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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その八) [光悦・宗達・素庵]

その八 「B図とC図」(その一)

鶴下絵和歌巻B図.jpg

B図『鶴下絵和歌巻』(2凡河内躬恒と3大伴家持)

鶴下絵C図.jpg

C図『鶴下絵和歌巻』4在原業平 月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして(「俊」)

『鶴下絵和歌巻』(一番歌~四番歌)

(一番歌=人丸)
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
(二番歌=躬恒)
いづくとも春の光は分かなくにまだみ吉野の山は雪降る
(三番歌=家持)
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
(四番歌=業平)
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つは元の身にして

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narihira.html
  
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして(古今747)

【通釈】自分ひとりは昔ながらの自分であって、こうして眺めている月や春の景色が昔のままでないことなど、あり得ようか。昔と同じ晴れ晴れとした月の光であり、梅の咲き誇る春景色であるはずなのに、これほど違って見えるということは、もう自分の境遇がすっかり昔とは違ってしまったということなのだ。
【語釈】◇五条の后 仁明天皇の后、藤原順子。◇后の宮の西の対 順子の御所の寝殿の西側の建物。ここに「すみける人」が誰かは分からないが、常識的には順子に仕えていた女房などが考えられる。伊勢物語では明らかに藤原高子(清和天皇に入内する以前の)を匂わせている。◇本意にはあらで物言ひわたりける もともとそのつもりはなかったのに、(ふとしたきっかけで)契りを交わし、通うようになった。◇月やあらぬ 「月や昔の月ならぬ」の略。月は昔の月でないことがあろうか。「や」は反語・疑問両説あるが、ここでは反語にとった。◇我が身ひとつは… 下句は上句と倒置の関係にある。
【補記】歌意に沿って語順を並び換えると、「我が身ひとつはもとの身にして、月や昔の月ならぬ、春や昔の春ならぬ」となる。現前する景に失われた過去を手探りして、わが身が過去と現在に引き裂かれていることに気づく、という自失の感情。大胆な省略語法と反語表現を用い、初句・三句で切れる上句は、切羽詰った嗚咽にも似る。伊勢物語第四段は古今集の詞書より少し描写が詳細になり、また感傷的になっている。

業平図一.jpg

『三十六歌仙・上・在原業平([風俗絵巻図画刊行会)』(国立国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967012/8

「佐竹三十六歌仙」(四番歌=在原業平)

世(代)の中にたえてさくらのなかりせばはるのこころはのどけからまし

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narihira.html

  なぎさの院にて桜を見てよめる
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53)
【通釈】この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。
【補記】「なぎさの院」は、いまの大阪府枚方市辺りにあった惟喬親王の別荘。遊猟地であった交野(かたの)に近い。伊勢物語八十二段には、業平が交野で狩のお供をした際、「狩はねむごろにもせで、酒をのみのみつつ、やまとうたにかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり」とあって、桜の木の下での酒宴で詠まれた歌となっている。うららかな春という季節――しかし、「春の心」は決してのどかではあり得ない。散り急ぐ桜の花に、心は常に急かされるから。桜など、いっそなければ…。歓楽に耽る中、<いまこの時>の過ぎ去る悲しみが、人々の胸を締めつける。

業平図二.jpg

【狩野探幽画・青蓮院宮尊純親王書「三十六歌仙・在原業平」金刀比羅宮宝物館蔵 】
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

「金刀比羅宮扁額三十六歌仙」(四番歌=在原業平)

世(代)の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし

(追記)光悦流の三羽烏(「烏丸光広・角倉素庵・観世黒雪」)

牛図.jpg

『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」
【 宗達の水墨画中、屈指の傑作として知られるこの対幅には、烏丸光広(1579~1638)の賛がある。向かって右側の和歌は「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」。また、左幅の漢詩は「僉曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽復何求(花押)」。力量感にあふれる牛の体躯を手慣れたたらし込みの技法によって、じつに躍動的に描いている。】「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」の解説

