SSブログ

洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十四) [岩佐又兵衛]

(その十四)「祇園林狂騒宴」は何を語っているのか?

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

 前回(その十三)に続いて、この(A-2図)の祇園社の鳥居の扁額(竪額)は、下記のアドレスの「図絵」の「解説」には、「祇園社は下河原を南面とし、鳥居は石柱にして、感神院といふ竪額あり、照高院道晃親王筆なり」とある。

https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_186.html

 ここに出てくる「照高院道晃親王」は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」が制作された頃の「方広寺鐘銘事件」(「大阪夏の陣」の勃発の契機となった事件)当事者の一人とされる「第二代照高院宮」(興意法親王、後陽成天皇の実弟)ではなく、「第四代照高院宮」(道晃法親王、後陽成天皇の皇子)で、やや時代は後ということになる。そして、その鳥居は、このA-2図の「木柱」ではなく、「石柱」に改められた後のものと解したい。
 それに関連して、歴代の「後陽成天皇の皇子と歴代の照高院宮」について、下記のアドレスのものを再掲して置きたい。

【 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
※第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院、照高院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)        

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%85%A7%E9%AB%98%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80

照高院宮(歴代)

1道澄(1544-1608):近衛稙家の子。聖護院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。方広寺住職。
※※2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620):誠仁親王(陽光院)の第5王子。聖護院門跡。園城寺長吏。江戸で客死。興意親王墓(東京都港区)。聖護院宮地蔵谷墓地に塔。
3道周法親王(1613-1634):後陽成天皇の皇子。聖護院宮地蔵谷墓地。
※4道晃法親王(1612-1679):後陽成天皇の皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。聖護院宮地蔵谷墓地。
5道尊法親王(1675-1705):後西天皇皇子。園城寺長吏。聖護院門跡? 熊野三山検校。新熊野検校。聖護院宮地蔵谷墓地。忠誉法親王?     】

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-1図

五氶大橋の「ねね」・「左端・酔う男」.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(右隻第四・五扇中部)→A図

 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(A図)、そして、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)は、下記のアドレスなどで、「豊国廟で花見宴をしての帰りだ」『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P208)ということについて触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」→ A-3図

 ここで、冒頭の「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(A-2図)の下に、このA-3図が描かれている。これは、明らかに、「祇園林の乱痴気騒ぎ」(A-2図)と「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」(A-3図)とは、「A-2図」は「乱痴気騒ぎ」、そして、「A-3図」は粛々と「祇園鳥居を潜る」一行であり、それぞれ別なグループ(集団)のものと解したい。

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 ここで、「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」(A-3図)と、「五条橋で踊る老後家尼」(B図、A図とA-1図)とは、同じグループ(集団)のものなのかにどうかついては、これまた、確たるものではないが、その蓋然性(可能性など)からすると、その「見方(見立て)」は肯定的な方向で解して置きたい。
 としても、冒頭の「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)は、これは、「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」(A-3図)とは、当初、別々なグループ(集団)で、この「五条大橋」で、「高台院」一行と、この「へべれけ野郎」(「木下勝俊(長嘯子)」?)一行とが合流したという見方もあり得るであろう。
 この見方からすると、「高台院」一行のル-トは、「院御所近くの高台院殿(屋敷)→祇園 社→豊国廟→五条大橋」、そして、「木下勝俊(長嘯子)?」は、「高台院殿(屋敷)→祇園 社→五条大橋」ル-トということになる。

長嘯子酒宴.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎周辺」(右隻第三扇上部) → A-4図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 この下部に描かれている「へべれけ野郎」(「木下勝俊(長嘯子)」?)は、もう正体不明の酩酊状態に比して、他の一行は、祇園の遊女を侍らして、まさに「乱痴気騒ぎ」の頂点のような状態である。そして、左上の重箱を頭にして、料理を運んできたような「ふっくらとしたおっさん」風情の男が、先に(その二)触れた「『祇園会で神輿を担いでいる男』・『板倉勝重?』」と、何処となく、似ている雰囲気なのである。

