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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十二) [岩佐又兵衛]

(その十二)「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)」は何を語っているのか?

五氶大橋の「ねね」・「左端・酔う男」.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(右隻第四・五扇中部)→A図

 この図(A図)の左端の先頭を行く「貴女(老後家尼)に関連して、下記のアドレスで、次のとおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

【 (再掲) 

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図    】

 上記(C図)の「豊国祭礼図屏風」(右隻第六扇)の、淀殿が乗っているとされる「駕籠」の上で、「慌てて飛び退いている老後家尼」が「高台院」とする見方(見立て)も「さもありなん」とすると、確かに、上記(B図)の「洛中洛外屏風・舟木本」(右隻第五扇)の「五条で踊る老後家尼」は「高台院」とする見方(見立て)も、これまた「さもありなん」という思いがしてくる。
 そして、これらのことに関連して、岩佐又兵衛作とされている「豊国祭礼図屏風」と「洛中洛外屏風・舟木本」は、殆ど、同時期に制作された「姉妹編」と解すべきことには、いささかも矛盾を感じないが、上記の、「舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである」という見方には、やや否定的に解して置きたい。
 その上で、「豊国祭礼図屏風」の背景の主題は、「豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた『豊国大明神臨時祭礼』」であり、この祭礼の中心的な人物は、「徳川家康」(形式的な挙行者)でも「豊臣秀頼・淀殿」(実質的な挙行者)でもなく、この両者を、一種の高い政治力をもって、その調整役の重責をこなしていた「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」その人であるということにつては、前回に触れてきたところである。
 この前回までの指摘を前提として、では、「洛中洛外屏風・舟木本」の背景の主題は何かということについては、これまた、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」その人であるということを、例えば、その指摘の根拠の例示として、上記の「A図・B図」の「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)」を挙げても、これまた、何らの違和感もない。
 これに付け加えることは、「豊国祭礼図屏風」の背景が、「豊臣秀吉七回忌の慶長九年(一六〇四)八月挙行の『豊国大明神臨時祭礼』」とすると、この「洛中洛外屏風・舟木本」の背景は、「秀吉十七回忌の慶長十九年(一六一四)の『豊国大明神祭礼』」(この時には「騎馬行列」も「風流踊」も実施されない)時のものと解して置きたい。
 そして、この慶長十九年(一六一四)には、「再建途上の『大仏殿』はほぼ完成するが、『方広寺鐘銘事件』」が起きて、『大仏開眼供養』は延期となり、さらに、それに続く『大阪夏の陣』が勃発した」年なのである。
 その一年後の「慶長二十・元和元年(一六一四)」には、「大阪夏の陣」で「豊臣家は滅亡」し、「徳川幕府」(「大御所家康、将軍秀忠」)は、豊国社・豊国廟の破却を命じ、大仏殿は妙法院の管轄となる」という、大変動が、この「洛中洛外屏風・舟木本」の背景に横たわっている。
 もはや、この時には、「豊臣秀吉七回忌の慶長九年(一六〇四)八月挙行の『豊国大明神臨時祭礼』」の「騎馬行列」に参加した、下記「の豊臣恩顧の大名衆」の、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」を支えた「大名衆」の主だった者は鬼籍の人となり、そして、その殆どは、「徳川幕府」(「大御所家康、将軍秀忠」)側となっている。

