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源氏物語画帖「その四十七 総角」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四)  薫24歳秋-冬

光吉・総角.jpg

源氏物語絵色紙帖  総角  画・長次郎
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久我・総角.jpg

源氏物語絵色紙帖  総角  詞・久我通前
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(「久我通前」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/22/%E7%B7%8F%E8%A7%92_%E3%81%82%E3%81%92%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96_%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

明け行くほどの空に妻戸押し開けたまひてもろともに誘ひ出でて見たまへば霧りわたれるさま所からのあはれ多く添ひて例の柴積む舟のかすかに行き交ふ
(第四章 中の君の物語 第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十七帖 総角
 第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
  第一段 秋、八の宮の一周忌の準備
  第二段 薫、大君に恋心を訴える
  第三段 薫、弁を呼び出して語る
  第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)
  第五段 薫、大君の寝所に迫る
  第六段 薫、大君をかき口説く
  第七段 実事なく朝を迎える
  第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる
  第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問
  第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める
  第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す
  第四段 大君、弁と相談する
 第五段 大君、中の君を残して逃れる
 第六段 薫、相手を中の君と知る
  第七段 翌朝、それぞれの思い
 第八段 薫と大君、和歌を詠み交す
 第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚
  第一段 薫、匂宮を訪問
  第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う
  第三段 薫、中の君を匂宮にと企む
  第四段 薫、大君の寝所に迫る
  第五段 薫、再び実事なく夜を明かす
  第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く
  第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜
第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜
 第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める
  第二段 薫、明石中宮に対面
  第三段 女房たちと大君の思い
  第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる
  第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く
  第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える
  第八段 匂宮、中の君を重んじる
 第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
  第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り
  第二段 一行、和歌を唱和する
第三段 大君と中の君の思い
  第四段 大君の思い
  第五段 匂宮の禁足、薫の後悔
 第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う
 第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護
  第一段 薫、大君の病気を知る
  第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る
  第三段 中の君、昼寝の夢から覚める
  第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く
  第五段 薫、大君を見舞う
  第六段 薫、大君を看護する
  第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る
  第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う
 第九段 薫、大君に寄り添う
 第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
  第一段 大君、もの隠れゆくように死す
  第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり
  第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆
  第四段 雪の降る日、薫、大君を思う
  第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問
  第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
  第七段 歳暮に薫、宇治から帰京

(参考)

【久我 通前(こが みちさき)
生誕 天正19年10月14日(1591年11月29日)
死没 寛永12年10月24日(1635年12月3日
 元和元年(1615年)に叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・左近衛中将を経て、寛永元年(1624年)後水尾天皇の中宮徳川和子の中宮権亮となるが寛永6年(1629年)の天皇の譲位にともない辞職。寛永7年(1630年)より権中納言に転じた。寛永8年(1631年)に正三位となったが、寛永12年(1635年)には薨去した。享年45。 】

(「三藐院ファンタジー」その三十七)

左五下・二条城大手門・公家一行.jpg

「大手門を潜る公家一行」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)

《二条城の大手門を潜る一行は誰か?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P167-169)

「二条城の大手門には、今しも立烏帽子・狩衣。指貫姿の公家が一人やってきており、裃姿の武士たちが迎えている。この公家には風折烏帽子の公家が三人付き従っており、その背後には白丁たちがいる。この公家は何者か? そして、この公家は何のために二条城に来たのか?

左六下・二条城内振舞準備.jpg

「振舞い料理の準備」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇下部)

《二条城の大手門を潜る一行は誰か?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P167-168)

「二条城内で料理の真っ最中である。包丁人が調理しようとしているのは鯛と鯉であり、鴨であろうか。毛をむしり、内臓を取り去った鳥を洗っている。竈では煮炊きが始まっている。これは、所司代板倉勝重が、その公家を招待し、その振舞いの料理の準備している図だ、その公家は武家伝奉ではなかろうか?

