)
『冬の日』以前/175   → 昭和三年十二月七日(論文)
『貝おほひ』/199    → 昭和四年三月三日(論文)
芭蕉の南蠻紅毛趣味/231 → 昭和二年二月(論文) 
芭蕉の「けらし」/261  → 大正十五年七月(論文)
芭蕉の眞僞/290     → 昭和六年十月十五日(論文)
二題/296        → 昭和三年九月九日(「潁原退蔵君に」)
            → 昭和七年八月二十三日(「矢数俳諧」)
『おくのほそ道』/303  → 昭和七年一月十四日(論文)
立石寺の蟬/326     → 昭和四年八月二十日(「斎藤茂吉」との論争)
芭蕉の作と言はれる『栗木庵の記』に就いて/330 →昭和六年七月七日(論文)
『おくのほそ道』畫卷/375 → 昭和七年六月十九日(論文) 
芭蕉と蕪村/379      → 昭和四年十月(論文)
附錄
蕪村書簡考證/419     → 昭和三年六月二十八日(論文)
西山宗因に就いて/452   → 昭和七年九月二十日(論文)
宗因の『飛鳥川』に就いて/489 →昭和八年二月十二日(論文)  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 その「序」で、豊隆は、「考えて見ると、私は、少し芭蕉に狎(ナ)れすぎたやうな気がする。是は決して、研究にとつて、好ましい事ではないない」と記述している。
 この「序」の、「少し芭蕉に狎(ナ)れすぎた」という想いは、寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、年長(六歳年上)の「兄事」する「漱石最側近」の「東洋城・寅日子」両人に対する「 狎(ナ)れすぎ」(「もたれすぎ」)という想いが、豊隆にとっては去来したことであろう。
 この寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、その後の、この三者の交遊関係は、いささかも変わりなく、逆に、年少者の豊隆が、年長者の「東洋城・寅日子」を、陰に陽に支え続けていたということが、『寺田寅彦全集文学篇(第十五・十六・十七巻=書簡集一・二・三)・岩波書店』の、寅彦からの「豊隆・東洋城・安倍能成・津田青楓など」宛ての書簡から読み取れる。

[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上     青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子    月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)

※ この「四吟(蓬里雨・青楓・寅日子・東洋城)歌仙(未完)」は、当時の「東洋城・寅日子・蓬里雨・青楓」の、この四人を知る上で、格好の「歌仙(未完)」ということになる。
 この歌仙(未完)の、「表六句と裏一句」は、「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。
 その塩原温泉(栃木県)での歌仙の、その発句に、「八月十八日雲仙を下る」の前書を付しての「霧雨に奈良漬食ふも別れ哉(蓬里雨)」の、この前書にある「雲仙(温泉)」(長崎県)が出て来るのはどういうことなのか(?) ――― 、この句の背景には、次のアドレスの「作家を求める読者、読者を求める作家――改造社主催講演旅行実地踏査――(杉山欣也稿)」(金沢大学学術情報リポトロジKURA)で記述されている「雲仙温泉」で開催された「改造社主催講演会」に、その講師として、小宮豊隆の名が出てくるのである。

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20231201_LE-PR-SUGIYAMA-K-203.pdf

[雲仙の温泉岳娯楽場を会場に、八月十七日~二十二日に開催された九州地区のそれは、やはり新聞各紙の広告によって宣伝が重ねられた。講師は、小宮豊隆・阿部次郎・木村毅・藤村成吉・笹川臨風に、課外講演として京大教授・川村多二(「動物界の道徳」というタイトル)が演壇に立った。「長崎新聞」の紙面から、ここも大盛況であったことが分かる。]

