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源氏物語画帖「その四十 御法」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

40 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四)  源氏51歳

長次郎・御法.jpg

源氏物語絵色紙帖  御法  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・御法.jpg

源氏物語絵色紙帖  御法 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C%A

  薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、
(第一章 紫の上の物語 第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答)

1.3.4  薪こる思ひは今日を初めにて  この世に願ふ法ぞはるけき
(仏道へのお思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう)
1.3.5 夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。 ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、 百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、
(一晩中、尊い読経の声に合わせた鼓の音、鳴り続けておもしろい。ほのぼのと夜が明けてゆく朝焼けに、霞の間から見えるさまざまな花の色が、なおも春に心がとまりそうに咲き匂っていて、百千鳥の囀りも、笛の音に負けない感じがして、)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十帖 御法
 第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語
  第一段 紫の上、出家を願うが許されず
  第二段 二条院の法華経供養
  第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答
(「西園寺実晴」書の「詞」) →  1.3.4 1.3.5 
  第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答
  第五段 紫の上、明石中宮と対面
  第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉
 第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀
  第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける
  第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す
  第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る
  第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る
  第五段 紫の上の葬儀
 第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち
  第一段 源氏の悲嘆と弔問客
  第二段 帝、致仕大臣の弔問
  第三段 秋好中宮の弔問

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3804

源氏物語と「御法」(川村清夫稿)

【 紫上は、「若紫」の帖で光源氏が18歳の頃から連れ添ってきた、最高の人生の伴侶だった。正妻だった葵上のように子種には恵まれなかったが、光源氏が慕っていた藤壺女御そっくりの容貌と、高い教養と温和な性格を兼ね備えた、源氏物語における最高の女性であった。しかし「若菜」の帖で女三宮が光源氏の正妻格になってからは、「厄年」である37歳を境に体調を崩していった。
 「御法」の帖では、紫上は死期を悟り、明石の君、花散里、匂宮に別れを告げた。そして秋の夕暮れに、光源氏と明石中宮と和歌を詠み交わす間に、紫上は容体を崩し、明石中宮に看取られて息を引き取ったのである。
 それでは紫上の死の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」
とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、
「いかに思さるるにか」
とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騒ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
「もうお帰りなさいませ。気分がひどく悪くなりました。お話にもならないほどの状態になってしまったとは申しながらも、まことに失礼でございます」
と言って、御几帳引き寄せてお臥せになった様子が、いつもより頼りなさそうにお見えなので、
「どうあそばしましたか」
とおっしゃって、中宮は、お手をお取り申して泣きながら拝し上げなさると、本当に消えてゆく露のような感じがして、今が最期とお見えなので、御誦経の使者たちが、数えきれないほど騒ぎだした。以前にもこうして生き返りなさったことがあったのと同じように、御物の怪のしわざかと疑いなさって、一晩中いろいろな加持祈祷のあらん限りをし尽くしなさったが、その甲斐もなく、夜の明けきるころにお亡くなりになった。

(ウェイリー英訳)
“Now,” she said presently, “you had better go back to your rooms. I am feeling very giddy; and though I know you would forgive me if I did not entertain you properly. I do not like to feel that I have been behaving badly.” Her screens-of -state were drawn in close about the couch. The Princess stood holding Murasaki’s hand in hers. She seemed indeed to be fading like a dewdrop from the grass. So certain seemed the approach of death that messengers were sent in every direction to bid the priests read scriptures for her salvation. But she had more than once recovered from such attacks as these, and it was hoped that this was merely another onslaught of the “possession” that had attacked her years before. All night long various prayers and incantations were kept going, but in vain; for she died next morning soon after sunrise.