《武家伝奉》《武家伝奉が一人だけだった時期がある》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P168-170)

「朝廷と幕府の交渉を担った公家の役職。慶長八年(一六〇三)から、武家伝奉は、広瀬兼勝と勧修寺光豊の二人であった。その勧修寺光豊が、慶長十七年(一六一二)十月十七日に亡くなり、その後任の三条西実条が任命されたのは、慶長十八年(一六一三)七月十二日のことであった。この新武家伝奉が任命される約八か月余り、武家伝奉は広橋兼勝が一人で武家伝奉を努めていた。

《駿府の広橋兼勝と板倉勝重》《公家衆法度の制定》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P170-172)

「武家伝奉が広橋兼勝一人だけであった、この時期は、丁度、公家衆法度の作成プロセスと合致する時期であった。慶長十八年(一六一三)四月九日、武家伝奉広橋兼勝は駿府に下った。駿府の大御所徳川家康の下で、京都所司代板倉勝重と武家伝奉広橋兼勝とは、この任に当たったのである。そして、同年六月十六日に、大御所徳川家康は公家衆法度を制定した。

 諸公家(公家衆)法度

一、公家衆家々之学問(以下略)=要約( 公家は各家の代々の学問に油断無く励むべきこと)
一、不寄老若背行儀法度(略)=要約( 行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと)
一、昼夜之御番老若背行為(略)=要約( 昼夜懈怠なく老若共に仕事を相勤むべきこと)
一、夜昼共ニ無指用所ニ(略)=要約(昼夜用無き所に徘徊することを堅く禁ずること)
一、公宴之外私ニテ不似合勝負(略)=要約(賭事・不行儀の公家近侍も先条に因ること)

 この「公家衆法度五ヵ条」は、慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」を踏まえての、公家衆の風儀の矯正を狙いとしたもので、特に、その二条の「行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと(但し、罪の軽重に依る「年序」別に定るべきこと)」は、公家衆の予期せぬものであったことが、『時慶卿日記』(慶長十八七月十二・十三日条)から読み取れる。」

【(メモ)
 この「諸公家(公家衆)法度」が、さらに、大坂の夏の陣で、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(一六一五)七月十七日に、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」が、京都二条城で「本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形」で制定され、同月三十日に、公家・門跡衆に公布されることになる。
 この「「禁中並公家諸法度」については、次のアドレスのものを、「原文・読み下し文・注釈・現代語訳」の全文を掲載して置きたい。

http://gauss0.livedoor.blog/archives/2559131.html

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830~887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659~720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676~735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792~867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?~715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695~775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)          】

《板倉勝重、広橋兼勝を招いて振舞う》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P172-174)

「『時慶卿記』の慶長十八年(一六一三)七月三日条に、京都所司代板倉勝重が武家伝奉広橋兼勝を招宴した記載があり、この「洛中洛外図・舟木本」(左隻第五扇下部)に描かれている「大手門を潜る公家一行」は、この時のものであることが裏付けられる。」
 もう一方の、京都所司代板倉勝重は、次の「二条城内での裁判」(左隻第六扇下部)で、民事訴訟を裁いている図で描かれている。

《二条城と所司代屋敷》《舟木屏風の制作は元和元年の禁中並公家諸法度制定以前である》《二条城の民事裁判》《民事訴訟を裁く京都所司代板倉勝重》《京の秩序を守る所司代》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P174-178)

「実際の『武家伝奉広橋兼勝の招宴』や、『民事訴訟の裁判』をする所は、二条城に隣接した所司代屋敷であろうが、この舟木屏風では、それらを一体のものとして、二条城の一角での図として描かれている。」


左六下・二条城内裁判.jpg

「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)

「女が何事かを懸命に訴えている。縁で訴状が読み上げられ、周囲には武士や訴訟関係者たちが取り巻いている。この中央の武士は誰か? 」

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)

「この中央の武士の羽織には、かすかに九曜紋が読み取れる。板倉(勝重)家の家紋は、『左巴・九曜巴・菊巴・花菱』などである(『寛政重修諸家譜』)。これは「九曜巴」で、この中央の武士こそ、板倉勝重なのである。」
 (メモ) 板倉勝重は、徳川家康の信任が厚く、慶長六年(一六〇一)に京都所司代となり、十八年に及び市政に尽力し、『板倉政要』(判例集)は彼と子重宗の京都市政の記録で、その名奉行ぶりは夙に知られている。その書は本阿弥光悦に学び、元和元年(一六一五)の、光悦の「鷹峯」(芸術の村)移住なども、家康との仲介をとり、板倉勝重の配慮として伝えられている。」

