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源氏物語画帖「その四十八 早蕨」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  薫25歳春

長次郎・早蕨.jpg

源氏物語絵色紙帖  早蕨  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

冷泉為頼吉・早蕨.jpg

源氏物語絵色紙帖  早蕨  詞・冷泉為頼
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(「冷泉為頼」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/23/%E6%97%A9%E8%95%A8_%E3%81%95%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B3%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96_%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

年改まりては何ごとかおはしますらむ御祈りはたゆみなく仕うまつりはべり今は一所の御ことをなむ安からず念じきこえさするなど聞こえて蕨つくづくしをかしき籠に入れてこれは童べの供養じてはべる初穂なりとてたてまつれり手はいと悪しうて歌はわざとがましくひき放ちてぞ書きたる
  君にとてあまたの春を摘みしかば常を忘れぬ初蕨なり
(第一章 中君の物語 第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く)

(周辺メモ)

第四十八帖 早蕨
 第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
  第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く
  第二段 中君、阿闍梨に返事を書く
  第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問
  第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う
  第五段 中君、姉大君の服喪が明ける
第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問
第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す
  第八段 薫、弁の尼と対面
  第九段 弁の尼、中君と語る
 第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる
  第一段 中君、京へ向けて宇治を出発
  第二段 中君、京の二条院に到着
  第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す
  第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る
  第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く

(参考)

「冷泉為頼筆和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/690

【冷泉為頼〈れいぜいためより・1592-1627〉は、江戸時代初期の公卿、歌人。為満〈ためみつ・1559-1619〉の長男。寛永4年〈1627〉、従三位に進んだが、この年、36歳で没した。為頼は、歌道をもって朝仕する上冷泉(かみれいぜい)家第7代として家学を継承。父為満とともに小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉の歌道の師をつとめた。また、書は父と同様、遠祖藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風を受け継ぎ、筆線の細太を強調する、典型的な定家流(ていかりゅう)を見事にこなしている。この懐紙は、「松契多春」の歌題により、慶長17年〈1612〉1月19日の御会始における詠とわかる。為頼21歳の筆跡。装飾性の高い書である。「春の日、同じく「松、多春を契る」ということを詠める和歌/侍従藤原為頼/生末の年いくかへりこめつらん松に根ざしの御代の初春」

(釈文)

春日同詠松契多春和謌侍従藤原為頼おひすゑのとしいくかへりこめつらん松にねざしの御代のはつ春         】

(参考) 「智仁親王の源氏物語研究」(小高道子稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/63/0/63_29/_pdf


(「三藐院ファンタジー」その三十八)

鷹を手に据える公家.jpg

「鷹を拳に据える『かぶき者』の公家」(左隻第四扇下部)

 これは、「かぶき者」の武士ではなく、「かぶき者」の公家なのだ。この「左隻第四扇中部」に、次の「突然暴れ出した馬」の図が描かれている。

突然暴れ出した馬.jpg

「突然暴れ出した馬」(左隻第四扇下部)

 二条城に向かう行列一行の、中ほどの二頭の馬が突然暴れ出して、何やら騒動を起こしている。この行列一行は、武士の行列で、この中には「かぶき者の公家」は混ざっていないようである。黒馬の武士は手綱を引き絞り、この黒馬は、後ろの白馬を蹴飛ばしているように見える。そして、この白馬は、前方の「二条城」(左隻第六扇)に行くのを嫌がり、後方の「豊国廟・大仏殿」(右隻第一扇)へ帰らんとし、その白馬の武士は、落馬すまいと、馬の首にしがみついている感じでなくもない。
 すなわち、大胆な「三藐院ファンタジー」的な見方は、当時の「方広寺大仏殿鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣」を背景にしての、「黒馬=東軍、黒馬の武士=徳川秀忠」に対する「白馬=西軍、白馬の武士=豊臣秀頼」を、「突然暴れだした」二頭の馬(「黒馬」と「白馬」とが暗示している、その見立ていうことになる。