(サイデンステッカー英訳)
“Would you please leave me?” said Murasaki. “I am feeling rather worse. I do not like to know that I am being rude and find myself unable to apologize.” She spoke with very great difficulty.
The empress took her hand and gazed into her face. Yes, it was indeed like the dew about to vanish away. Scores of messengers were sent to commission new services. Once before it had seemed that she was dying, and Genji hoped that whatever evil spirit it was might be persuaded to loosen its grip once more. All through the night he did everything that could possibly be done, but in vain. Just as light was coming she faded away.

 ウェイリーもサイデンステッカーも明石中宮の台詞を省略したが、原文に忠実な翻訳をしている。明石中宮をウェイリーはPrincess、サイデンステッカーはempressと訳している。紫上の死「消え果てたまひぬ」を、ウェイリーはshe diedと普通に訳したが、サイデンステッカーはshe faded awayと、原文に忠実に訳している。

 夕霧が紫上のなきがらを見つめると、類もないほど美しく、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」(死に入ろうとする魂がそのままこの御亡骸に止まっていてほしい)と思った。夕霧の切ない気持ちを、ウェイリーは原文を改作して、Yugiri was astounded. His spirit seemed to leave him, to float through space and hover near her, as though it were he that was the ghost, and this the lovely body he had chosen for his habitation.と訳している。サイデンステッカーは原文に忠実に、He almost wished that the spirit which seemed about to desert him might be given custody of the unique loveliness before him.と訳している。

 紫上の葬儀に関しては、「限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬる」(この上もなく厳めしい葬儀であるが、まことにあっけない煙となって、はかなく上っていっておしまいになった)とあるが、ウェイリーは省略している。サイデンステッカーは原文に忠実に、The services were solemn and dignified, and she ascended to the heavens as the frailest wreath of smoke.と訳している。

 最愛の妻である紫上を失った光源氏は、出家するために身辺整理をはじめるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その三十)

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/genji/

五島美術館・御法.jpg

「国宝 源氏物語絵巻」(大東急記念文庫蔵)の「御法」(絵・詞書第三面(第五紙)・詞書第二面(第三・四紙))
【「国宝 源氏物語絵巻」(大東急記念文庫蔵)
平安時代の11世紀、関白藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房紫式部(生歿年未詳)は、『源氏物語』を著し、主人公光源氏の生涯を軸に平安時代の貴族の世界を描いた。 「源氏物語絵巻」は、この『源氏物語』を絵画化した絵巻で、物語が成立してから約150年後の12世紀に誕生した、現存する日本の絵巻の中で最も古い作品である。 『源氏物語』54帖の各帖より1~3場面を選び絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式の、 当初は10巻程度の絵巻であったと推定( 2 0 巻説もあり)。現在は5 4 帖全体の約4 分の1 、巻数にすると4巻分が現存する。江戸時代初期に、3巻が尾張徳川家に、1巻が阿波蜂須賀家に伝来していたことがわかっているが、それ以前の古い伝来は不明。 徳川家本は現在、愛知・徳川美術館が収蔵。蜂須賀家本は江戸時代末期に民間に流出、現在、五島美術館が収蔵する(「鈴虫」2場面、「夕霧」、「御法」の3帖分)。 両方とも昭和7年(1932)、保存上の配慮から詞書と絵を離し、巻物の状態から桐箱製の額装に改めた。「詞書」も「絵」も作者は不明。「詞書」の書風の違いから、五つのグループによる分担制作か。 「絵」の筆者を平安時代の優れた宮廷絵師であった藤原隆能(?~1126~74?)と伝えるところから、本絵巻を「隆能源氏」とも呼ぶ。

御法(絵・詞書第三面(第五紙)・詞書第二面(第三・四紙・詞書第一面(第一・二紙))

『源氏物語』第40帖「御法」。光源氏の最愛の妻である紫上が重病にふし、源氏と明石中宮(光源氏と明石上の娘/紫上が養育)に最後の別れを告げる場面。命のはかなさを、庭に咲く萩に付いた露にたとえて、3 人は和歌を詠み交わす。やがて、紫上の病状はにわかに悪化し、源氏に別れを告げると、横になって間もなく、明石中宮に手を取られながら静かに息を引き取った。風に吹きすさぶ萩や薄・桔梗・女郎花など秋草の繊細な描写が、3人の詠歌と悲しい心情を象徴する。 】

http://www.genji-monogatari.net/

(「紫上・明石君・花散里・光源氏」の詠唱)