鷹を手に据える公家.jpg

「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)

《堀川の上で拳に鷹を据えている『かぶき者』》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P161-162)
↓ 
「堀川に架かっている橋の上には、不思議な着流し姿の四人組の男と彼らに付き従っている一人の少年の姿がある。そのうち三人の男は茶筅髷で羽織(胴服か)を着ており、大小の刀を腰に差している。左の二人は髭を生やしている。今一人は銀杏髷(二つ折り髷)で、羽織は着ていない。少年は羽織袴姿で、刀を肩に担いでいる。かれらの衣服には派手な文様があり、いかにも「かぶき者」的な姿に描かれている。
 注目すべきは、彼らのうち二人が、拳に鷹を据えていることだ。鷹を扱う一番の基本は、鷹を拳にとまらせることで、これを「据える」といい、鷹を拳に据えられるようになったら、町中を出歩く。これを「据え回し」という。しかし、男たちは着流し姿であり、「据え回し」というよりも、鷹を拳に据えてたむろしているという図である。」

《公家の鷹狩りは禁止された》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P162-1653

「『言緒卿記』(慶長十七年六月八日条)によれば、『鷹狩り』は公家には相応しくないということで、大御所家康の「(公家の)放鷹禁止」の「上位」が、京都所司代板倉勝重を通して、武家伝奉に伝えられたのである。」

【(メモ)
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2904&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「近世の鷹狩をめぐる将軍と天皇・公家」(,根崎光男稿)」によると、この「公家の統制と鷹狩禁止策」は、この時点では、江戸幕府の意向を受けて、朝廷側で、その幕府の意向を受けての「朝廷法」ともいうべきもので、「若輩之公家」の「鷹狩禁止」ということで、徹底しているものではなかった。
 しかし、慶長十八年(一六一三)六月十六の「諸公家(公家衆)法度」、そして、慶長二十年あけて元和元年 (一六一五)七月十七日制定の「「禁中並公家諸法度」により、「朝廷法」というのは「幕府法令」と化して行く。 】

《公家の「かぶき者」たち》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P163-165)

「『かぶき者』というと、武士のそれを思い浮かべるかもしれないが、それは違う。慶長十年代の京都らは、公家のなかかにも『かぶき者』がいた。「かぶき者」たちが公家社会に横行していたのである。」

「辻切りの横行と公家に向けられた嫌疑」「諸公家(公家衆)法度」↓
「この慶長十年代、公家社会の中に、辻斬りをする『かぶき者』が横行していたのである。このような公家の『かぶき者』の行動を取り締まり、あるべき公家の姿に統制して意向とするものが、『公家の放鷹禁止』、そして、それに続く『諸公家(公家衆)法度』」であった。」

《公家の姿かたちとは》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P166)

「公家のフォーマルな姿は、『束帯姿や烏帽子直衣姿』の公務のイメージであるが、『普段着の公家の姿』は、この図のように、京の町に出歩く際に、武士と同じような姿をしていたのであろう。」

《振り返って二条城を見ている「かぶき者」の公家》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P166-167)

「この堀川の橋にいる四人の男(そのうちの二人は鷹を据えている)は、鷹狩りの好きな四人の公家なのだ。そして、鷹狩りを一部の武家の特権として、公家は公家らしく、鷹狩りなどは禁止するという幕府の統制に、冷ややかな眼差しをもって、その幕府の統制に一翼を担っているような、二条城の大手門を潜ろうとしている、武家伝奉一行を見守っている図のようである。」(要点要約・意訳)

かぶき公家供揃図.jpg

「かぶき公家供揃図」(古田織部美術館蔵)
https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=3461

http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

 この「かぶき公家供揃図」について、下記のアドレスで、次のような記事を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-27