板倉勝重?.jpg

「神輿を担ぐ男・板倉勝重・重箱を頭にした男」→ C図

 もとより、これらの人物(「神輿を担ぐ男・板倉勝重・重箱を頭にした男」)は、「何処となく似ている」というだけで、これらの人物が同一人とする根拠は、全く、確たる痕跡は見出し難い。
 しかし、これらが「板倉勝重」その人とすると、勝重が京都所司代(任命時は「京都町奉行」)に任じられたのは、「関ケ原の戦い」の後の慶長六年(一六〇一)、爾来、元和六年(一六二〇)に、長男・重宗にその職を譲るまで、その長きにわたり「京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視」という重責を全うした、その一端が浮かび上がってくる。
 勝重と高台院との直接的な接点は、高台院が、慶長十年(一六〇五)、実母(朝日)と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に「高台寺」を建立した時の「普請奉行」が勝重で、爾来、この二人の名コンビが、激動の「豊臣時代」から「徳川時代」の移行をスムーズに成し遂げたという一面を有するものと、その両者の関係を肯定的に解して置きたい。
そして、勝重と高台院の甥の「木下勝俊(長嘯子)」との関係は、「家康の命による伏見城留守居役を放棄した『敵前逃亡者』」の汚名を一身に浴びている勝俊(長嘯子)を、高台院の身近な側近として、「小堀政一・伊達政宗・林羅山・春日局・藤原惺窩・冷泉為景(叔父・冷泉為将の養子)・松永貞徳・中院通勝」等々の幅広い人脈を活かし、後に、「後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている」のも、この勝重と高台院との、この二人の名コンビに因るものと、この「高台院・勝重・勝俊(長嘯子)」との三者関係も肯定的に解して置きたい。 
 として、このA-2図の「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部)、そして、A-4図の「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎周辺」(A-2図の拡大)の、この「祇園林の乱痴気騒ぎ」は、 慶長十年(一六〇五)の頃の、高台寺普請奉行・板倉勝重の、高台院恩顧の諸大名関係者への「振舞い饗宴」の一場面のように解したい。
 そして、この「へべれけ野郎」を「木下勝俊(長嘯子)」とすると、やはり、「関ケ原の戦い」での「敵前逃亡者」として 、武将失格の汚名を恥じての「面目もない」という、その姿勢の一端が読み取れる。この頃の、出家して「長嘯子」と号した頃の一首がある。

あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな(挙白集)

 この歌には、「慶長はじめつかた、世をのがれたまふ時の歌となん」との後書きが付してある。「あらぬ世=思っていたのとは異なる世」、「袖よりくもる=袖を濡らす涙から曇る」。
歌意は、「思いがけぬ世の中に我が身はすっかり過去の人となり、大空も我が袖から曇り始めるかと見える初時雨であることよ」。

 また、「木下勝俊(長嘯子)」の己の自画像とも思われる一首もある。

汝(なれ)よなれ汝はやせ僧時にあはず首うちなげて物欲しげなる(長嘯子集)

前書きに「かたぶきたる酒徳利に、痩せ僧と言ふ名をつけて」とある。「かたぶきたる酒徳利(さかとつくり)=直立せず斜めにかしいでいる酒徳利」、「首うちなげて=徳利が一方にかしいでいるさま」。歌意は、「おまえよおまえ、おまえの名は痩せ僧。時流に合わず、首を傾げて、物欲しそうであることよ」。

 「高台寺にまうでて、豊国明神の像を拝して」との前書きの歌もある。

亡き影にまた袖ぬれて仕へけん昔を今のしづのをだ巻(長嘯子集)

 「亡き影=秀吉の遺影」、「しづのをだ巻=倭文(しづ)を織るのに用いた苧環。次の本歌から借りた詞。『しづ』は「賤」と掛詞になって卑下の意を帯び、また苧環を繰ると言うことから『繰り返し』の意を呼び込む」。「本歌」=いにしへのしづのをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな(「伊勢物語」第三十二段)。歌意は、「遺影にまた私の袖は濡れて――仕えた昔を今になして、繰り返し亡き人を偲ぶことよ」。
nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 2