惜しからぬこの身ながらもかぎりとて  薪(たきぎ)尽きなむことの悲しさ(紫上)
(惜しくもないこの身ですが、これを最後として、薪の尽きることを思うと悲しうございます)
薪こる思ひは今日を初めにて  この世に願ふ法ぞはるけき(明石君)
(仏道へのお思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう)

絶えぬべき御法(みのり)ながらぞ頼まるる  世々にと結ぶ中の契りを(紫上)
(これが最後と思われます法会ですが、頼もしく思われます 生々世々にかけてと結んだあなたとの縁を)
結びおく契りは絶えじおほかたの  残りすくなき御法なりとも(花散里)
(あなた様と御法会で結んだ御縁は未来永劫に続くでしょう。普通の人には残り少ない命とて、多くは催せない法会でしょうとも)

おくと見るほどぞはかなきともすれば  風に乱るる萩のうは露(紫上)
(起きていると見えますのも暫くの間のこと、ややもすれば風に吹き乱れる萩の上露のようなわたしの命です)
ややもせば消えをあらそふ露の世に  後れ先だつほど経ずもがな(光源氏)
(どうかすると先を争って消えてゆく露のようにはかない人の世に、せめて後れたり先立ったりせずに一緒に消えたいものです)
秋風にしばしとまらぬ露の世を  誰れか草葉のうへとのみ見む(明石君)
(秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を、誰が草葉の上の露だけと思うでしょうか)
「堂上公家の『家礼・門流』と「猪熊事件」関係公家(※印)

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/kuge/kuge_h.htm

《近衛殿家礼》50家
※広橋・柳原・西洞院・吉田・土御門・舟橋・滋野井・※難波・持明院・※山科・※高倉・※四辻・※水無瀬・竹内・竹屋・裏辻・日野西・平松・長谷・交野・石井・萩原・七条・富小路・櫛笥・高野・裏松・石野・外山・小倉・八条・芝山・北小路・北小路・慈光寺・町尻・桜井・山井・錦小路・錦織・西大路・園池・豊岡・三室戸・北小路・阿野・万里小路・正親町三条・勘解由小路・日野
《九条殿家礼》20家
鷲尾・綾小路・五辻・堀河・伏原・樋口・唐橋・油小路・澤・下冷泉・坊城・葉室・姉小路・高松・風早・山本・大宮・甘露寺・勧修寺・穂波
《二条殿家礼》4家
白川・岡崎・中御門・花園
《一条殿家礼》37家
醍醐・西園寺・※花山院・※大炊御門・今出川・※松木・清水谷・四条・※飛鳥井・野宮・藪・※烏丸・正親町・中山・今城・清閑寺・園・橋本・梅園・中園・壬生・池尻・梅小路・石山・六角・庭田・大原・岩倉・千種・植松・高辻・五条・東坊城・清岡・桑原・倉橋・藤波
《鷹司殿家礼》8家
冷泉・藤谷・入江・西四辻・梅溪・高丘・藤井・堤

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分

慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪 
   
※左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

※左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
※左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
※左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
※左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
※右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)

※新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
※権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
※中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