【〇騎馬を出した豊臣恩顧の大名衆(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※前田利長(羽柴肥前守)=三十疋、福島正則(羽柴侍従)=二十疋、加藤清正(賀藤肥後守)=十五疋、細川忠興(羽柴越中守)=十二疋、浅野長政(浅野紀伊守)=十疋、木下勝俊(若狭宰相)=六疋、京極高知(丹後侍従)=六疋、福嶋高晴(福嶋掃部)=壱疋
已上=百疋
※筒井定次(伊賀侍従)=弐疋、蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋、中村一氏(中村伯耆守)=三疋、山内一豊(山内土佐守)=三疋、 生駒一正(生駒讃岐守)=五疋、鍋嶋勝重(鍋嶋信濃守)=十一疋、田中吉政(田中筑後守)=九疋、加藤嘉明(賀藤左馬助)=六疋、藤堂高虎(藤堂佐渡守)=六疋、有馬豊氏(有馬玄番頭)=弐疋、脇坂安治(脇坂淡路守)=壱疋、寺沢広高(寺沢志摩守)=三疋、加藤貞泰(賀藤左衛門尉)=壱疋、金森可重(金森出雲守)=弐疋、一柳直盛(一柳監物)=弐疋、徳永寿昌(徳永法印)=弐疋、冨田信高(冨田信濃守)=弐疋、九鬼守隆(九鬼長門守)=弐疋、古田重勝(古田兵部少)=弐疋、稲葉道通(稲葉蔵人)弐疋、関一政(関長門守)=壱疋、本田利朝(本田因幡守)=壱疋、前田茂勝(前田主膳正)=壱疋、亀井茲矩(亀井武蔵)=壱疋、高橋元種(高橋左近)=壱疋、伊藤祐慶(伊藤修理)=壱疋、秋月種長(秋月長門守)=壱疋、堀秀治(羽柴左門)=壱疋、木下重堅(羽柴因幡守)=壱疋、大野治長(大野修理)=壱疋、前田広定(前田権介)=壱疋、長谷川守知(長谷川右兵衛)=壱疋、杉原長房(杉原伯耆守)=壱疋、速水守久(速水甲斐守)=壱疋、伊藤長次(伊藤丹後守)=壱疋、堀田盛重(堀田図書)=壱疋、青木一重(青木民部少)=壱疋、竹中隆重(竹中伊豆守)=壱疋、毛利高政(毛利伊勢守)=壱疋、山崎家盛(山崎佐馬氶)=壱疋、柘植与一(柘植大炊介)=壱疋、片桐且元(片桐主膳正)=壱疋、野々村雅春(野々村次兵衛)=壱疋、真野助宗(真野蔵人)=壱疋、中嶋氏種(中嶋左兵衛)=壱疋、西尾光教(西尾豊後守)=壱疋。
已上=百疋 】

 ここで、こういう、激動の「慶長十九年(一六一四)、慶長二十・元和元年(一六一四)」に関連しては、次のアドレスの「豊国大明神の神権剥奪」が参考となる。

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/huckbeinboxer/sengoku-h09g.html

【 豊臣家滅亡の直後から豊国神社の破却は進められていた。

慶長二十年五月十八日、穢中により神龍院梵舜は豊国明神社の神事を略した。五月十九日、神龍院梵舜は豊臣家滅亡の余波が豊国神社に及ぶと考え、この日から徳川家康の側近に社領安堵を懇願する。

 慶長二十年六月十八日、本多正信は伏見城にて豊国神社破却を秀忠に進言。同日、豊国神社にて月例祭が再開されたが、行法祈念は略された。

 慶長二十年七月九日、徳川家康は二条城にて南光坊天海、金地院崇伝、板倉勝重と話し合い、豊国神社の破却を決めた。七月十日、神龍院梵舜らに豊国神社破却の沙汰が下される。神官の知行、および社領は没収。方広寺大仏殿住職照高院興意は職を解かれ、聖護院にて遷居。天台宗妙法院常胤が新たに方広寺大仏殿住職となり、寺領千石を加増された。神主萩原兼従は豊後にて千石を知行することが決まるが、正式に拝領したのは徳川家康の没後である。

豊臣秀吉の墓も移された。神号「豊国大明神」は廃止され、「国泰院俊山雲龍大居士」に改められた。京都所司代板倉勝重が豊国神社の破却を進めた。豊臣秀吉の長男棄丸(実は次男)の菩提寺祥雲寺は、智積院日誉に下げ渡された。祥雲寺住職海山は棄丸の遺骨を持って妙心寺に移ったと云う。七月十一日、豊国神社にて最後の神事が行われた。

 元和元年七月末、北政所は豊国神社の処遇を「崩れ次第」に任せるよう徳川家康に嘆願した。徳川家康はこれを受け入れ、徳川神社の一部の存続を許した。こうして豊国神社は風雨によって社殿が傷み、倒壊しようともそのまま放置されることとなった。北政所の嘆願は破却を免れるための、正に窮余の策であった。

 元和元年八月四日、徳川家康は駿府へと向かった。八月十八日、醍醐寺座主義演は徳川家に憚り、醍醐寺での豊国大明神の法要を中止した。そして、毎月十八日の法要も中止している。豊国神社では神事を略すも、神龍院梵舜ら十数名が参拝。片桐貞隆も参拝している。

 元和元年八月末、豊国神社はその大部分が破却された。豊臣秀吉の神廟、社殿は残された。また、神龍院梵舜が徳川家康から賜った神宮寺も残されている。十月一日、神龍院梵舜は豊国神社に洗米を献げた。以降、神龍院梵舜は毎月一日と十八日に参拝を続けた。