乗馬した板倉重昌.jpg

「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(左隻第四・五扇中部)

 この図の暖簾の「銭屋」は、「両替商」(現在の金融業、「本両替」と「脇両替」に分化、「本両替」=小判および丁銀の金銀両替および預金・貸付など信用取引を仲介する業務)、「脇両替」=銭貨の交換・売買などの窓口業務)で、その隣で「脇両替」の店舗を開いている。
「寶」というのは特殊な暖簾で、「寶=豊=豊太閤=豊臣家御用達店」というような感じの暖簾のようである。これと同じような暖簾で「光」という暖簾も、この「洛中洛外図屏風・舟木本」に描かれており、それも「光=太(閤) =豊太閤=豊臣家御用達店」な感じの暖簾と解して置きたい(この「寶」と「光」は(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』をベースにしている)。
 次の「雪輪笹」の暖簾は、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)のもので、その「笹谷」の奥庭(この図の左上)の人物が、笹谷半四郎(その父か祖父)、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主ではないかと『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推定している。
 この通りは「二条通り」なのであろうか(?) この舟木屏風では、右隻の第一扇の「方広寺大仏殿」→「五条大橋」→「五条通り」(右隻第六扇)から左隻第一・二・三扇の「五条通り」を経て、第四扇(上の「「突然暴れ出した馬」)に入り、ここから、「五条通り」が「二条通り」に変身し、そして、次の第六扇の「二条城」に至るという道筋になる。
 即ち、舟木屏風のトリックは、この左隻第四扇の「突然暴れ出した馬」の図あたりに、その種明かしの一端が隠されていると解したい。
この図の後方の「豊国廟・大仏殿」(右隻第一扇)へ帰らんとしているように見える「白い馬」は、「この道は、今まで通ってきた道とは違う」ということで暴れ出し、その白い馬を「蹴飛ばして前方の「二条城」(左隻第六扇)の方に行こうとしている黒い馬」は、「そんなことはない。何故、従順について来ない」のかと暴れだした図という理解である。
そもそも、一つの「洛中洛外図」に、「五条通りと二条通り」を、一本の「通り」に結び付けて、しかも、それを、メインの『東から西へと行く主要な通りにする』という発想は、「奇想」(辻惟雄の命名=「奇想の系譜」「奇想の図譜」「奇想の挿絵」「奇想の発見」ギョッとする絵画」)というネーミングが相応しいのかも知れない。
 しかし、この「奇想」というのは、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」が生きた「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮」の「かぶき者・傾奇者・歌舞伎者=世間の常識や権力・秩序への反発・反骨などの表現」と深く関わっているもので、「数寄者=数寄に傾いた者=茶人・連歌師・俳諧師など」より、さらに傾いている「傾奇者」というネーミングも捨て難い。
 と言うのは、岩佐又兵衛と同時代の「本阿弥光悦・俵屋宗達」などを「数寄者絵師・書家」とすると、岩佐又兵衛は「傾奇者絵師」というネーミングの方が、より好みということに他ならない。
 さて、この「二条城へ向かう武家行列」、そして、その先頭集団の、この「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行」の図の、「銭屋」という暖簾の前の、この「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」は誰か(?)
 この「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」は、先に、「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)に出てくる「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)の、当時の京都所司代の「板倉勝重」の次男坊の、当時、徳川家康の「近習筆頭人」の一人であった「板倉重昌」だと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、推定というよりも、断定に近い「謎解き」を提示している。
 そして、その断定に近い「謎解き」は、「板倉勝重の九曜紋」の「九曜紋」にあらず、「板倉重昌の鞠挟紋」だと、またもや、「家紋」を、その「謎解き」のキィーポイントの一つにしている。

鞠挟紋の駕籠・板倉重昌.jpg

「鞠挟紋の駕籠舁き」(左扇第五扇中部)