(周辺メモ)
一 この光広の賛の「花押」は二羽の「蝶」のようである。宗達の描く「牛」は、その「蝶」に戯れている。(『俵屋宗達(古田亮著)』など)
二 この光広の賛(和歌)の「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」は、「つながぬうしのやすきすがたに」の「自由」こそ「平安・安らぎ」の象徴か(?)この漢詩の「僉(ミナ)曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽(シュク)復何求(花押)」は、「仁牛→一角牛」→「『仁』カラ『縦横心自足』」スルト『牛』トナル」→「匈菽(シュク)復何求」……という「謎句」仕立てらしい(?)
三 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。

烏丸光広 (からすまるみつひろ)
没年:寛永15.7.13(1638.8.22)
生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議,同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが,運よく無罪となり,同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言,元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め,歌集に『黄葉和歌集』があるほか,俵屋宗達,本阿弥光悦などの文化人や徳川家康,家光と交流があり,江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ,のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』
(伊東正子)出典:朝日日本歴史人物事典

角倉素庵(すみくらそあん)
没年:寛永9.6.22(1632.8.7)
生年:元亀2.6.5(1571.6.27)
近世初期の京都の豪商で文化人。父角倉了以,母吉田栄可の娘の長男。通称与一(京都二条の角倉本家では代々与一を称する)。諱は玄之のち貞順,字は子元。天正16(1588)年藤原惺窩に面接,惺窩の学識の感化を受け,儒学への広範な学究者となり,林羅山をも知り,惺窩に羅山を引き合わせるなど,日本儒学史上の重要な役割を果たした。惺窩に信頼され,その『文章達徳録』百余巻および綱領(惺窩自ら古今の詩話文章を集めたもの)の削補に取り組むように指示され,これが生涯の仕事のひとつになった。このころ本阿弥光悦とも親交があり,光悦より書を習得,のちに光悦と共に「寛永の三筆」のひとりとされた。光悦らの協力によって,角倉の富裕な環境にあったこともあって慶長4(1599)年,『史記』の刊行を始め,以後古典の数々の刊行を行い,嵯峨本と称される典雅な刊本が素庵によって版行された。この刊行は同15年ごろまで続けられ,後世に残る業績となった。一方,この間,素庵は慶長8年から父了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に協力,自ら安南国回易大使として責任ある活動を行い,朱印船貿易を継承した。また父が行っていた大堰川の開削,富士川の疏通,天竜川,鴨川水道,高瀬川の運河の難工事など,父のよき補佐役として事業に専念した。素庵は幕命により同11年から同14年に甲斐(山梨県),伊豆(静岡県)などの鉱山の巡視を命ぜられ,大坂の陣(1614~15)には,淀川など河川運輸面で軍需物資の運搬に貢献し,功労があった。元和1(1615)年には幕府より高瀬船,淀川過書船支配を命ぜられ,また山城(京都府)の代官職についたが,同7年ごろに不治の病におかされ,公職や家業から引退し,生来の好学心から,学問研究に余生を送った。寛永4(1627)年息子らに財産を分与し,自ら数千巻の蔵書をもって隠棲。墓は京都市念仏寺および二尊院にある。遺著に『期遠集』『百家集』があるが今日伝わらない。<参考文献>「角倉源流系図稿」(京都角倉平吉氏蔵),「角倉文書」(高輪美術館蔵) (中田易直) 出典 朝日日本歴史人物事典

観世黒雪(かんぜこくせつ)
没年:寛永3.12.9(1627.1.26)
生年:永禄9(1566)
江戸時代の能役者。9世観世大夫。8世元尚の嫡子。童名鬼若。初名与三郎照氏。のち与三郎忠親。隠居名身愛。12歳で父に死別し,18歳まで祖父の宗節の薫陶を受ける。徳川家康に厚く用いられ,駿府から京に進出して徳川家お抱えの大夫として活躍。のち慶長15(1610)年5月に駿府を出奔して高野山に籠もり,服部慰安斎暮閑を名乗ったがその2年後には帰参して観世左近大夫暮閑と称する。観世流謡本で全100番のいわゆる『元和卯月本』の刊行が元和6(1620)年に着手されており,彼は大夫として自らその校閲,監修に当たった。
(石井倫子) 出典 朝日日本歴史人物事典

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