 元和元年十二月四日、徳川家康は隠居城建設のため伊豆泉頭を実検。年明けから建設工事を行うことにした。

元和元年十二月十八日、妙法院常胤が豊国神社の参道を塞いだ。このような嫌がらせを受けるほど、豊国神社の権威は失われていた。   】

 ここに出てくる「神龍院梵舜」については、先に(「その八」)、下記のアドレスで触れているが、この「神龍院梵舜」と「高台院」とは、姻戚関係(高台院の姪が梵舜の甥「萩原兼従」の正室)で深く結ばれている(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P212)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

 この「神龍院梵舜」が、豊臣家(高台院)の代理人とすれば、その相手方の「徳川幕府」(大御所家康・将軍秀忠)の代理人は、「京都所司代・板倉勝重」ということになる。
この「板倉勝重」と「高台院」との関係も、慶長十年(一六〇五)の、「高台院」が実母と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に「高台寺」を建立した時の、普請奉行は「板倉勝重」で、この「板倉勝重」の卓越した「手綱捌き」(調整能力)が、とにもかくにも、この「激動の『慶長十九年(一六一四)、慶長二十・元和元年(一六一四)』」の「豊臣家滅亡」に伴う一連の終戦処理を軟着陸させたということになろう。

高台院と院御所.jpg

「洛中洛外図屏風・舟木本」(第四扇上部)の「院御所と高台院殿(屋敷)」→C図

 この右上の図は「高台院」とあり、現在の「京都御苑仙洞御所・大宮御所エリア」にあたる当時の「高台院殿(屋敷)」で、この図の左上は、当時の「後陽成院」の「院御所」との「名札」が付けられている。
 「北政所」が落飾したのは、慶長八年(一六〇三)、秀吉の遺言でもあった秀頼(十歳)と千姫(七歳)の婚儀を見届け、そして、この年は、徳川家康が征夷大将軍になった年である。朝廷(後陽成天皇)から院号(高台院)を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。
 この二年後の、慶長十年(一六〇五)に、京都東山に「高台寺」を建立し、その門前にも屋敷を構えている。
 上記の「院御所」(後陽成院)の脇に「高台院殿(屋敷)」が描かれていることは、「後水尾天皇」が即位した、慶長十六年(一六一一)三月二十七日以降の頃と解することが、図柄上は妥当なのかも知れない。
  そして、この手前の、右下の「騎馬の貴公子」を、先に(「その四」で)、「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)としたのだが、この家康が参内した時は、慶長十六年(一六一一)のことであった。
 その前回のアドレスで、この場面のことを、次に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【(再掲)

慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
 慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
 のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117) 】

 「北政所」と「松平忠直」の父の「結城秀康」(松平秀康)との関係は、「養母・北政所、養子・結城秀康」という関係にあり、その関係からすれば、「北政所」は「松平忠直」の「養祖母」という関係になってくる。
 そして、『舜旧記』(慶長七年五月廿七日)に、結城秀康が「豊国社」へ参詣している記述が遺されている(「国立国会図書館デジタルコレクション」では、この巻は収録されていない。下記のアドレスによる)。

http://ari-eru.sblo.jp/article/185446070.html

【今日三河守殿(結城秀康)依社参、二位卿(梵舜の兄・吉田兼見)俄豊國へ越也、予(梵舜)脚気ニ足痛故不参、次三河守殿奉納、銀子五枚、二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、次當院下部屋ヨリ火事出来之処ニ、早ク見付打ケス也、誠神慮之加護、當院本尊神龍院(吉田兼倶)殿・唯神院(吉田兼右)殿加護也、有難云々、 】

 さらに、その四日前の「五月二十三日」に、「於大の方」(徳川家康の実母)が豊国社に詣でている。この時は、「於大の方」にとって初めての上洛で、「北政所」、そして、「後陽成天皇」にも拝謁している。

【 内府公(徳川家康)御母儀(於大の方)豊國へ社参、奉納九十貫(九百万?)、二位殿(吉田兼見)杉原二束・摺三巻、慶鶴丸(萩原兼従)同事、祝并予(梵舜)卅三貫(三百三十万?)、祢宜神官卅貫(三百万?)、巫女八人ニ生絹帷一人一充、社家ヨリ菓子折、熨斗、堅栗、四方ニスハル、是ヲ上也、次謡講於清水茶屋興行、予(梵舜)重衡(謡=能)稽古也、 】

「於大の方」(家康の実母)は、この上洛の途次の、八月十七日に、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の「山城伏見城」で、その七十五歳の生涯を閉じる。家康は、直ちに、京都の「智恩院」で葬儀をおこない、江戸(小石川)の「無量山・伝通院・寿経寺」に遺骸を送り、その法名は「伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」から「伝通院」と呼ばれるようになる。ここには、その後、千姫をはじめとした将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されている。

http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html

【慶長十一年七月二日『言経卿記』→禁中御普請之縄引有之、板倉伊賀守被参、
七月十三日『同上』→禁中御作事テウノ始了、
九月『慶長日記』→禁裏仙洞境内狭シテ朝儀カタシト聞玉ヒ、宰相秀康ヲ惣奉行トシ、諸大名ニ仰テ公家ノ家宅ヲ移シ、  】

