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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十二) [岩佐又兵衛]

(その二十二) 「九か所の若松:その三と四・五条寺町」周辺など

五条大橋西詰・五条寺町.jpg

「五条大橋西詰・五条寺町の扇屋・両替屋など」(「右隻」第五・六扇中部)→「五条大橋西詰・扇屋周辺その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この右端(第五扇)が五条大橋である(五条大橋にも堀川戻橋と同じように『橋占』のような姿もあるが、こちらは、その脇が乞食で、こちらは単なる「物売り」のようでもある)。     
 この五条大橋西詰(西側の袂)に、これもまた、堀川戻橋と同じように「床屋」が店を構えている。この「床屋」について、『洛中洛外図舟木本—町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』では、次のように解説している。

【 五条大橋西詰には、ほとんど橋に接するように床屋がある。客の月代を剃っているのだが、客が毛髪が着物に落ちないように手拭いを袋状にして持っているところがおもしろい。
櫛、剃刀、鋏の絵を描く、軒から下げた看板も綿密である。本図には堀川の戻り橋の橋詰にももう一軒床屋があり、手鏡を持ち、髪形を指図する若衆が描かれている。
床屋がなぜ橋のたもとで営業するのだろうか。ひとつには、洛中へ入る人々が長旅で乱れた髪を結い直し、身ぎれいにして所用先を訪れるためだが、もうひとつ理由がある。
床屋は往来を向いて仕事をしている。これは頭が陰にならないようにするためでもあるが、これによって常に往来に目配りできる。橋は多くの人が往来する、ミヤコの出入口でもあった。
やがて江戸期には床屋の橋のたもとや町の木戸口で営業し、町方の手伝いをすることになる。治安機関の一翼を担うことになるのである。
本図に描かれた床屋の情景は、数ある洛中洛外図の中でももっとも精密に描かれている。  】(『洛中洛外図舟木本—町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』P61)

  ここでは、この「床屋」ではなく、それに隣接した「寶」と「光」の「両替屋・銭屋=銭店=銭見世)と、その間に挟まった「扇屋」とを土俵に据えたい。

五条橋西詰・寶・光・扇屋.jpg

「五条大橋西詰・扇屋・『寶・光』の銭屋」→「五条大橋西詰・扇屋周辺その二図」

 この図(「五条大橋西詰・扇屋周辺その二図」)の左端上の「貼紙」(名札)は「五条てらまちとをり(五条寺町通)」のようである(『近世風俗図譜四』P142-143)。中央は「扇屋」で、この「扇屋」の両脇の「寶」と「光」の店は「両替屋(小口)・銭屋=銭見世」のようである。

銭屋(日本国語大辞典).jpg

《ぜに‐や【銭屋】》→「銭屋(日本国語大辞典)・舟木本『左隻』第六扇上部」→「祇園御旅所周辺 C-2図」
https://kotobank.jp/word/%E9%8A%AD%E5%B1%8B-548649
【〘名〙 近世、もっぱら小額の銭貨の両替を行なった店。正規の両替商の下請的な業務を行なった。ぜにみせ。銭両替。※仮名草子・竹斎はなし(1672頃)上「竹斎銭の入事ありて、銭屋へさうばを書にやられけるに」】(出典『精選版 日本国語大辞典』)

 ここに出てくる「仮名草子・竹斎はなし」は、いわゆる『竹斎』(「岩波文庫258-1 守髄憲治校注」)の亜流作で、一連の「竹斎物(もの)」の一つである。
 この「竹斎物(もの)」の中心に位置する『『竹斎』(「岩波文庫258-1 守髄憲治校注」)関連で、下記の「参考その一」の、《「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。》を先に紹介した。
 この『竹斎』(「岩波文庫・前掲書」p28)に出てくる「五条は扇の俵屋」の、当時、名を馳せていた「俵屋宗達」(?~1643?)の「扇屋」(「絵屋」兼「扇屋」?)の一つとも解せられる。
 また、その「扇屋」の両脇の「銭店」(?)の暖簾・「寶と光」に関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』では、「両脇にある『寶』と『光』とは『寶光=豊公』であり、『暖簾に豊公(豊臣秀吉公)敬慕の心情』を託している」(p209-211の「要点メモ」)との謎解きをしている。
 この「五条寺町」の「五条通」に面した「扇屋と銭屋」と「寺町通」に面した「茶道具屋」との裏手の庭に、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』(P236-237)で指摘している「九か所の『若松』」の、「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」が、確かに描かれている。
 しかし、この「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」の「若松」は、その「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」の「若松」と、その「五条通」(「面」)の「裏手」(裏庭)と「寺町通」(「面」)の「裏手」(裏庭)とは、そこに住む「町衆」の「共同的空間」として地続きの一体のものと理解すべきものなのかも知れない。
 これらのことに関しては、『近世風俗図譜四(小学館)』所収の「町衆の生活と文化(吉村享稿))の、次の記述が参考となる。