 この八月十七日の翌日(八月十八日)、雲仙温泉での講演を後にして、その帰途中に「東洋城・寅彦・青楓」と合流して、その折りの塩原温泉(四季の郷・明賀屋、近郊に、東洋城の「両面句碑」が建立されている)での一句のように解せられる。
 そして、裏の二句目の「炭打くだく七輪の角・雨(一・一七)」は、昭和六年(一九三一)一月十一日付けの、文音での、蓬里雨の付け句のように思われる。それに対して、「胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ・子」(寅日子・裏三句目)と「葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)・城」と付け、同年の四月十四日に「細帯に腰の形を落付けて・雨」(蓬里雨・裏四句目)」、続く、同年の八月二十八日に「簾の風に薫る掛香・子」(寅日子・裏五句目)と付けて、その翌年の昭和七年(一九三二)四月十三日に「庭ながら深き林の夏の月・       城」(東洋城・裏六句目)」のところで打ち掛けとなっている。
 実に、昭和二年(一九二七)の八月にスタートした歌仙(連句)は、その五年後の、昭和七年(一九三二)の四月まで、未完のままに、そして、寅彦が亡くなった、翌年の、昭和十一年(一九三六)十一月「渋柿」(寺田寅彦追悼号)に公開されたということになる。

改造社主催講演旅行実地踏査.jpg

「作家を求める読者、読者を求める作家――改造社主催講演旅行実地踏査――(杉山欣也稿)・抜粋」(金沢大学学術情報リポトロジKURA)

 ここで、寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、何時の頃かというと、下記の「(参考)「寅彦が詠んだだ連句(歌仙)」(年・連句(歌仙)数・歌仙名・連衆)」のとおり、昭和六年(一九三一)の「※短夜の」(「東・寅・豊」の三吟、昭和六年十月「渋柿」)以降のことのように思われる。

(参考)「寅彦が詠んだだ連句(歌仙)」(年・連句(歌仙)数・歌仙名・連衆)

1925(T14)   1 「水団扇」(東・寅)
1926 (T15/Sl) 4  「昔から」(東・寅)/ 「炭竈と」(東・寅)/ 「雲の蓑」(東・寅・豊)/ 
        「けふあす の」(東・寅) 
1927(S2) 4 「あすよりは」(東・寅・豊)/「鎖したれど」(東・寅・豊)/「霜降り
る」(東・寅)/「文鳥や」(東・寅)
1928(S3) 5「露けさの」(東・寅・豊)/「簾越に」(東・寅・豊)/「うなだれて」(東・寅)/「コスモスや」/「旅なれは」(東・寅)
1929 (S4) 1 「花蘇枋」」(東・寅)
1930(S5) 1 「かはかはと」(東・寅・豊)
1931 (S6) 8 「翡翠や」(東・寅)/「あのやうに」(東・寅)/「淡雪や」(東・寅)/
「※短夜の」(東・寅・豊)/「咲きつづく」(東・寅)/「飛ぶ蝶や」(東・
寅)/「乗合は」(東・寅)/「如月や」(東・寅)

1932(S7) 8  山里や」(東・寅)/「くさびらに」(東・寅)/「風も無き」(東・寅)/
        「末枯や」(東・寅)/「武蔵野は」(東・寅)/「裏山や」(東・寅)/
        「葭切や」(東・寅)/「夕立や」(東・寅)
1933 (S8) 6  「翡翠や」(東・寅)/「牡丹や」(東・寅)/「白露や」(東・寅)/
「するすると」(東・寅)/「晴れまさる」(東・寅)/「一裏や」(東・
寅)
1934 (S9) 4 「鷽の琴」(東・寅)/「静けさや」(東・寅)/「秋風や」/(東・寅)/「十
ばかり」/(東・寅)
1935(Sl0) 5  「その頃の」(東・寅)/「まざまざと」(東・寅)/「蝉鳴くや」(東・
寅)/「冬空や」(東・寅)/「山の戸や」(東・寅)
※未完は除く 

(追記その一)「津田青楓」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-18

[9 津田青楓(つだせいふう)=明治13(1880)~昭和53(1978)年。画家。『道草』や『明暗』など漱石の本の装丁を手がけた。また、漱石に絵画の手ほどきをした。(「漱石十大弟子の一人」、実兄は「去風流七代・西川一草亭」、漱石側近の画家、後に「左翼」に転向。)]