(追記)近衛太郎君筆倶胝和尚自画賛

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/17

太郎君・自画賛.jpg

【上方の賛の最後に見える花押は、近衛太郎君のもの。近衛太郎君は、「信尹公息女」(『古筆流儀分』)「三藐院公ノ長女」(『皇朝名画拾彙』)とあるように、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉の娘で、筆跡は三藐院流(信尹の書風)の書き手と知られ、さらに画技では、父信尹が得意とした達磨・布袋・人麿の画賛に傑出した画才を発揮したという。実際に、歌仙色紙、書状、画賛等々、いくつもの遺例が現存する。ところが、「太郎」という名前や花押の存在に加えて、信尹そっくりのいかにも男性的な書風を勘案して、太郎君が男性であったとも説もあり、いずれを決する確固たる証明もなく、謎につつまれている。本図は、中国・唐代の人、倶胝和尚を描いたもの。この倶胝和尚、小院の住持に収まっていた若いころ、ひとりの尼(実際尼)が訪ね来て、「速やかに一句を」との問いに、倶胝は何も答えることができなかった。その悔しさで、寺を棄てて諸方遊歴を決意。そのうち馬祖道一の法孫・天竜智洪に参じ、この事を尋ねた。すると天竜は、何もいわずにただ1本の指を突き出して見せた。その瞬間、倶胝は大悟を得たという。これが、一指頭禅(倶胝指頭の禅・倶胝の一指・倶胝竪指とも)と言われる禅の公案。倶胝は以後生涯にわたって禅旨を問う者あればいつも指を1本立てて示したという。本図は、倶胝が指を1本立てた姿を略画したもの。上部の賛の書風がいかにも信尹の書そのものを彷彿とさせるほど酷似する。おそらくは、画・賛ともに、信尹の手本の存在を思わせる。「写し絵は何とてものをいはざらむささくる指のものをいふとて」

(釈文)

うつしゑハなにとてものをいはさらむさゝくるゆひのものをいふとて (花押)  】

(参考)

http://www.asahi-net.or.jp/~ZU5K-OKD/house.14/mumonkan/gate.2.htm

 倶胝竪指 (ぐていじゅし)

【彼は若い頃、山中の庵で一人座禅をしていました。そうしたある日、実際尼という

尼僧の訪問を受けました。ところがこの尼さん、あろうことか笠を付けたまま庵室に

入って来ました。しかも、無礼にも錫杖をジャランジャランと鳴らしながら、倶胝の周

りを三週したといいます。それから、彼の正面に立って、こう言いました。

「もしあなたが、私を満足させる一語を言い得るならば、笠を取りましょう...」


  尼僧は、三度問うたが、倶胝は何とも答えられなかった。彼はまだ、心眼が開け

てはいなかったのです。すると、尼僧はさっさと出て行こうとしました。そこで、ようや

く倶胝はこう言いました。

「もう、日もだいぶ傾いてきました。今夜は、ここに泊まっていってはどうですか」

                (倶胝は、見事に一語を言い得ています...しかし、自分ではそれに気がつきません)

  すると、尼僧は折りたたむように、こう言いました。

「もし、あなたが、一語を言い得たらば、泊まりましょう...」


  しかし、やはり倶胝は何も答えられなかった。ここで倶胝は大いに反省し、一念発

起しました。このまま、一人ここで座禅をしていてはダメだと思ったのです。すぐさま、

諸国に名僧を訪ね、修行の旅に出る事を決意したのです。ところが、倶胝はこの夜、

夢を見ました。そして、その夢の中で、こうお告げを受けたのです。

「近くこの草案に、そなたの師となる優れた禅匠が訪れるであろう...」


  そこで倶胝は、しばらく山に留まることにしました。すると十日ほどたった頃、一人

の老僧が庵にやってきました。大梅法常禅師の法嗣・天竜禅師でした。倶胝は、礼

を尽して迎え入れ、尼僧との事、夢のお告げの事、などを話し、

“禅の根源的な一句”


  ...とは何かと問いました。この時、天竜禅師は、黙ってただ“一指”を立てまし

た。するとこの瞬間、倶胝は忽然と心中の暗雲が晴れました。彼は心眼が開け、

大悟したのです。以来、倶胝はこの“天竜の一指頭の禅”を確立し、一生涯使い続

けました。しかし、臨終の際、これを使いきる事が出来なかったと言っています。

  そこには、何とも広大で明快な、禅的な世界が広がっていたのです。そしてこの

“無門の関”を通れば、向こうには趙州も南泉も馬祖もいます。五祖・弘忍、初祖・菩

提達磨の姿も透けて見えます。彼らはみな同じ心で、二元的対立を超えた、この世

界の真理を見つめています。

 