お名前(必須)

高台寺の塔頭に、木下勝俊(長嘯子)が創建した「春光院」がある。

https://ameblo.jp/rrerr/entry-11956786515.html

【木下勝俊が寛永4年(1627年)、創建。
木下勝俊(1569~1649)豊臣秀吉の正室・高台院の実兄、木下家定の長男。慶長18年(1608年)、足守藩主であった父家定が没すると、叔母・高台院の裁断によって遺領は勝俊が相続します。しかし、徳川家康が弟の木下利房と分割相続するべきであったとこの相続に介入、慶長19年、勝俊は足守藩を改易されました。大坂夏の陣後、家康は高台院の大坂城入りを止めた賞として利房に単独で足守藩を与えています。勝俊は叔母高台院の庇護のもと、高台寺南隣に挙白堂という庵を建てて隠棲し、長嘯子と号して歌人活動を行って余生を送りました。こちらの寺は、勝俊が17歳で亡くなった娘の春光院万花紹三(阿野公業室)の墓所として創建したとされます。】

勝俊の女児は、「徳川家康の五男武田信吉の妻、山崎家治の妻、権大納言阿野公業の妻」と、それぞれ大名・公家の正室で、この三女の「阿野公業の妻」が、十七歳で亡くなった「春光院万花紹三(しゅんこういん-ばんかじょうさん)」で、勝俊(長嘯子)の、「春光院万花紹三」に奉げた一連の絶唱がある。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#VR


  むすめの身まかりて後、うなゐ松といふ文つくりて、あまたの歌  
  どもよめる中に
黒髪もながかれとのみ掻き撫でしなど玉の緒のみじかかりけん(挙白集)
   同
うつつとも夢ともわかん折までは亡き人を我が亡き人にせじ(挙白集)
   同
思ひつつぬる夜も逢ふとみえぬかな夢まで人やなき世なるらん(挙白集)
   同
せめてわがぬる夜な夜なは逢ふとみえよ夢にやどかる君ならば君(挙白集)
   同
すべて人をいかなる時にしのばざらんあはれ日又日あはれ夜また夜(挙白集)
   同
あらき風ふく夕暮はまづぞおもふ今よりたれにあてじとすらん(挙白集)
   年の暮に
なき人の来る夜と待ちし袖の上に涙の外の玉は見ざりき(挙白集)
   挙白堂にて、子どもなど、彼此つどひて遊びけるに、紹三のこ
   とまづ思ひ出でて
遊ぶ子の数にも入らで君ひとり苔の下にや今は歎かん(長嘯子集)


木下勝俊(長嘯子)は、一時期、キリシタン大名の一人でもあった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7

【か行
加賀山興良(ディエゴ) - 通称隼人、高山右近、蒲生氏郷、細川忠興らに仕える。1619年、禁教令に叛いて殉教、斬首された。
蒲生氏郷(レオ) - 日野、会津を領す。
※木下勝俊(ペテロ) - 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥。
岐部信泰 - 大友家臣。石垣原の戦いで戦死。
木村清久(ジョアン) - 豊臣家臣。大坂夏の陣で戦死。
京極高吉 - 晩年に受洗するも急死。
京極高次 - 秀吉、家康に仕えて近江大津、若狭小浜を領す。
京極高知 - 秀吉、家康に仕えて信州伊奈、丹後宮津を領す。
熊谷元直(メルキオール) - 安芸熊谷氏。後に主君の毛利輝元により処刑される。死後、殉教者として祭られる。
黒田直之(ミゲル) - 黒田孝高の弟。黒田二十四騎の一人。
黒田長政(ダミアン) - 棄教後、迫害者に転じる。
黒田孝高(シメオン) - 官兵衛の通称と如水の号で知られる。豊臣秀吉の家臣。
黒田利高 - 黒田孝高の同母弟。黒田二十四騎の一人。
黒田利則 - 黒田孝高の同母弟。黒田二十四騎の一人。
籠手田安一(ジェロニモ) - 籠手田安経の子。
籠手田安経(アントニオ) - 平戸松浦氏重臣。日本キリシタンの礎石と仰がれる。1550年代に受洗。
籠手田安昌(ルイス) - 籠手田安経の父。
五島玄雅 - 宇久純定の四男。棄教。
小西如清(ベント) - 小西隆佐の長男。
小西主殿介(ペトロ) - 小西隆佐の子、小西行長の異母兄。
小西行景(ジョアン) - 小西隆佐の三男。
小西行長(アウグスティノ) - 関ヶ原敗戦後、キリシタンであるため切腹を拒み刑死。
小西隆佐(ジョウチン) - 小西行長の父。】

