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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十三) [岩佐又兵衛]

(その十三)「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」」は何者か?

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-1図

 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」の正体は何者なのか? この男は、次の「祇園林の乱痴気騒ぎ」(右隻第三扇)にも登場して来る。

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

 現在の八坂神社は、明治元年(一八六八)の神仏分離に際して改められた名称で、それ以前は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていた。この「感神院」の扁額を掲げた鳥居は、「祇園感神院」(「祇園社」・「祇園神社」・「八坂神社」)の鳥居で、その松林(祇園林)のそこかしこで宴会(「乱痴気騒ぎの酒宴」)が行われている。
 その「感神院」の扁額の左上に、両脇を支えられた「へべれけ野郎」(A-2図)は、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)であることは間違い無かろう。
 そして、この「感神院」の扁額の鳥居の下に、何やら、ここにも、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」一行の姿らしきものが描かれている。

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院」の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」)(右隻第三扇中部) → A-3図

豊臣家家系図.jpg

「豊臣家系図」(「寧々(ねね)―おんな太閤記(2009年1月2日放映のテレビ東京開局45周年記念放映番組)」)  → B-1図
https://www.bs-tvtokyo.co.jp/nene/chart.html

 この「キャスト」は次のようなものであった。この「人物像」(キャスト)の中から、上記の「へべれけ野郎」を探すと、「※高台院(寧々)」の甥の「※※木下勝俊(長嘯子)」が、その候補の筆頭に挙がられるであろう。
 しかし、この「木下勝俊(長嘯子)」が、このような「へべれけ」(酔っぱらい)が常態であったのかというと、これは実弟の「※小早川秀秋」(「関ケ原」の戦いで「西軍」から「東軍」へと「寝返った」汚名のままに二十一歳で夭逝(酒毒死?)した「かぶき野郎?」)のイメージが、ここに投影されているものと解して置きたい。
 
【※寧々:仲間由紀恵
豊臣秀吉:市川亀治郎
織田信長:村上弘明
前田利家:原田泰造
豊臣秀長:福士誠治
明智光秀:西村和彦
石田三成:中村俊介
浅井長政:田中実
きい(あさひ):田畑智子
とも:横山めぐみ
まつ:中山忍
やや:星野真里
大蔵卿局:池上季実子
淀の方:吹石一恵
お市:高岡早紀
なか:十朱幸代
徳川家康:高橋英樹
柴田勝家:柴俊夫
孝蔵主:吉沢京子
本多正信:名高達男
本多忠勝:岸本裕二
板倉勝重:下元年世
中山又市:金田明夫
加藤清正:山田純大
小笹/茜:小沢真珠
小督:高橋かおり
大沢基康:本田博太郎
浅野又右衛門:渡辺哲
竹中半兵衛:山崎銀之丞
黒田官兵衛:黒神龍人
大野治長:海東健
豊臣秀次:濱田岳
加藤嘉明:杉山聡
蜂須賀小六:梨本謙次郎
茶々(幼少期):梅原真子→篠原愛実
小督(幼少期):前田里桜→野口真緒
お初:大出菜々子→重本未紗→小林涼子
はな:守田菜生
松の丸:美栞了
つる:樹もも
とら:岩倉沙織
ゆう:加藤千果
えん:白江美佳
摩阿姫:坂口あずさ
正栄尼:川崎あかね
二位局:桐川嘉奈子
こほ:小野晴子
三好吉房:吉見一豊
副田甚兵衛:蟹江一平
佐助:野田裕成→高杉瑞穂
すえ:仁平裕子
豪姫:西本利久
森蘭丸:河野朝哉
丹羽長秀:魁三太郎
佐久間信盛:西園寺章雄
※小早川秀秋:尾上松也
福島正則:樋口浩二
池田輝政:西村匡生
浅野長政:大柴隼人
浅野幸長:櫻井忍
※※木下勝俊(長嘯子):和田正人
こひ:志乃原良子
片桐且元:石井英明
徳川秀忠:浜田学
松平忠輝:鯨井康介
羽柴秀勝:和泉青那
毛利輝元:黒沼弘己
上杉景勝:竹内誠
安国寺恵瓊:窪田弘和
豊臣鶴松:伊賀亮
豊臣秀頼:中村壱太郎
織田信雄:井之上チャル
織田信孝:宮下直紀
鳥居元忠:谷口高史
本多正純:市瀬秀和
足利義昭:木下ほうか    】

寧々・木下家系図.jpg

「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」の実家(「木下家」)略系図 → B-2図
https://katuo29.hatenablog.com/entry/hideyoshimusuko

 「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」は、実子がいなかったせいもあり、一族の子女を可愛がり、特に兄・木下家定の子供(上記B-2図の「勝俊(長嘯子)・利房・延利・俊定・秀秋(小早川)」)らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
 家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。
これらは、高台院と家康とが、必ずしも一般的に伝えられているような相互に親密な関係ではなかったことを証明することの一端なのかも知れない。
 それに引き換え、高台院と徳川秀忠との関係は、「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が十二歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった「高台院と孝蔵主」が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)など、その恩義からか、高台院を手厚く保護しており、上洛するたびに高台院を訪ねているなど、家康との関係以上に、相互に親しい間柄であったことが伺える。
 ここで、「岩佐又兵衛」の実父といわれる、摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主「荒木村重」関連について紹介して置きたい。

【荒木村重 没年:天正14.5.4(1586.6.20) 生年:天文4(1535)

