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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その一) [三十六歌仙]

(その一)後鳥羽院と式子内親王

後鳥羽院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方一・後鳥羽院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009394

式子内親王.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方一・式子内親王)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009412

後鳥羽院二.jpg

(左方一・後鳥羽院)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019788

(バーチャル歌合)

左方一 後鳥羽院

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010676000.html

龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ/あきや来ぬらん岡のべの松

右方一 式子内親王

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010677000.html

 ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮

判詞(宗偽)

 後鳥羽院と式子内親王との年齢の開きは、式子内親王が三十一歳年長である。そして、この「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)は、後鳥羽院撰とも伝えられ、「後鳥羽院以下左方の歌人、式子内親王以下右方の歌人をまとめる二帖から成る。色紙の配置は、左方が肖像・和歌の順になっているのに対し、右方ではその逆になっている」(『歌仙絵(東京国立博物館編)』所収「作品解説№14と参考2」)。
 式子内親王の「龍田山」は「東京国立博物館蔵」、そして、「龍田姫」は「和泉市久保惣記念美術館蔵」の表記の違いに因る。
 さて、この左方の後鳥羽院の一首は、右方の式子内親王の一首を念頭に置いて、その一首に唱和しての作例のように思われる。この上の句の「龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ」の「龍田山(姫)」は、『万葉集』の次の「龍田山」の歌などを踏まえてのものであろう。

0083: 海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
0415: 家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
0877: ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
0971: 白雲の龍田の山の露霜に.......(長歌)
1181: 朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
1747: 白雲の龍田の山の瀧の上の.......(長歌)
1749: 白雲の龍田の山を夕暮れに.......(長歌)
2194: 雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
2211: 妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
2214: 夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
2294: 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
3722: 大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
3931: 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
4395: 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに

 とすると、ここは、この「新三十六人歌合」の「後鳥羽院撰」という伝承からしても、後鳥羽院が、式子内親王を当代随一の歌人と崇敬し、その意味合いから、己の歌に対峙するように右方のトップに据えた意向からしても、右方のトップに据えた「式子内親王」の一首を「勝」とすべきなのであろう。

(後鳥羽院御製)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#01

ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく
桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの
秋の露やたもとにいたくむすぶらん長き夜あかずやどる月かな
吉野山さくらにかかるうすがすみ花もおぼろの色は見えけり
露は袖にもの思ふころはさぞな置くかならず秋のならひならねど
秋更けぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむし蓬生の月
我が恋は真木の下葉にもる時雨ぬるとも袖の色に出でめや
たのめずは人をまつちの山なりと寝なましものをいざよひの月
袖の露もあらぬ色にぞ消えかへるうつればかはる歎きせしまに

(式子内親王御歌)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#08

山ふかみ春ともしらぬまつの戸にたえだえかかるゆきの玉水
詠めつるけふはむかしになりぬとも軒ばのむめよ我をわするな
更くるまでながむればこそかなしけれおもひもいれじ秋のよの月
桐の葉もふみ分けがたくなりにけりかならず人をまつとなけれど
玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
わすれてはうちなげかるる夕かな我のみしりて過ぐる月日を
夢にても見ゆらむものをなげきつつうちぬるよひの袖のけしきは
逢ふ事を今日まつがえの手向草いくよしをるる袖とかはしる
いきてよもあすまで人はつらからじ此夕ぐれをとはばとへかし
ながめ佗びぬあきより外の宿もがな野にもやまにも月やすむらん

(式子内親王の一首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html#AT

百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
【通釈】じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。
【補記】まだ星は見えていない夕空を眺め、天の川に思いを馳せる。爽やかな涼感に焦点をしぼった、清新な七夕詠。「前小斎院御百首」。
【主な派生歌】
夕されば衣手すずし高円の尾上の宮の秋のはつかぜ(源実朝)

後鳥羽院(ごとばのいん) 治承四~延応一(1180~1239) 諱:尊成(たかひら)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gotoba.html

 治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。母は藤原信隆女、七条院殖子。子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。
 寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。同三年三月、後白河院は崩御。七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。
 建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。同年八月、最初の熊野御幸。翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。
 建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。同二年十二月、良経を摂政とする。
 元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。
以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。
 この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。
歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。

式子内親王(しょくしないしんのう) 久安五~建仁一(1149~1201)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

 式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。
 後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
 平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
 建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系80・鹿集大成三・身辺国家大観四・和歌文学大系23・私家集前借草書28などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。
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middrinn

「式子内親王を当代随一の歌人と崇敬」とされる点が気になります(^_^;)
『後鳥羽院御口伝』では「殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに
詠まれき。」としか、後鳥羽院は式子内親王を評してなかったので(^_^;)
by middrinn (2019-11-23 11:27) 

yahantei

「判詞」は、一方的な見方ではなく、多角的に出来るとベストですね。「宗偽?」は「句詠み派」なので、「歌詠み派」の「鵬斎子?」の見方など、気が向いたときに、このコメント欄などでお願いします。次の「皇太后宮大夫俊成女」は、とんでもない「曲球」の感じです。それにしても、何時ぞやの「丸谷才一」から「後鳥羽院」入りの迷宮入りの感じです。では、この欄などで。
by yahantei (2019-11-24 07:37) 

yahantei

『後鳥羽院御口伝』では「殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。」

この「もみもみと」というのは、『後鳥羽院御口伝』の補注(『日本文学大系65』)で、「俊頼・式子内親王・定家」の三人の歌風を「もみもみと」と評していて、「『たけ』に対立し、表現方法としては流暢の反対とみるべきもののようである」と、特殊な用語ですね。『後鳥羽院御口伝』では、女流歌人は、丹後と式子内親王の二人だけで(十五人?の歌人のうち)、確かに、「式子内親王を当代随一の女流歌人と崇敬」の「女流」の二字が入るということと、帝王の後鳥羽院の用語として「崇敬」も、読み返すと違和感があるね。「丸谷才一」に気をとらえていて、この『後鳥羽院御口伝』は、この「新三十六歌仙」のベースになる感じですね。また、そちらのサイトなどで。
by yahantei (2019-11-26 09:49) 

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