【 京都の町は、通りを挟んで向かい合う町家の裏としての共同空間が表の町を相互に結合させ、そうした構造が町組を形成する重要な絆として作用した。 】(「前掲書・小学館」P124)

五条寺町「若松」周辺.jpg

「扇屋の若松と小袖屋の若松(「五条寺町」周辺)」→「五条大橋西詰・扇屋周辺その三図」

 この「五条大橋西詰・扇屋周辺その三図」の下段の右端の図は、上記の「五条大橋西詰・扇屋周辺その二図」に該当する。この裏手の「松と若松」、それは、この図の「茶道具屋」と「足袋屋」の裏手の「松と若松」とを共有し、それらが、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」の正体なのである。
 そして、この「五条大橋西詰・扇屋周辺その三図」の「足袋屋」に「金雲」が描かれていて、その上(北側)の「鶴屋(縫物屋→小袖屋)」の裏手に、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」が描かれている。

鶴屋裏手・本因坊.jpg

「『鶴屋』裏手の『本因坊』周辺」→「五条大橋西詰・扇屋周辺その四図」

 この「五条大橋西詰・扇屋周辺その四図」が、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」なのである。

【 この坊主頭の人物は誰であろうか。ここは名所はないけれども、当時の京都では、本因坊算砂の姿と見ることができるだろう。そう判断してよければ、囲碁史の一頁を飾る姿となる。このように本因坊算砂の囲碁対局を描いているのであるから、注文主は囲碁好きであったのであろう。舟木屏風は、そこ以外に、右隻第四扇上部の祇園竹の坊にも囲碁をしている僧侶と俗人を描き、また、左隻第一扇上部には、碁盤・碁笥・碁石などを販売する店を描いている。 】(『黒田・前掲書』p242)

この本因坊算砂と武家二人とが描かれているのは、四条寺町に近い寺町通に面した「双鶴紋」のある「小袖屋」(『近世風俗図譜四(小学館)』では「縫物屋」)の裏手である。この裏手は、五条寺町の寺町通に面した「扇屋」の裏手と繋がっている《「町衆」の「共同的空間」》
と解して、この『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」と「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」とは、一体のものとして捉えたい。
 そして、この「本因坊算砂」(1612~1623)は、下記の「参考その二」の「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の一人(本因坊日海(寂光寺第2世)で、日蓮宗の本山(由緒寺院)の一つの「頂妙寺」の信徒(「参考その二」)である「俵屋宗達」(?~1643?)とは、同じネットワークの同志ということになろう。
 さらに、「五条は扇の俵屋」(俵屋宗達?)と紹介している、その同じ『竹斎』(「岩波文庫・前掲書」p19)の中で、「天下の碁うちのほんに(ゐ)ん坊(本因坊)」と、「里村紹巴」(戦国時代の連歌の巨匠、『竹斎』では「宗匠紹巴法眼」)との逸事の中に登場して来る。この「里村紹巴」は「頂妙寺」の信徒で、その知友の将棋の家元として知られている「大橋宗桂」も頂妙寺の信徒である(「参考その二」)。
 そして、この「頂妙寺」と「烏丸光広・俵屋宗達」などの関連については、これまで、次のアドレスなどで、幾度となく触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-17

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

烏丸殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(A図:烏丸殿と頂妙寺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24215%2C13535%2C3305%2C6435&r=270