 戦国時代の武将。丹波国多紀郡(兵庫県)波多野氏の一族の出自という説がある。高村(義村)の子。通称弥介。摂津守。法名道薫。父の代から摂津国人池田勝正に仕えたが、永禄11(1568)年10月、織田信長の来攻に支え切れず勝正に従って降伏。翌年1月、三好三人衆が足利義昭を攻めた本国寺の変では,勝正に従軍してこれを撃退した。その後池田氏が内訌で弱体化すると有力家臣として台頭。天正1(1573)年、茨木城主となって和田惟政を高槻城から追い、摂津東半国を勢力下に置く。同年7月、義昭の槙島城蜂起には織田方として参戦。その功により摂津一国の支配を委ねられた。
 天正2年勝正を高野山に放逐し、伊丹城の伊丹忠親を滅ぼし、同城を接収して有岡城と改名。以後山陽方面の軍事を担当し、翌3年播磨浦上氏を攻撃、さらにその翌年には尼崎の海上警備を務めて本願寺に備えた。同5年紀伊雑賀攻めに従軍,翌年羽柴(豊臣)秀吉らと共に播磨上月城主尼子勝久への援軍に加わり毛利氏に対峙した。しかし、同年10月従兄弟に当たる中川清秀の家人が本願寺へ米を売却したという密告により信長に疑われ、釈明しようとしたが果たさず、ついに反逆を決意したといわれる。
 こうして本願寺、毛利氏側に寝返って、清秀や高山右近らと共に反信長の兵を挙げたが、滝川一益、明智光秀らの攻撃を受け、籠城10カ月におよんだ。その後村重は、同7年9月、ひそかに有岡城の包囲を逃れて尼崎城に入ったが、有岡城は11月に陥落。信長は村重の妻をはじめ30人余を人質とした。村重の同族久左衛門が尼崎に赴いて降伏を説得したが聞き入れず、信長は妻女36人を京都に斬り、家臣およびその妻女600人余を礫刑、火刑に処した。村重は花隅城に逃れたが、翌年7月攻め落とされて毛利氏分国に逃亡。本能寺の変後は堺に居住、千利休に茶を学び、宗匠として秀吉に起用された。堺で死去。近世初期風俗画の名手、岩佐又兵衛はその遺子という。 (森田恭二) 】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 この「荒木村重」は、「一族郎党を見殺しにし、『有岡城・尼崎城・花隈城』の居城を見捨てて、唯一人生き残り、晩年を茶人『道糞・道薫・道菫』として『利休七哲の一人』と目せられている『一代の数寄者・傾奇者』」として、毀誉褒貶の、その汚名を一身に浴びている」人物ということになる。

 もう一人、「木下勝俊(長嘯子)」も、「関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、寄せ手の西軍に弟の秀秋が含まれていることから鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、『敵前逃亡』の汚名を一身に浴びて、以後、京の東山に隠棲し、文人(歌人)として、『長嘯子・西山樵翁』と号し、「地下歌人」の第一人者として近世初期における歌壇に新境地を開いた、これまた、『一代の数寄者・傾奇者』として、毀誉褒貶の真っ只中にある」人物ということになる。

 この「木下勝俊(長嘯子)」については、先に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし) 永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。
幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。 】

この木下長嘯子の「辞世の歌」は、次のものであった。

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世
王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

《通釈》(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

《補記》『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

《本歌》 殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん       】

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yahantei

 岩佐又兵衛の実父といわれている「荒木村重」について、ここで、始めて、登場して来る。
 この「荒木村重」は、部下の「高山右近」などの、いわゆる「キリシタン大名」ではない。
 しかし、あれだけの、「信長は妻女36人を京都に斬り、家臣およびその妻女600人余を礫刑、火刑に処した」という、「信長三大虐殺」に耐えて、その「信長」の死を見届け、自ららは「道糞」と名乗り、それを「千利休」が「道薫」として、「利休七哲の一人」と目せらられるほどの世界を「道糞」の世界に光明を与えたのは、そこに。「利休と村重」との、深い関わりがあったのかも知れない。
 そして、村重は、「一族郎党を見殺しにし、『有岡城・尼崎城・花隈城』の居城を見捨てて、唯一人生き残り、晩年を茶人『道糞・道薫・道菫』として『利休七哲の一人』と目せられている『一代の数寄者・傾奇者』」として、毀誉褒貶の、その汚名を一身に浴びている」というのは、例えば、その実子の「岩佐又兵衛」は、(その当時)どうとらえていたのかというのは、

 何やら、この「木下勝俊(長嘯子)」の、

 その「関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、寄せ手の西軍に弟の秀秋が含まれていることから鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、『敵前逃亡』の汚名を一身に浴びて、以後、京の東山に隠棲し、文人(歌人)として、『長嘯子・西山樵翁』と号し、「地下歌人」の第一人者として近世初期における歌壇に新境地を開いた、これまた、『一代の数寄者・傾奇者』として、毀誉褒貶の真っ只中にある」人物と、

 「岩佐又兵衛」は、この己の実父の「荒木村重」と、この「「木下勝俊(長嘯子)」とのイメージを、タブらせていたのではなかろうか?

 そして、それらが、当時の「キリシタン大名」などととの関連で、どのような関係にあったのかは、さしずめ、この「祇園ばやし」の「見え隠れ」、この場面から、何やら、その妖気が伝わってくる感じでなくもない。



by yahantei (2021-09-26 16:44) 

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