 この図の右端が、前図の「黒塗笠を被って乗馬姿の若き武士」の英姿である。その前に誰やらが乗っている「駕籠」が二人の「駕籠舁き」と共に描かれていて、その「駕籠舁き」の交替要員(二人)も後ろに描かれているようである。
この四人の「駕籠舁き」の「揃いの衣服の家紋」は、板倉家の通常の家紋の「左巴三頭や九曜紋」ではなく、この「鞠挟紋」も使用している「板倉重昌」固有の紋のようなのである。それが、「父勝重や嫡男の重宗」(この二人は名「京都所司代」として夙に知られている)と区別出来る、謂わば、「板倉重昌」専用の「板倉家」の家紋で、この「駕籠」に乗っている人物は、「板倉重昌」との謎解きの解を導いている。
当時、家康の「近習出頭人」(大御所の側近で、幕政の中枢に参与した者)の一人であった板倉重正は、駿府に居て、駿府から上洛する時は、駕籠と馬とを利用し、ここは、京の都に入り、駕籠を降りて、乗馬に乗り換えたのであろう。
 そして、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この時の上洛は、「方広寺鐘銘事件に際しての上洛」ではなく、「猪熊事件の際の上洛」との謎解きをしている。
 これらの謎解きは、『源氏物語』の「章と段」の目次ですると、次のような過程を経ての謎解きの展開ということになる。

第六章 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解
 第一段 牛馬の数
 第二段 物資や人を運ぶ牛馬
 第三段 二条通が五条通につながる
 第四段 舟木屏風を座って見る
 第五段 中心軸上に描かれた二つの印象的な集団
 第六段 ドグマからの脱却
 第七段 表現上の焦点となっている二つの集団
 第八段 二条城に向かう武家の行列
 第九段 読解の手かせかりはないか?
 第十段 駕籠舁きの鞠挟紋
第十一段 近習出頭人
第十二段 鞠挟紋は重昌の家紋
第十三段 板倉重昌の上洛とその政治的役割
第十四段 方広寺鐘銘事件での上洛ではない
第十五段 猪熊事件の際の上洛
第十六段 大御所家康の政治意思
第十七段 板倉重昌は乗馬しているのでは?
第十八段 注文主は板倉氏か?
第十九段 五条橋上で踊る一行
第二十段 老後家尼
第二一段 花見踊りの一行の姿
第二二段 傘の文様は?
第二三段 豊国祭礼図屏風の老後家尼
第二四段 高台院の屋敷が左隻第四扇に描かれている
第二五段 どこで花見をしたのか?
第二六段 豊国社の枝垂れ桜は物語る
第二七段 右隻の中心で踊る高台院
第二八段 両隻にある「寶」「光」と豊公贔屓
第二九段 徳川美術館本豊国祭礼図屏風の「豊光」の旗
第三十段 暖簾に豊公敬意の心情を描く
第三一段 右隻は物語る
第三二段 近世風俗画誕生の「坩堝」

 これらの「老後家尼・高台院(北政所禰々=ねね・おね)」や「近習筆頭人・板倉重昌」の背後には、「大御所・徳川家康」が見え隠れしている。その徳川家康も、この「近習筆頭人・板倉重昌」図の上部右(左隻第四扇)に描かれている。

家康の乗っている牛車.jpg

「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」(左隻第四扇上部)

