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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十四) [岩佐又兵衛]

(その三十四) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その三)

舟木本・大仏殿を見学する南蛮人.jpg

「舟木本・方広寺大仏殿を見学する南蛮人」(舟木本・右隻第一扇中部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」では、「南蛮人」の姿影というのは、先の「祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)の他には、この「方広寺大仏殿を見学する南蛮人」の三人(左端の三人)程度しか見かけない。
 この「方広寺大仏殿を見学する南蛮人」に関連して、元和二年(一六一六)九月に、平戸から江戸へ出て、時の二代将軍・徳川秀忠に謁見して、その帰りに京都市中の「方広寺・大仏殿」などを見学した、英国商館長の「リチャード・コックス」(1566 - 1624)に関するものの記述が目にするが、ここに描かれているのは、その一・二年前の、慶長末期から元和元年にかけてのもので、 これは、「リチャード・コックス」(1566 - 1624)の姿影ではない。

大仏殿を見学する南蛮人.jpg

「舟木本・方広寺大仏殿を見学する南蛮人」(舟木本・右隻第一扇中部)→「南蛮人拡大図」

 しかし、この「南蛮人」一行を、この「舟木本・方広寺大仏殿を見学する南蛮人」が描かれた直後(一年後?)の、英国商館長の「リチャード・コックス」の、その「イギリス商館長日記」の、その元和二年(一六一六)十一月二日の条に、「方広寺大仏殿・三十三間堂・豊国廟」などの見学した感慨が詳細に記録されているのは、まさに驚嘆に値する。。

(その一 P554) 方広寺大仏殿

コックス日記一.jpg

`(注)「堺の定宿のトーザイェモン」=長谷川藤広、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。江戸幕府の長崎奉行(堺奉行兼任など)を勤めた。通称は左兵衛。「チョービオ殿」=長谷川忠兵衛、藤広の弟。多田銀山(兵庫県)を奉行し,大坂の陣には家康の側近に仕えた

(その二 P555)方広寺大仏殿

コックス日記二.jpg

(その三 P556)三十三間堂

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(その四 P557)三十三間堂と豊国廟

コックス日記四.jpg

(注)「タイクツ様」=太閤様、豊臣秀吉太閤様。「クッムベコン殿」=関白殿、豊臣秀吉関白殿。

(その五 P557)豊国廟

コックス日記五.jpg

(注)「ボス・ボウズ」=坊主。 異教の聖教者=仏教の聖職者、僧侶。

 これらの、英国商館長の「リチャード・コックス」の、その「イギリス商館長日記」は、下記のアドレスで、その全貌を知ることができる。

【 イギリス商館長日記

イギリスの在日本商館は1613(慶長18)年から1623(元和9)年まで、平戸に置かれました。商館長リチャード・コックスの日記は、取引や贈物等の記述も詳細で、帳簿等の残っていないイギリス商館の活動を知る、根本史料です。(1972~1982年刊行)

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kaigai

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/58/0401/0554?m=all&n=20

『日本関係海外史料』

オランダ商館長日記

イギリス商館長日記

1 原文編之上 元和1年5月~2年11月
2 原文編之中 元和2年12月~4年12月
3 原文編之下 元和6年11月~8年2月
4 訳文編之上 元和1年5月~3年6月

P554-p557
京都 方広寺大仏殿 三十三間堂 豊国廟

5 訳文編之下 元和3年6月~8年2月
6 訳文編付録(上)元和5年1月~9年11月
7 訳文編付録(下)総索引                      】

 この「イギリス商館長日記」(『コックス日記』)を見て行くと、「1615年6月5日の日記に、『豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。』」(「ウィキペディア」)など、その他にも、「伊達政宗謀反・黒田長政暗殺などの風聞」や「松平忠輝の改易処分」など、慶長末期の「豊臣家の滅亡」から元和元年以降の「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和=徳川政権にによる元和偃武以降の戦乱のない時代)の、その裏面史の一端が浮き彫りになってくる。
 そして、それは同時に、「ポルトガル・スペイン」の「カソリック布教と南蛮貿易」から、非カソリック=プロテスタント国の「オランダ・イギリス」による「布教なしの南蛮貿易」への激動の大転換の時代でもあった。
 そして、「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和=徳川政権による元和偃武以降の戦乱のない時代)の、その「鎖国」の「異国(南蛮))との門戸は、スペインから独立した「オランダ」が握るということになる。
 これらについては、下記のアドレスの「日蘭交流の歴史」が参考となる。

