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源氏物語画帖「その三十九 夕霧」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

39 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  源氏50歳秋-冬

長次郎・夕霧.jpg

源氏物語絵色紙帖  夕霧  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・夕霧.jpg

源氏物語絵色紙帖  夕霧  詞・花山院定熈
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定熈」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C%A7_%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%8A%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91

霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、まかでむ方も見えずなり行くはいかがすべきとて、山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して
(第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意)

1.4.4 霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
(霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、)
1.4.5 「 まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、
(「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、)
1.4.6 「 山里のあはれを添ふる夕霧に  立ち出でむ空もなき心地して」
(「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために、帰って行く気持ちにもなれずおります」)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十九帖 夕霧
 第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問
  第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る
  第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問
  第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる
  第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意
(「花山院定熈」書の「詞」)  →  1.4.4 1.4.5 1.4.6 
  第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む
  第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く
  第七段 迫りながらも明け方近くなる
  第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る
第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口
 第一段 夕霧の後朝の文
  第二段 律師、御息所に告げ口
  第三段 御息所、小少将君に問い質す
  第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る
  第五段 御息所の嘆き
 第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸
  第一段 御息所、夕霧に返書
  第二段 雲居雁、手紙を奪う
  第三段 手紙を見ぬまま朝になる
  第四段 夕霧、手紙を見る
  第五段 御息所の嘆き
  第六段 御息所死去す
  第七段 朱雀院の弔問の手紙
  第八段 夕霧の弔問
  第九段 御息所の葬儀
 第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧
  第一段 夕霧、返事を得られず
  第二段 雲居雁の嘆きの歌
  第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問
  第四段 板ばさみの小少将君
  第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅
第六段 落葉宮の返歌が届く
 第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る
  第一段 源氏や紫の上らの心配
  第二段 夕霧、源氏に対面
  第三段 父朱雀院、出家希望を諌める
  第四段 夕霧、宮の帰邸を差配
  第五段 落葉宮、自邸へ向かう
第六段 夕霧、主人顔して待ち構える
  七段 落葉宮、塗籠に籠る
第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
  第一段 夕霧、花散里へ弁明
  第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う
  第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す
  第五段 夕霧、塗籠に入って行く
  第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ
 第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語
  第一段 雲居雁、実家へ帰る
  第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く
  第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者
第四段 藤典侍、雲居雁を慰める

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3771

源氏物語と「夕霧」(川村清夫稿)

【 光源氏の子息である夕霧は、太政大臣の娘で幼なじみでもある雲井雁と6年間の交際の末に結婚した。夫婦仲は円満で、多数の子供に恵まれた。ところが夕霧は世帯じみた生活に飽きて、柏木の死後、彼の未亡人である落葉の宮に言い寄って愛人関係を結んでしまう。夕霧の不倫に怒った雲井雁は、彼と夫婦げんかを起こし、子供たちを連れて実家に帰ってしまうのである。

 ウェイリーは、夕霧と雲井雁の夫婦げんかの場面を重要でないと思ったのか、省略しているが、サイデンステッカーは翻訳している。それでは夕霧と雲井雁の夫婦げんかの場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
とのたまふ。
「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」…
「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」
とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、
「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」

(渋谷現代語訳)
「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。わたしはとっくに死にました。いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」
とおっしゃる。
「お心は鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」…
「何を言うの。あっさりと死んでおしまいなさい。わたしも死にたい。見ていると憎らしい。聞くも気にくわない。後に残して死ぬのは気になるし」
とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、
「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのおつもりのようですね。急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」

(サイデンステッカー英訳)
“Do you know where you are?” she said finally. “You are in hell. You have always known that I am a devil, and I have merely come home.”
“In spirit worse than a devil,” he replied cheerfully, “but in appearance not at all unpleasant.”…
“That will do. Just disappear, please, if you do not mind, and I will hurry and do the same. I do not like the sight of you and I do not like the sound of you. My only worry is that I may die first and leave you happily behind.”
He found her more and more amusing. “Oh, but you would still hear about me. How do you propose to avoid that unpleasantness? Is the point of your remarks that there would seem to be a strong bond between us? It will hold, I think. We are fated to move on to another world in quick succession.”