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-08


漱石山房と其弟子達A.jpg

「漱石山房と其弟子達」(津田清楓画)→A図
https://blog.goo.ne.jp/torahiko-natsume/e/6ad1c4767dddc3568e6b34e7d727b501
≪「上段の左から」→則天居士(夏目漱石)・寅彦(寺田寅彦)・能成(阿部能成)・式部官(松根東洋城)・野上(野上豊一郎)・三重吉(鈴木三重吉)・岩波(岩波茂雄)・桁平(赤木桁平)・百閒(内田百閒)
「下段の左から」→豊隆(小宮豊隆)・阿部次郎・森田草平/花瓶の傍の黒猫(『吾輩は猫である』の吾輩が、「苦沙弥」先生と「其門下生」を観察している。)
「則天居士」=「則天去私」の捩り=「〘連語〙 天にのっとって私心を捨てること。我執を捨てて自然に身をゆだねること。晩年の夏目漱石が理想とした心境で、「大正六年文章日記」の一月の扉に掲げてあることば。」(「精選版 日本国語大辞典」)
「天地人間」(屏風に書かれた文字)=「天地人」=「① 天と地と人。宇宙間の万物。三才。② 三つあるものの順位を表わすのに用いる語。天を最上とし、地・人がこれに次ぐ。
※落語・果報の遊客(1893)〈三代目三遊亭円遊〉「発句を〈略〉天地人を付ける様な訳で」(「精選版 日本国語大辞典」)→「2096 空に消ゆる鐸のひびきや春の塔(漱石・「前書」=「空間を研究せる天然居士の肖像に題す」)→「空間に生れ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士(てんねんこじ)噫(ああ)」(『吾輩は猫である』第三話)

https://www.konekono-heya.com/books/wagahai3.html    ≫


(追記その二) 「柿の種」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/1684_11274.html

寅彦・子猫.jpg

[子猫が勢いに乗じて高い樹のそらに上ったが、おりることができなくなって困っている。
 親猫が樹の根元へすわってこずえを見上げては鳴いている。
 人がそばへ行くと、親猫は人の顔を見ては訴えるように鳴く。
 あたかも助けを求めるもののようである。
 こういう状態が二十分もつづいたかと思う。
 その間に親猫は一、二度途中まで登って行ったが、どうすることもできなくて、おめおめとまたおりて来るのであった。
 子猫はとうとう降り始めたが、脚をすべらせて、山吹やまぶきの茂みの中へおち込んだ。
 それを抱き上げて連れて来ると、親猫はいそいそとあとからついて来る。
 そうして、縁側におろされた子猫をいきなり嘗なめ始める。
 子猫は、すぐに乳房にしゃぶりついて、音高くのどを鳴らしはじめる。
 親猫もクルークルーと恩愛にむせぶように咽喉を鳴らしながら、いつまでもいつまでも根気よく嘗め回し、嘗めころがすのである。
 単にこれだけの猫のふるまいを見ていても、猫のすることはすべて純粋な本能的衝動によるもので、人間のすることはみんな霊性のはたらきだという説は到底信じられなくなる。
(大正十一年六月、渋柿)

寅彦・スケッチ.jpg

[ルノアルの絵の好きな男がいた。
 その男がある女に恋をした。
 その女は、他人の眼からは、どうにも美人とは思われないような女であったが、どこかしら、ルノアルの描くあるタイプの女に似たところはあったのだそうである。
 俳句をやらない人には、到底解することのできない自然界や人間界の美しさがあるであろうと思うが、このことと、このルノアルの女の話とは少し関係があるように思われる。
(大正十三年三月、渋柿) ]

[三毛の墓

三毛みけのお墓に花が散る
こんこんこごめの花が散る
小窓に鳥影小鳥影
「小鳥の夢でも見ているか」

三毛のお墓に雪がふる
こんこん小窓に雪がふる
炬燵蒲団こたつぶとんの紅くれないも
「三毛がいないでさびしいな」    ] (昭和三年二月、渋柿)

寅彦・三毛の墓.png
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