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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その七) [光悦・宗達・素庵]

その七 式子内親王

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の四「西行法師・式子内親王」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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本阿弥光悦書・俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(式子内親王・その一)」MOA美術館蔵

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本阿弥光悦書・俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(式子内親王・その二)」MOA美術館蔵

7 式子内親王:それながらむかしにもあらぬ秋風にいとゞ詠(ながめ)を賤のをだまき
(釈文)曽連那可ら無可し尓も安ら怒秋風尓以登(ど)詠を賤濃を多ま起

(周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

それながら昔にもあらぬ月影にいとどながめをしづのをだまき〔新古368〕

【通釈】それはそれ、月は同じ月であるのに、やはり昔とは異なる月影――その光に、いよいよ物思いに耽って眺め入ってしまった、繰り返し飽きもせず。
【語釈】◇しづのをだまき 倭文(しづ)を織るのに用いた苧環。苧環を繰ると言うことから「繰り返し」の意を呼び込む。「しづ」には「(ながめを)しつ」の意を掛ける。
【補記】「前小斎院御百首」。新古今集では詞書「秋の歌とてよみ侍りける」、第三句「秋風に」とある。

(追記「周辺メモ」)

一 この歌の第三句を「秋風」(『新古今集』)とするか「月影」(「前小斎院御百首」)とするかでは、先の西行の「月」の歌の関連でイメージが様変わりしてくる。ここは、上記の絵図
(全体図の四「西行法師・式子内親王」・「式子内親王・その一」・「式子内親王・その二)」)
からして、断然に「月影」(「前小斎院御百首」)のイメージが優先されてくる。
二 上記の【通釈】は第三句が「月影」のもので、ここを「秋風」とすると、「昔と同じものでありながら、昔とちがって感じられる秋風で、いよいよ物思いを繰り返すことだ」(『新編日本古典文学全集43』)の簡潔な歌意を付記して置きたい。

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その一)後鳥羽院と式子内親王

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-23

狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その一)後鳥羽院と式子内親王

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-09

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その五)

 ここから「線描」の「秋の夜の月光」の世界での、「夢幻能」のような画面となってくる。
 先の(その四)の「雄鹿と雌鹿」を「西行と待賢門院」と見立てると、この(その五)の「雄鹿と雌鹿」は、「定家と式子内親王」との見立てが連想されてくる。
 と同時に、この「線描」の「秋の夜の月光」の二匹の鹿は、「定家と式子内親王」がそのモデルとされている「夢幻能」(能楽で主人公(シテ)を実在する人物でなく霊として登場させるもの)として名高い「三番目物」(鬘物)の「定家」のイメージが彷彿としてくる。

【 ワキ「山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。
ワキ「是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
  (略)

シテ「それは時雨の亭とて由ある所なり、
   其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。
ワキ「げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、
    是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
シテ「是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、
    時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、
    爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、
  (略)

ワキ「不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、
    形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
シテ「是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ「荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
シテ「式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、
    程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、
    其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。
   (略)       】

 上記の「定家」は、下記のアドレスのものに因っている。

http://www5.plala.or.jp/obara123/u1123tei.htm
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yahantei

 光悦は、和歌に精通していて、自作の歌は一つも遺していない。
茶人・光悦は、「秀吉に殺された千利休」と「家康に殺された古田織部」の、その「利休→織部→光悦」の、その流れを汲む茶人(その同朋に「綺麗さび」の「小堀遠州」が連なっている)で、その一端は、今に、国宝級の「やきもの」で伝えられている。
 この「利休→織部→光悦」の流れと密接不可分のものに、「連歌・能・狂言・御伽草子」の、いわゆる「中世の文学」(鎌倉・室町=南北朝・安土桃山)が横たわっている。
 それらの「古代→中世→近世」の流れを踏まえながら、その「中世と近世とをコーディネート(結びつける)」する、その人こそ、「本阿弥光悦」なのかも知れない。

by yahantei (2020-05-14 17:11) 

yahantei

光悦が和歌に精通していることは、『本阿弥行状記』・『にぎわひ草』(灰屋(佐野)紹益著)で「古今伝授」の秘伝を受けているとの記述(?)も見られる。しかし、一切、「作歌・作句(連歌の発句・付け句」は「おのれの力量」を知っていて、どう、あがいても、「俊成・西行・定家・家隆・宗祇・宗長・肖柏」等々の二番煎じになることを承知していたのであろう。
「絵画」にしても然りて、相当の「描き手」であることは、実際に、「光悦=宗達」説(「水尾比呂志」説など)があるほどに、相当の「描き手」であったのであろう(その遺作と伝えられているもの多い)。
 しかし、光悦は、これらに関しては、全くの沈黙したままで、ただ、「書に関しては、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦)の筆頭たるやの記述も『本阿弥行状記』に見られる。」
 この「鹿下絵和歌巻」も、「和歌(揮毫者=鑑賞者)・光悦」と「画(描写者)・宗達」とを「書(揮毫者=創作者)」との、この三位一体(歌・画・書)の世界を、これまた、コーディネート(結びつける)」したる、その人こそ、「本阿弥光悦」なのかも知れない。

by yahantei (2020-05-15 16:07) 

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