 怒った雲井雁の台詞「いづことておはしつるぞ」をサイデンステッカーはDo you know where you are?と正確に訳しているが、これに続く「まろは早う死にき」を、You are in hell.と原文と違って訳している。「常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむ」は、You have always known that I am a devil, and I have merely come home.と訳しているが、これも違う。雲井雁の怒りにとりあわない夕霧の台詞「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」は、In spirit worse than a devil, but in appearance not at all unpleasantと、そっけなく訳していて、物足りない。

 逆上した雲井雁の台詞「何ごと言ふぞ」を、サイデンステッカーはThat will do.と原文と違って訳している。続く「おいらかに死にたまひね。まろも死なむ」をJust disappear, please, if you do not mind, and I will hurry and do the same.と、原文と違った訳文である。disappearではなくdieとするべきだ。その後の部分は、「見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」を、I do not like the sight of you and I do not like the sound of you. My only worry is that I may die first and leave you happily behind.と、正確に訳している。雲井雁をからかう夕霧の台詞「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ」をOh, but you would still hear about me. How do you propose to avoid that unpleasantness?と訳しているが、翻訳不足である。その後の部分は、「さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり」をIs the point of your remarks that there would seem to be a strong bond between us?と、「にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」をWe are fated to move on to another world in quick succession.と、上手に訳している。

 雲井雁は子供たちを連れて実家に戻り、夕霧と別居するが、夕霧は雲井雁と落葉の宮のもとに1日おきに通うようになるのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十九)

花山院忠長書状一.jpg

「花山院忠長筆消息」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/433

【花山院忠長〈かざんいんただなが・1588-1662〉は、左大臣花山院定煕〈さだひろ・1558-1634〉の二男。順調に累進して従四位・左近衛権少将に至った(17歳)。が、慶長10年〈1609〉7月、22歳の時、烏丸光広(からすまるみつひろ)・大炊御門頼国(おおいみかどよりくに)・飛鳥井雅賢(あすかいまさかた)・難波宗勝(なんばむねかつ)・徳大寺実久(とくだいじさねひさ)・松木宗信(まつきむねのぶ)らの公家たちとともに、宮廷の女官5人と遊興にふけり、密通していたことが発覚。宮廷の風紀粛正を決意した後陽成天皇は、幕府に命じてそれぞれを厳罰に処した。忠長は蝦夷(北海道)松前に流罪の身となった。のち津軽に移されたが、赦免されたのは、寛永13年〈1636〉、49歳の時。武蔵国に住み、出家して浄屋(じょうおく)を号した。慶安5年〈1652〉には念願叶って帰洛、10年後の寛文2年〈1662〉、75歳で没した。忠長は、書道史上、近衛流の名手として知られる。この書状にもその影響が顕著である。内容の詳細は不明ながら、「此地も替事無之候」「ふりふりと逗留」「馬一疋引上せ申度候人足とも大勢上り申候」「馬とゝのひ候て上り申候」などの文言などから、忠長が配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向が察知される。宛名の「早野茂兵衛」は不明。「幸便の条一筆啓せしめ候。軽米兵介(かるまいひょうすけ・奥州九戸郡の軽米城主・軽米兵右衛門の一族か)下るの刻も書状を以って申し度く候へども、去り難き隙入り候て、恐れながら其の儀無く候。先ず以って其元無事の由珍重に候。此の地も替(変)わる事これ無く候間、心安からるべく候。将亦、我等事も未だ御目見の隔て申さず候故、ふりふりと逗留。本馬(本間)太兵衛なども懇切にて、米など心得にて遣わされ候由祝着の事に候。よくよく心得候て申され給うべく候。頼み入り候。此の度、書状を以って申し度く候へども、此の仁(使者)不慮に(思いがけず)参り候間、便俄に候て、頓而(やがて)、期不(期せず)書状を以って申すべく候。万々、頼み入り候。恐々謹言。/尚々、昭九郎にもよくよく御心得頼み入り候。仍って此の度、馬一疋引き上せ申し度く候。人足ども大勢上り申し候由申し候間、土佐殿へ申し候へば、引き上せ申し候処、其々の事に候間、馬調ひ候て、上り申し候はば、路次中以下懇ろに入り申し付けられ給うべく候。是又、頼み入り候。猶、後音の時を期し候。卯月(四月)二十三日花(山院)少将忠長(花押)早野茂兵衛殿参る」

(釈文)

[上段]尚々昭九郎ニもよく/\御心得頼入候仍此度馬一疋引上せ申度候人足幸便之条一筆令啓候とも大勢上り申候由申候間軽米兵介下之刻も土佐殿へ申候へハ引上せ申候処其々以書状申度候へ共難去之事候間馬とゝのひ候て隙入候而乍恐無其儀候上り申候ハゝ路次中以下先以其元無事之由懇に入被申付可給候是又珍重ニ候此地も替事頼入申候猶期後音之無之候間可被心安候将亦時候我等事も未御目見之隔不申候故ふり/\と逗留[下段]本馬太兵衛なとも懇切にて米なと心得にて被遣候由祝着事候よく/\心得候て被申可給候頼入候此度以書状申度候へ共此仁不慮ニ参候間便俄ニ候而頓而期不以書状可申候万々頼入候恐々謹言花少将卯月廿三日忠長(花押)早野茂兵衛殿まいる    】