 この記述によって、上記の「院御所」の「総普請奉行」は、「結城秀康」その人ということを伝えている。しかし、「結城秀康」は、病によりこの仕事を全うすることがかなわず、『朝野舊聞裒稿(ほうこう)』・『松平津山家譜』では、慶長十二年三月一日に越前に帰国したとある。

【慶長十二年 閏四月十四日『義演准后日記』
 傳聞、去八日三河守(秀康)死去云々、将軍(家康)子息也、去三月五日ニハ、尾張國守下野守(松平忠吉)死去、相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、

閏四月十三日『鹿苑日録』
 片主(片桐且元)越前へ、自秀頼公三州(秀康)御見廻被相越ト云、一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、
閏四月十五日『同上』
 片主(片桐且元)御出、昨日自越前帰宅ト云々、三州(秀康)遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、
六月五日
 東法印亦此三日上洛ト云々、大御所(家康)様御機嫌甚以難窺之、是亦無餘儀、両所(忠吉、秀康)迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、…】

 そして、「結城秀康」は、慶長十二年(一六〇七)六月二日(閏四月八日)に病没(享年三十四)したことが、上記の関連記事で読みとれる。上記の記事の解説も付記して置きたい。

【『義演准后日記』は醍醐寺の僧侶義演の日記である。義演は秀吉の時代から大坂(豊臣)方と関係の深い僧侶であるが、家康の側室から子どもの病気平癒の祈祷も頼まれおり、豊臣・徳川双方とも関係がある。義演は日記に「傳聞」と前置きした上で、8日に秀康が死去したと記し、3月5日の松平忠吉(家康四男)死にも触れ、凶事が相次いでいると続ける。

『鹿苑日録』には閏4月13日に片桐且元が秀頼からの「見廻=見舞」もしくは「弔慰=弔問」のために越前へ向かったとある。15日にその且元が「昨日」越前から帰宅して相国寺を訪ねている。そこで西笑承兌(さいしょうしょうたい)は秀康の死去と3人もしくは6、7人が殉死したとの話を聞いている。8日に秀康が死去していることから、且元の越前行きは「弔問」のためだったろう。西笑承兌の書き方だと、京ー越前間を且元は13日に出立して14日に戻って来るという速さで移動しているように見えるが、恐らく出立は11or12日ではないだろうか。それでも2日もあれば越前からの情報は京や大坂に届くのだろう。京ー越前の間は交通網が比較的発達・充実している。

6月5日には家康は「御機嫌甚以難窺之」とあり、家康の機嫌が非常に悪いと推測している。西笑承兌は関ヶ原以前から家康と交流があり、秀吉没後は外交その他の顧問として家康の側近くにあった。家康の性情を知った上での推測であろう。「両所」とは家康の息子である松平忠吉(4男)と結城秀康(次男)の2人を意味しており、その2人の死去に対する家康の「愁嘆=嘆き」は言葉に表せない、と記してもいる。】

 上記の、「結城秀康」の死去の際の「殉死」関連については、下記の「家康・家忠」の書簡があり、「結城秀康」の「附家老・本多伊豆守(本多富正)」の「殉死」は「一切停止」の申し渡しがあり、「富正は剃髪するにとどまり、また幕府の直命により引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなる。また、元和九年(一六二三)の、主君の忠直が幕府の命で、豊後国府内藩(現在の大分県大分市)へ配流処分になった時も、幕府より「そのまま残り、忠昌を補佐するように」との特命を受けている。

【閏四月『譜牒餘録』
 権現(家康)様   一御書 御黒印 閏四月廿四日
 中納言秀康卒去之砌、殉死一切停止可仕旨にて、家老共に被下置候、

 台徳院(秀忠)様   一御書 御黒印 後卯月十六日
 右同時、本多伊豆守(本多富正)殉死、停止可仕旨にて被下置、      】

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → D図

 上記の、先に(「その四」で)、「家康と共に参内する松平忠直」(D図)とした、その中央の「騎馬の貴公子」を、慶長十六年(一六一一)時、十七歳当時の「松永忠直」の英姿として、この左端の「騎馬の公家姿の武家」は、ここまで来ると、「結城秀康(松平秀康)・松平忠直・松平忠昌」の「三代に亘る越前松平家」の、それを見届けた「「附家老(そして、筆頭家老)・本多伊豆守(本多富正)」その人と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