https://www.orandatowatashi.nl/about/nichiran-kouryuu

舟木本・あやつり小屋.jpg

「舟木本・「あやつり小屋・山中常盤・阿弥陀胸割」(「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 岩佐又兵衛の「洛中洛外図・舟木本」には、何一つ、当時の「カソリック=キリシタン=キリスト教」を背景とする欠片も、その表面上には描かれていない。
 その中で、「右隻」(第五扇上部)の「四条河原」の「あやつり小屋」で演じられている「阿弥陀胸割」(「阿弥陀の胸が割かれ真っ赤な血が染まる」=「十字架上の血みどろの救世主の姿」=当時の「禁教令」による「キリシタン追放・受難」)、そして、その「左隻」(第五・六扇中部)の「一条(二条)戻橋」(日本二十六聖人耳削ぎの場)などが、その背景に潜んでいるのかも知れない。
 下記のアドレスで、「一条(二条)戻橋」については触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-16

舟木本・戻り橋.jpg

「舟木本・「一条(二条)戻橋」」(「左隻」第五・六扇中部)

 ここでは、「舟木本・「あやつり小屋・山中常盤・阿弥陀胸割」の、これまで手付かずの、次の「阿弥陀胸割」小屋の、この「幔幕の紋」にメスを入れたい。

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 この「阿弥陀胸割」小屋の右脇の「山中常盤」小屋の「幔幕の紋」は、「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」が使用していた「定紋」(正式の紋。表紋)であることは、下記のアドレスで触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

結城巴.jpg

「結城巴(「松平忠直」家紋)
https://kisetsumimiyori.com/hideyasu/

 この「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)」と、昵懇の「キリシタン大名」の一人に、戦国の三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)に重用され続けた、「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高・官兵衛(通称)・如水(剃髪後の号)・シメオン(洗礼名・霊名)」
の名を挙げることが出来る。

【 徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生し、小田原征伐の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。】(「ウィキペディア」)

 そして、この「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることが、次のアドレスの「筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政」で紹介されている。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

黒田藤.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodakanbe/

 「黒田孝高・黒田長政」の「黒田」家の「定紋」は、もう一つの、「竹中半兵衛」から譲り受けたといわれる、次の「黒餅」紋で、「藤巴」の紋は「替紋」という見方が、下記のアドレスのものである。

黒餅紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodanagamasa/

【 黒餅紋:黒田長政の家紋その1
 
黒田家の家紋で有名なのが、この「黒餅」という家紋。白地に黒で丸を描いた、とてもシンプルな家紋です。ちなみに、黒地に白抜きで丸を描いたものを「白餅紋」と呼んでいます。この黒餅紋は、豊臣秀吉のもとで共に「両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛から譲り受けたもの。官兵衛が大層大切に使用していた家紋として知られています。

 長政は幼少期に織田家の人質だった

 実は、長政は幼いころに織田家の人質となっていた時期があります。ある時、父の官兵衛が敵軍を説得するために赴いたところ、逆に捉えられ幽閉されてしまいました。これを、信長は勘違いから「官兵衛の裏切り」と思い込んでしまい、嫡子である長政を殺そうとします。しかし、ここで半兵衛が素早く長政をかくまい、信長をうまくごまかしてくれたことから、長政は命をとられずに済みました。半兵衛は、官兵衛と長政を心配する手紙を遺し、若くして肺病でこの世を去ります。