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

(花山院定熙)
生没年:1558-1634
父:左大臣 西園寺公朝
義父:右大臣 花山院家輔
初名:家雅
1576 侍従
1577 従五位上
1578 従四位下
1578 左近衛少将
1579 左近衛中将
1579 参議
1580 正四位下
1585 従三位
1588 正三位
1589 権中納言
1597 従二位
1599 権大納言
1602 正二位
1615-1617 右近衛大将
1615 神宮伝奏
1619 内大臣
1620 従一位
1621 右大臣
1632 左大臣
妻:(父:内大臣 徳大寺公維)
女:?
1588-1662 忠長
妻:(父:朝倉義景)
清昌院
1583-1616 徳大寺実久(徳大寺家へ)
1595-1659 寛海
了二
超勝院(権中納言 橋本実村室)
1599-1673 定好
-1667 総持院尼
1609-1646 松木宗保(松木家へ)
於万
於国(美作湯川左衛門室)
1610-1658 (養子)野宮定逸(野宮家へ)

(花山院忠長)
生没年:1588-1662
父:左大臣 花山院定熙
従四位上
左近衛少将
1609 猪熊事件
1609-1636 配流
妻:
1608-1695 公海
1610-1658 野宮定逸(野宮家へ)

 花山院定熈(1558-1634)は、「猪熊事件」(慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった)に連座した、「徳大寺実久(1583-1616)・花山院忠長(1588-1662)」の実父である。
 上記の「花山院忠長筆消息」は、その嫡男の「花山院忠長(1588-1662)」が、「配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向」(慶安5年〈1652〉前後)が読み取れる書状である。
 この書状(慶安5年〈1652〉前後)の時には、花山院定熈(1558-1634)は既に没している。なお、徳大寺実久(1583-1616)は、忠長の兄であるが、定熈の妻(父:内大臣 徳大寺公維)の「徳大寺」家の養子となっている。
 さらに、この「猪熊事件」に連座した「松木宗信」(1578-?)の「松木家」には、定熈の「花山院家」から、「松木宗保」(1609-1646)が養子となって、その後継者となっている。
 この「定熈→徳大寺実久・花山院忠長・松木宗保」の系譜の、「花山院定熈」(花山院家19代当主)は、「西園寺家」(西園寺家18代当主)の養子で、所謂、「清華家」の「西園寺家・徳大寺家・花山院家」を結びつける中心的な人物なのである。
 その「花山院定熈」が、この「源氏物語画帖」の、「夕霧・匂兵部卿宮・紅梅」、そして、
若き「西園寺実晴」が、「横笛・鈴虫・御法」を、その「詞書」の筆者していることが、この「源氏物語画帖」が、最終的に完成した元和五年(一六一九)当時の、最長老の「定熈」(1558-1634)と最年少の「実晴」(1600-1673)の、「近衛信尹・信尋」の二代に亘って「近衛」家のブレ―ンとなっている「西園寺・花山院」家に対する配慮のように思われるのである。
 そして、「猪熊事件」(1609)に連座して配流をされていなければ、当然に、この「源氏物語画帖」の「詞書」の筆者の一人になっていると思われる、「書道史上、近衛流の名手として知られる」、定熈の嫡男の「花山院忠長」が、この「花山院定熈・西園寺実晴」の背後に潜んでいるように思えるのである。

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yahantei

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分

慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪 
   
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)

新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》       】

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

【※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  】



「猪熊事件」の主役は、当時の「かぶき公家」の第一人者・猪熊教利(二十六歳)ということになるが、それ以上に、後陽成天皇の寵愛深い
新大典侍 広橋局(二十歳?)を横恋慕し、密通を重ねていた張本人は、花山院忠長(二十二才)その人で、こちらの方が、「猪熊事件」の震源地ということになろう。
 それにしても、花山院忠長は、二十二歳、そして、広橋局は、二十歳(?)で、まさに、『源氏物語』の若き日のプレイボーイ「光源氏」再現のような、そんなことを連想させる・
 そして、その「光源氏」の嫡子「夕霧」が誕生するのは、前半のヤマ場の「第九帖 葵」の、「源氏22歳-23歳春」のことで、これが、「猪熊事件」当時の「花山院忠長(二十二才)」と符合してくるのは、何とも妙なる想いがしてくる。
 この「猪熊事件」を契機として、「慶長18年(1613年)に公家を取締るための公家衆法度が制定され、また、幕府の宮中に対する干渉を更に強めることとなり、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となっていく」ということになる。
 この「猪熊事件」が起きた当時、後陽成天皇は、四十歳に満たない頃で、以後、「天皇は女院とも意志の隔たりを生んで側近の公家衆や生母、皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり」、その退位時の、次の「後水尾天皇」との関係も、没する時まで、決して良好なるものではなかった。
 また、「猪熊事件」に、「徳大寺実久《二十七歳》・花山院忠長《二十二歳》」と、その「長子・嫡子」の二人を連座させた「花山院家」(花山院定煕)も惨憺たるものであった。この「定煕」の配流となっている「忠長」に宛てた書状などが、今に、「松前藩・津軽藩」関係文書の中で散見されている。 

by yahantei (2021-07-21 10:19) 

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