【 江戸初期の慶長年間(1596-1615)、京ではかぶき(傾き)者(いたずら者)の文化が一世を風靡していました。なかでも、「かぶき手の第一」(『当代記』)といわれたのが、織田信長の甥・織田左門頼長(道八)です。また、公家の世界では、「天下無双」の美男と称され、ファッションリーダーでもあった猪熊少将教利、彼と親しかった烏丸光広などの若い公家たちの行動が「猪熊事件」へと発展します。さらに、「天下一」の茶人だった古田織部が好んだ、奇抜で大胆な意匠の茶器や斬新な取り合わせも、数寄の世界でかぶきの精神を表現したものといえるでしょう。本展では、織部好みの茶器や刀、織田頼長の書状、猪熊事件に連座した公家衆の直筆短冊などの品を通して、かぶいた武士・公家衆の人物像を探ります。 
※「光源氏」になぞらえた京のファッションリーダー猪熊少将の「猪熊様」と言われた髪型をついに解明! → 「かぶき公家供揃図」には、月代(さかやき)を大きく剃った大額(おおひたい)に茶筅髷(まげ)、襟足を伸ばして立てるという異風の髪型の公家が描かれているが、これが「猪熊様(よう)」と推定されます。  】

 先ほどの「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)の四人は、普段着ではなく、フォーマルな公家姿で、例えば、天正九年(一五八一)の、織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードの「京都御馬揃え」時の「公家衆」と仮定すると、次のようなメンバ―の、そこに出てくる公家衆の普段着の姿のようにも思われるのである。

【 公家衆:近衛殿(近衛前久)、正親町中納言殿(正親町季秀)、烏丸中納言殿(烏丸光宣)、日野中納言殿(日野輝資)、高倉藤衛門佐殿(高倉永孝)、細川右京大夫殿(細川信良)、細川右馬殿(細川藤賢)、伊勢兵庫頭殿(伊勢貞為)、一色殿(一色義定)、山名殿(山名氏政)、小笠原(小笠原長時)、高倉永相、竹内長治   】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 そもそも、若き日の織田信長の「茶筅髷」(毛先を茶筅のように仕立てた男性の髪型)が「かぶき者」の代名詞とすると、公家衆の筆頭の「かぶき者」は、当時の、「武闘派」の「騎馬好き・鷹狩好き」の「近衛前久(龍山)」(「近衛信尹の父」)の英姿と重なってくる。
 そして、「猪熊事件」で処罰を受けた公家衆(猪熊教利・大炊御門頼国・花山院忠長・飛鳥井雅賢・難波宗勝・松木宗信・烏丸光広・徳大寺実久) は、これらは、全て、この武闘派」の「かぶき者」の公家「近衛前久(龍山)・近衛信尹(三藐院)」に連なる、上層公家衆の面々ということになろう。
 ここで、「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)の四人は、「猪熊教利(四辻家四男・山科家相続、後に別家の猪熊家)・四辻季満(教利の兄・四辻家の長男・鷲尾家相続)・四辻季継(教利の兄・四辻家四男・四辻家相続)・高倉(藪)嗣良(教利の弟・四辻家の五男・高倉家相続)と見立てるのも一興であろう。
 ちなみに、後水尾天皇の典侍で、一男一女を生み、東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放された「およつ御寮人事件」の「四辻与津子」は、猪熊教利の妹である。
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yahantei

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3882

源氏物語と「総角」(あげまき)(川村清夫稿)

【宇治の大君は、父の八の宮の遺言に従って、結婚せず宇治で生涯を送る決心をしており、薫の求愛を拒んでいた。薫は中君を匂宮に紹介すると、薫と違って恋愛に積極的な匂宮は、たちまち中君と契りを結んでしまった。十一月になって大君は病気になり、薫は見舞いに駆け付け、修行僧たちに加持祈祷させながら、自らも大君の看病をした。看病のかいもなく、大君は中君のことを心配しながら、「見ている前で物が隠れてゆくように」(見るままにもの隠れゆくやうに)この世を去って、薫は悲嘆にくれるのである。