 長政を信長から守り抜いた竹中半兵衛

 その後に助け出された官兵衛は、竹中半兵衛が長政を守り抜いてくれたことを知って感激し、半兵衛が使っていた家紋を使用するようになりました。その後も両家の絆は継続しており、関ヶ原の戦いでは長政と半兵衛の子・竹中重門が隣同士の陣地で闘っています。互いに偉大な父を持つ二人は、父同士が互いを思いやる姿を見て多くのことを学んだのでしょう。

藤巴紋:黒田長政の家紋その2

 そして、もう一つが「藤巴紋」です。官兵衛はこの家紋を替紋として使用しており、表門は「黒餅」であったことが解っていますが、黒田家の家紋というとこちらの印象が強い様です。
 こちらの紋は、黒田家が使えていた「小寺家」から下賜されたもの。ただ、黒田家は「家臣でありながら主君とおなじ家紋を使うのは気が引ける」という気持ちがあったようで、小寺家よりもデザインがシンプルなものを使用しています。 】

黒餅・白餅紋.jpg

「餅紋の意味・由来を解説!竹中半兵衛が使用した器物紋の一種の家紋」
https://kisetsumimiyori.com/mochi/

【、黒い丸をしたものは「黒餅」、白抜きした白いものは「白餅」と呼ばれていましたが、黒田氏が餅紋を使用していたことで、黒餅の方がメジャーなものになっていました。 】

九枚笹紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/takenaahanbe/

【 九枚笹:竹中半兵衛の家紋その1
 竹中半兵衛の家紋は2つが確認されています。ひとつは「九枚笹」。笹と竹は同じ植物で、大きいものを「竹」、小さいものを「笹」と呼んでいます。竹はとても高く伸びることもあり、「猛々しい」の意味に通じるとも言われ、神さまと人間をつないでくれる植物でもあると言われてきました。このため、竹と笹は多くの武将たちが使っている家紋のひとつです。笹は、縁起が良く神事に使われることの多い植物でした。地鎮祭や七夕がその例です。文様としては源氏物語の絵巻物などで古くから用いられてきましたが、家紋として用いられるようになったのは室町時代以降です。はじめは公家の家紋となり、積雪にも耐える強い植物の象徴として家紋に採用する家が増えました。中でも有名なのは上杉家の「竹に雀」や上杉家から贈られた紋を少し変化させた「仙台笹」です。今でも馴染みあるものとして、笹型をした仙台名物の笹かまぼこは、この家紋を由来に誕生しました。他の使用家には、武家では伊達氏、鳥居氏、竹中半兵衛、公家では冷泉家などがあります。

 黒餅:竹中半兵衛の家紋その2

 そして、もう一つがこちらですね。「黒餅」という家紋です。この家紋は、黒田官兵衛から譲り受けた家紋です。
 「餅」には「おめでたい」という意味があるため、そこから家紋に使用されるようになりました。また、簡単に描くことができる形であること、「黒餅」が「石持」と似たような呼び方であることから、武将にとって非常に重要な「石高が増える」という意味もあると言われるようになったのです。半兵衛も、それにあやかってかこちらの家紋を使用していました。 】

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)

 この「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋」は、「越前松平家(結城秀康・松平忠直)」の「結城巴」の「黒地」を「白地」に反転し、「筑前福岡藩(黒田孝高・長政)」の「「黒田藤巴」の「白地」を「黒地」に反転して、それらを合成したところの、「岩佐又兵衛」その人の「創作紋」ということになる。
 そして、これらの、「結城巴」そして「黒田(巴)藤紋」と、深い関わりのある「九枚笹紋」は、下記のアドレスの「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店と薬種の店舗」(左隻第四・五扇中部)と連動しているように思われるのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

二条通・裏庭の男周辺.jpg

「雪輪笹紋の町家の裏庭の男周辺」(左隻第四・五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その二図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null
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