  倶胝禅師の“一指頭の禅”とは、まさに痛快きわまる禅の境涯です。私の説明な

どは、全て蛇足になります。が、未熟者ゆえ、あえてその蛇足を述べておきます。

  ここで重要なのは、一指を立てる事ではありません。重要なのは、まさに倶胝の

激しい草案での修行が、機を熟していたということです。しかも、ここで尼僧に何も

答えることが出来ず、倶胝は“大地黒漫々”の状況に叩き込まれていました。諸国

行脚の修行に出るなどとうろたえたのも、まさにその狼狽振りを示しています。そし

て、そこに...
 

  天竜禅師の一指!
 

  ...です。ここはもはや、理屈ではありません。この“一指”によって倶胝は、主体

とか客体とかの二元的世界を超越し、内外打成一片(ないげだじょういっぺん)<ジャンプ> の

風景を見たのです。】

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yahantei

『源氏物語画帖」の「詞書」の、二十三名の筆者のうち、若手の、次の筆者は、この画帖のキィーポイントの筆者ということになろう。

西園寺実晴(1600-1673)→ 横笛・鈴虫・御法
烏丸光賢(1600-1638) → 薄雲・槿
近衛信尋(1599-1649) → 澪標・乙女・玉鬘・蓬生  
近衛太郎(君)(1598?-?)→ 花散里・賢木

この、ただ一人、女性と思われる「近衛太郎(君)」(「近衛信尹息女)については、上記の「近衛信尋・太郎(君)」の関係するところで触れてきたが、下記のアドレスのものは、当時、見落としていた。これは、「太郎(君)」関連では、見落としてはならない情報の一つであろう。

 https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1767

近衛太郎君筆倶胝和尚自画賛



【上方の賛の最後に見える花押は、近衛太郎君のもの。近衛太郎君は、「信尹公息女」(『古筆流儀分』)「三藐院公ノ長女」(『皇朝名画拾彙』)とあるように、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉の娘で、筆跡は三藐院流(信尹の書風)の書き手と知られ、さらに画技では、父信尹が得意とした達磨・布袋・人麿の画賛に傑出した画才を発揮したという。実際に、歌仙色紙、書状、画賛等々、いくつもの遺例が現存する。ところが、「太郎」という名前や花押の存在に加えて、信尹そっくりのいかにも男性的な書風を勘案して、太郎君が男性であったとも説もあり、いずれを決する確固たる証明もなく、謎につつまれている。本図は、中国・唐代の人、倶胝和尚を描いたもの。この倶胝和尚、小院の住持に収まっていた若いころ、ひとりの尼(実際尼)が訪ね来て、「速やかに一句を」との問いに、倶胝は何も答えることができなかった。その悔しさで、寺を棄てて諸方遊歴を決意。そのうち馬祖道一の法孫・天竜智洪に参じ、この事を尋ねた。すると天竜は、何もいわずにただ1本の指を突き出して見せた。その瞬間、倶胝は大悟を得たという。これが、一指頭禅(倶胝指頭の禅・倶胝の一指・倶胝竪指とも)と言われる禅の公案。倶胝は以後生涯にわたって禅旨を問う者あればいつも指を1本立てて示したという。本図は、倶胝が指を1本立てた姿を略画したもの。上部の賛の書風がいかにも信尹の書そのものを彷彿とさせるほど酷似する。おそらくは、画・賛ともに、信尹の手本の存在を思わせる。「写し絵は何とてものをいはざらむささくる指のものをいふとて」

by yahantei (2021-07-24 10:54) 

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