 この牛車には「三つ葉葵と桐紋」があり、「大御所家康か秀忠」が乗っているようだが、
その後ろに、二挺の「手輿(たごし)」が並んでおり、脇には被衣の二人の女と、赤傘をさしかけている侍女が描かれている。この「手輿」には、家康の幼い子息が乗っているようである。
 家康は、慶長十一年(一六〇六)八月十一日に、五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。この参内行列は、その時のものであろうと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推測をしている。
 この前年の慶長十年(一六〇五)に、高台院は、徳川家康の助力のもとに、秀吉の菩提を弔うための「高台寺」を創建しており、ここに、「高台院→徳川家康→板倉重昌」が一線上に結びついてくる。
 ここでは、このような史実に基づく実証的な「謎解き」ではなく、謂わば、「三藐院ファンタジー」の「ファンタジー」(空想・幻想・想像=創造)的な「謎解き」を加味すると、先の、「猪熊事件・方広寺鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣」に大きく関わった「近習出頭人・板倉重昌」(1588-1638)は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」の、後のパトロンとなる、徳川家康の孫の、「越前国北ノ庄(福井)藩主・松平忠直」(1595-1650)が、「板倉重昌の大御所家康に寄せる忠誠心」に、自分の「大御所家康への忠誠心」を重ね合わせ、この七歳程度年上の「板倉重昌」の、この上記の二条城に向かう英姿に、己の姿をダブルイメージしていたような、そんな雰囲気が察知されるのである。
 そして、この「黒塗笠の乗馬姿の板倉重昌」の真上に描かれている、「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この「洛中洛外図・舟木本」の注文主の、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」と推測しているのだが、それを「是」としても、この「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物は、限りなく、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 の、その当時のイメージが、これまた、ダブルイメージとしてオ―バラップしてくるのである。

乗馬した板倉重昌.jpg

(再掲) 「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(左隻第四・五扇中部)

 この図の左上部の「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物が、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 のイメージをも宿しているとすると、この「岩佐又兵衛」と同時代に生きた、「狩野派」に匹敵する大きな画壇を形成してくる「琳派の創始者」と目されている「本阿弥宗達・俵屋宗達」、そして、この二人に深い関係にある、当時の三大豪商の一人の「角倉素庵」なども、この「洛中洛外図・舟木本」の中に、何らかの形で描かれているのではなかろうか?
 これらのことに関して、「角倉素庵」関連では、確かに、この「右隻第六扇と左隻第一扇」の接点の「三条大橋」(左隻第一扇上部)の左手(左隻第二扇上部)に、「角倉了以・素庵」の父子が、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河の「高瀬川」の「船入」場が描かれており、その周辺に「角倉屋敷」などが描かれている雰囲気である。
 それを「寺町通(第二扇上部)→四条通(第二扇中部)→室町通(第二扇中部)→五条通(第二扇中部)に、次の図が出てくる。

扇屋.jpg

「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」(左隻第二扇中部)

 この扇屋は、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「五条は扇の俵屋」と一致する感じで無くもない。とすると、その裏手に描かれている、俳諧師のような数寄者風情の一人は、「俵屋宗達」、そして、もう一人の人物は、「本阿弥宗達」と解しても、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」としては、許容範囲の内ということになろう。
 そして、この五条通りの「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」の図が、二条城(左隻第六扇中部)の方に視線をずらして行くと、二条通りと堀川通りと接点の
「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」(第五扇中部)と、横一線上に繋がってくるのである。
 そして、この「暖簾『銭屋・寶・雪輪笹』の前の武士一行(板倉重昌)」の、板倉重昌の上部に、「洛中洛外図・舟木本」の注文主ではないかと推測されている、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)と、好一対をなしてくるのである。
 この京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)は、「三藐院ファンタジー」風の見方では、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた張本人の「岩佐又兵衛」のイメージと重なるとしたのだが、何やら、この、五条通りの数寄者「俵屋宗達・本阿弥光悦」と、この二条通りの数寄者(「市中の山居人」)「岩佐又兵衛」とは、相互に、何かしらの因縁を有しているような雰囲気を醸し出している。
 なお、『竹斎物語』と「俵屋宗達」の関連などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここで、ひとまず、『源氏物語画帖』周辺の探索は、ピリオドを打って、これまで敬遠していた「岩佐又兵衛」の、そして、未だに、どうにも謎めいた、曖昧模糊としている、その初期の、若干、三十八・九歳時の頃に携わったと言われている、「洛中洛外図屏風・舟木本」へと、そのステップを進めたい。
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yahantei

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3885

源氏物語と「早蕨」(さわらび)(川村清夫稿)