 そして、この「越前松平家の附家老(そして、筆頭家老)・本多伊豆守(本多富正)」は、その主の「結城秀康」と「北政所」との「養子と養母」との関係を、謂わば、「結城秀康」の執事的な分身として、「北政所」と「本田富正」との関係は、相当に深い関係にあり、その関係は、「北政所」と「松平忠直」との時代にあっても、その「結城秀康」との時代と同じく、継続して変わらなかったということは想像するに難くない。
 それと同時に、「結城秀康」の未亡人「鶴姫」(江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康の未亡人)が、「後陽成・後水尾」天皇の側近の公卿「烏丸光広」の正室に迎えられた後においては、「北政所」と「松平忠直と本田富正、そして、烏丸光広と鶴姫」との関係は、相互に親密な関係にあったことも、これまた、想像するに難くない。
 さらに、それらに付け加えることは、この、「「北政所=松平忠直と本田富正=烏丸光広と鶴姫」との、この三者関係の相乗的な関係から、相互に、「本阿弥光悦・俵屋宗達・角倉素庵・烏丸光広」、そして、謎を秘めた「岩佐又兵衛」との接点が、何やら、一筋の光明に照らし出されてくる。これらに関連することは、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_45.pdf

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-2図

ここで冒頭の「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(A図)に戻って、この「しんがり」の、この両脇をささえられた酔っ払いの「へべれけ野郎」(A-2図)は誰か?
 この「へべれけ野郎」を、五条大橋の欄干の脇に立って、口元を手で隠しながら観察している「怪しげな野郎」は、何やら、 先の(その八)、「豊国定舞台」で演じられている「烏帽子折」を、地べたに寝そべって見ている「怪しげな野郎」の一人のような雰囲気なのである。

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台を寝そべって見ている二人 」(右隻第一扇中部)→ A-3図

この「豊国定舞台を寝そべって見ている二人 」(A-3図)は、次の「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(A-4図)の感じで、

豊国廟の二人.jpg

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」 → A-4図

 これらの二人は、先に(その八)、次のアドレスで次のように記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

【 さて、A-3図の「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」に戻って、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」の、その右側の柄物の衣服をまとった男性は、蕪村の俳画に出てくる「花見又平=浮世又平=浮世又兵衛=岩佐又兵衛」その人のようなイメージを受けるのである。
 とすると、もう一人の、白衣のような着物の、何か怒っているような顔つきの男は、「又兵衛工房の謎の一番弟子」(「小栗判官絵巻」の「細長い顔かたちの人物像などを描いた有力な画家A」=『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』P104-105)での「辻惟雄説」)ということになる。 】

 この「岩佐又兵衛と謎の一番弟子A」が現れると、その周辺の人物は「要注意」ということになる。さしずめ、この「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(A-4図)の傍らの、この二人の貴婦人のうちの一人は、「高台院(北政所)」を暗示しているのかも知れない。 
 として、冒頭の「五条橋で踊る老後家尼」(B図))の「赤の小袖」の女性が「高台院(北政所)」とすると、この二人の貴婦人(A-4図)のうちの、「後ろ向きの赤の小袖の女性」が、
「高台院(北政所)」ということになる。そして、一見する「貴人傘」の下の「高台院(北政所)」のような女性は、「目眩(くら)まし」ということになる。

豊国廟の枝垂れ桜.jpg

「豊国廟の枝垂れ桜」→ A-5図

 この左端の桜が、「豊国廟の枝垂れ桜」で、この「枝垂れ桜」が、次の図(A-2図)の、左から二番目の「若衆」が手に持っている「枝垂れ桜」で、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(A図)は、「豊国廟」で花見宴をしての帰りだというのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P208)。

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-2図

 こうなると、ますます、この「へべれけ野郎」が「何者なのか?」が気にかかってくる(以下、次号で探求したい)。

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yahantei

 どうにも悪戦苦闘の連続である。

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(右隻第四・五扇中部)→A図

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図 

「洛中洛外図屏風・舟木本」(第四扇上部)の「院御所と高台院殿(屋敷)」→C図

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → D図

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-2図

「豊国定舞台を寝そべって見ている二人 」(右隻第一扇中部)→ A-3図

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」 → A-4図

「豊国廟の枝垂れ桜」→ A-5図

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-2図

※ アップ図の解説だけで、「アップ・アップ」である。それにしても、「岩佐又兵衛」は「芸が細かい」(?)
by yahantei (2021-09-21 18:26) 

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