上記のアドレスの「キリシタン大名」には、その名はないが、木下勝俊(長嘯子)と同じく、豊臣秀吉に連なる武将(豊臣政権三中老の一人」)に堀尾吉晴がいる。この堀尾吉晴が創建した「妙心寺の塔頭寺院」の名も「春光院」で、ここに、「南蛮寺の銅鐘」が遺されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E5%85%89%E9%99%A2



【銅鐘(南蛮寺の銅鐘) - 方丈東にある銅鐘は「南蛮寺鐘」と称し、織田信長が京都に建立を認めた南蛮寺(キリスト教会堂)で用いられていた。寺伝によればポルトガル製の鐘で、側面の周囲に太陽の文様の中に十字架とIHSの文字を組み合わせた円文を四方に鋳出し、そのうち一方に1577年(日本の天正5年)の西暦年号を鋳出している。「IHS」はイエス・キリストを意味し、ギリシャ語の「イエス」の最初の3文字、あるいはラテン語の「人類の救い主イエス」の頭文字とされる。嘉永7年に仁和寺より当院へ伝来したが、その際、幕府の目をおそれて朝鮮伝来の鐘とされた。】

そして、上記のアドレスの「木下勝俊(長嘯子)」の「出自と家族」に、次のように、その嫡男について記述がある。

【男児に関しては、関ヶ原の戦いの年(1600年)に庶子が誕生したが、後述の失態の連座を避けるために、死んだことにされ、匿われたことが『常光院過去帳』や『挙白集』の「きならし衣」などを通じた後年の研究で判明している。この人物は長じて堀尾吉晴に仕え、堀尾家断絶後は、親族の浅野幸長のもとを頼り、さらに細川家家老松井興長に仕えて橋本姓を名乗った勝信であるという。この系譜は現在も八代市で継続しているので血統は続いているとも言えるが、勝俊は後に継嗣なしとして隠居したために、系譜そのものは断絶した。】



「木下勝俊(長嘯子)」周辺には、さまざまなドラマが未開拓のままである。

by お名前(必須) (2021-10-03 10:48) 

yahantei

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-332114&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F%E6%98%A5%E5%85%89%E9%99%A2%E4%B8%87%E8%8A%B1%E7%B4%B9%E4%B8%89%E8%BF%BD%E6%82%BC%E9%8C%B2&REQUEST_MARK=%EF%BC%A4%EF%BC%A9%EF%BC%A7%EF%BC%AB%EF%BC%B3%EF%BC%B2%EF%BC%AD%EF%BC%93%EF%BC%93%EF%BC%92%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BC%94&OWNER=%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81%E6%9B%B8%E9%99%B5%E9%83%A8&BID=100235151&IMG_NO=1



豊臣氏春光院万花紹三追悼録



「春光院万花紹三」は、「木下勝俊(長嘯子)」の三女、そして、公家の「阿野公業の正室」、「阿野公業」は、羽林家の「阿野家」の、第十八代当主、「阿野家」は、「近衛家の家礼、江戸時代の家禄は478石」、ここにも、「豊臣(羽柴)家」→「近衛家(近衛信尹・前子)」との深い関係が伝わってくる。この追悼録の「豊臣氏」というのが、どういう意味合いがあるのか、興味ある課題の一つである。





by yahantei (2021-10-03 15:57) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。