【宇治十帖は、紫式部でなく娘の大弐三位が書いたものだと、室町時代の関白一条兼良は、源氏物語の註釈書「花鳥余情」で主張した。1957年に計量文献学者の安本美典産業能率大学教授は、論文「宇治十帖の作者:文章心理学による作者推定」で、品詞の使用頻度を分析した結果、宇治十帖の作者は紫式部ではなさそうだと推定している。

 宇治十帖は、1952年に劇作家の北条秀司によって、「源氏物語:浮舟」という戯曲にされている。この戯曲は1957年に大映京都で映画化されて、衣笠貞之助監督、八尋不二脚本の下で、長谷川一夫が薫、山本富士子が浮舟、市川雷蔵が匂宮、乙羽信子が中君に扮している。竹村康和による、非常に美しいカラー撮影が印象的である。この映画は、大君の葬儀から浮舟の入水までを描いている。

 匂宮の邸宅に引き取られることになった、中君のもとに薫が訪問して、大君の思い出を話し合いながら、明日に引き払う八の宮の山荘への名残り惜しさを感じるのである。
 それでは、山荘の紅梅の木を前にした薫と中君の会話を、藤原定家による自筆本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家本原文)
「つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、

「見る人もあらしにまよふ山里に
昔おぼゆる花の香ぞする」

言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、なつかしげにうち誦じなして、

「袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて
根ごめ移ろふ宿やことなる」

堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず、
「またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」など、聞こえおきて立ちたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
「所在ない木の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、

「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に
昔を思い出させる花の香が匂って来ます」

言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、

「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが
根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」

止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉多くもなく、
「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」
などと、申し上げお立ちになった。

(ウェイリー英訳)
How many times had she sat with Agemaki at this tree! How often had its beauty driven from both their hearts all thought of their own weariness or misery: “Far hence the soul of her that gazed the winds of fate have carried, but still there lingers as of old the fragrance of the mountain tree.” Such was the poem that she murmured faintly to herself in broken cadences. Kaoru repeated the words tenderly. “Touched by a vanished sleeve, with such familiar scent the tree is charged that scarce can I believe the garden which awaits it is not mine.”
Such was his poem. He managed hastily to brush away the tears that he felt coming, but could not trust himself to speak further. “You must often let me come and talk with you like this,” he said presently, and after settling some points connected with tomorrow’s journey, left the room.

(サイデンステッカー英訳)
Her sister, she remembered, had been especially fond of the plum blossom, and had made use of it for this or that little pleasantly, and sought consolation from it in difficult times as well. The memories too much for her, she recited a poem in a tiny voice that wavered at the point of disappearing:
“Here where no visitor comes save only the tempest,
The scent of blossoms brings thoughts of days now gone.”
Kaoru whispered a reply:
“The fragrance lasts of the plum my sleeves have brushed.
Uprooted now, must it dwell in a distant land?”
He brushed his tears away and left after a few words more. “There will be chances, I am sure, for a good, quiet talk.”
He went out to give orders for the next day.

 大君の和歌を、ウェイリーはFar hence the soul of her that gazed the winds of fate have carried, but still there lingers as of old the fragrance of the mountain treeと訳しているが、原文にない大君の魂を持ち出していて、忠実な翻訳とはいえない。サイデンステッカーはHere where no visitor comes save only the tempest, the scent of blossoms brings thoughts of days now goneと、より忠実な翻訳をしている。薫の返歌に関しては、ウェイリーはTouched by a vanished sleeve, with such familiar scent the tree is charged that scarce can I believe the garden which awaits it is not mine、サイデンステッカーはThe fragrance lasts of the plum my sleeves have brushed. Uprooted now, must in a distant land?と訳しており、渋谷が訳さなかった「「袖ふれし」も訳している。

 中君は匂宮の邸宅に引き取られて、匂宮の子息を産む。大君が忘れられない薫は、中君から、大君にそっくりの異母妹である浮舟の存在を明かされるのである。】
by yahantei (2021-08-16 18:01) 

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