 それでは死の床の大君と薫の最後の会話と、大君の死に嘆き悲しむ薫の独白を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かく、はかなかりけるものを、思い隈なきやうに思されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、同じこと思ひきこえたまへと、ほのめかしきこえしに、違へたまはざらましかば、うしろやすからましと、これのみなむ恨めしきふしにて、とまりぬべうおぼえはべる」とのたまへば、
「かくいみじう、もの思ふべき身にやありけむ。いかにも、いかにも、異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば、御おもむけに従ひきこえずなりにし、今なむ、悔しく心苦しうもおぼゆる。されども、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」…
「世の中をことさらに厭ひ離れね、と勧めたまふ仏などの、いとかくいみじきものは思はせたまふにやあらむ。見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは、いみじきわざかな」

(渋谷現代語訳)
「このように、はかなかったものを、思いやりがないようにお思いなさったのも効がないので、このお残りになる人を、同じようにお思い申し上げてくださいと、それとなく申し上げましたが、その通りにしてくださったら、どんなに安心して死ねたろうにと、この点だけ恨めしいことで、執着が残りそうに思われます」とおっしゃるので、
「このようにひどく、物思いをする身の上なのでしょうか。何としても、かんとしても、他の人には執着することがございませんでしたので、ご意向にお従い申し上げずになってしまいました。今になって、悔しくいたわしく思われます。けれども、ご心配申し上げなさいますな」…
「世の中を特に厭い離れなさい、とお勧めになる仏などが、とてもこのようにひどい目にお遭わせになるのだろうか。見ている前で物が隠れてゆくようにして、お亡くなりになったのは、何と悲しいことであろうか」

(ウェイリー英訳)
“It was partly,” she said, “because I felt I would not live long that I wanted you to take Kozeri instead of me. In this way I was giving, I felt, not less but more than you asked. If you had listened to me then, with what happy tranquility might I now be going to my death! For there is no other reason that could make me loath to die.” “You asked what was impossible,” he protested. “I had never cared for anyone but you, and indeed could never have brought to you this store of garnered feeling had not fate locked my heart for so long. What I did for Kozeri cannot be undone; but I still believe that you have not the slightest grounds for anxiety on her account.”…
But, as though the gods had determined this time once and for all to wrest his thoughts from the shackles of earthly desire, at each prayer that he uttered he saw her shrink and fade.

(サイデンステッカー英訳)
“I am sorry that I have been so out of things. I may have seemed rude in not doing as you have wished. I must die, apparently, and my one hope has been that you might think of her as you have thought of me. I have hinted as much, and had persuaded myself that I could go in peace if you would respect this one wish. My one unsatisfied wish, still trying me to the world.”
“There are people who walk under clouds of their own, and I seem to be one of them. No one else, absolutely no one else, has stirred a spark of love in me, and so I have not been able to follow your wishes. I am sorry now; but please do not worry about your sister.” …
Was it to push a man towards renunciation of the world that the Blessed One sent such afflictions? She seemed to be vanishing, fading away like a flower.

 ウェイリー訳では大君を総角(Agemaki)、中君を小芹(Kozeri)と呼んでいる。大君の最後の台詞にある「このとまりたまはむ人を、同じこと思ひきこえたまへと、ほのめかしきこえしに、違へたまはざらましかば、うしろやすからまし」をウェイリーはI wanted you to take Kozeri instead of me. In this way I was giving, I felt, not less but more than you asked. If you had listened to me then, with what happy tranquility might I now be going to my death、サイデンステッカーはmy one hope has been that you might think of her as you have thought of me. I have hinted as much, and have persuaded myself that I could go in peace if you would respect this my wishと訳している。薫の台詞にある「いかにも、異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば、御おもむけに従ひきこえずなりにし」を、ウェイリーはI had never cared for anyone but you, and indeed could never have brought to you this store of garnered feeling had not fate locked my heart for so long、サイデンステッカーはNo one else, absolutely no one else, has stirred a spark of love in me, and so I have not been able to follow your wishesと訳している。大君の最期を看取った薫の独白にある「見るままにもの隠れゆくやうに」をウェイリーはhe saw her to shrink and fade、サイデンステッカーはshe seemed to be vanishing, fading away like a flowerと訳している。

 中君は匂宮に引き取られて、匂宮の長男を産むことになるのである。  】
by yahantei (2021-08-11 11:49) 

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