【(再掲)
烏丸光広が大納言に叙せられたのは、元和二年(一六一六)、三十八歳の時で、この年に、徳川家康(七十五歳)、その翌年に後陽成院(四十七歳)が没している。
 そして、宗達関連では、後水尾天皇の側近で歌人としても知られている「中院通村(なかのいんみちむら)」の日記(元和二年三月十三日の条)に、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)来候由也、則申附夜之事、御貝十令出絵書給(貝合わせの絵を描かせることを命じ)、本二被見下、一、俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉(その参考の絵として「鹿と紅葉の俵屋絵」を見せた) (省略)」と、後水尾天皇は「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を持っていて、これを参考にして「貝合わせの絵」を描くように、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)」に命じたということが記されている。
 この「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師は、「俵屋宗達」という有力資料の一つなのであるが、これとて、確証のあるものではない。 】

 上記の「A図:烏丸殿と頂妙寺」の、中央の上段が「御所(後水尾天皇)」、そして、右(東)側の下段が「院御所(後陽成院)」である。「院御所」の左(西)側(下段)」が「頂妙寺」、その二軒上が「烏丸殿」(『烏丸光広かその関係者』の邸宅)、その上が「二条殿(邸宅)」、一本道を挟んで、その上段に「御所」がある。その御所の右(西)側の道を挟んで、「中山殿(邸)」・「日野殿(邸)=烏丸家の本家」があり、その左(西)側に隣接して、ここにも「烏丸殿(邸)」がある。
 この地理関係から見ても、「頂妙寺」(「里村家=連歌、本因坊家=囲碁、大橋家=将棋、大黒屋=銀座、俵屋家=絵・扇屋」などの「日蓮法華衆のネットワーク」)と「烏丸家=歌・書・『後陽成・後水尾文化ネットワーク』など」とは自然な形で結びついて行き、そして、それは、必然的に、「本阿弥宗光悦・角倉素庵・俵屋宗達ネットワーク」と重奏的に結合して行くと解したい。  
 「狩野派」もまた、下記の「参考その二」のとおり「日蓮法華衆のネットワーク」の「妙覚寺信徒」で、「妙覚寺信徒」は、彫金の「後藤家」、陶器(茶碗)の「楽家」と日蓮宗の本山(由緒寺院)である。
 岩佐又兵衛の師と目せられている狩野内膳(1570-1616)も、狩野派三代目・狩野松栄(1519-1592)の高弟の一人で、 「日蓮法華衆のネットワーク」の一人と思われるが、岩佐又兵衛は、その一族の殆どが織田信長より斬殺されるのを免れ、石山本願寺に保護された経緯などからして「本願寺(浄土真宗)」門徒なのかも知れない。
 ここで、内膳の師の「松栄」は、父の狩野派二代目の元信(1477?-1559)の下、石山本願寺の障壁画制作に参加し(作品は現存せず)、門主・証如より酒杯を賜っている記録が遺されており(「ウィキペディア」)、その折り、「内膳」も参加して、そこで、岩佐又兵衛との出遭いがあったのかも知れない。
 いずれにしろ、狩野派の「狩野内膳」、そして、その門下の「岩佐又兵衛」と、「絵屋・扇屋」、そして、後に、「琳派」のの創始者の一人と目せられる「俵屋宗達」、そのグループの「本阿弥宗達・角倉素庵・俵屋宗達・烏丸光広」のグループとは、疎遠というよりも、親炙の関係にあったであろうことは、それほど違和感なく受容できるものと解したい。
 そして、それら中枢に居る人物ということになると、「本阿弥宗達・角倉素庵・俵屋宗達・烏丸光広」のグループからすると、公家の大御所の「烏丸光広」ということも、これも、ごく自然のことと解したい。
 その上で、この「烏丸光広」と、この「岩佐又兵衛」の、この「舟木本」に登場して来る「五条は扇の俵屋(八 )」(右隻第六扇)、そして、「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」(『黒田・前掲書』)、さらに、その「三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇)」(次回に詳説)と、その三点セットとの、この「烏山光広」と、仮名草子の『竹斎』との関係などは、次回以降で詳説したい。

(参考その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

(関連参考メモ)

【 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。 】

(参考その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-17

【 (メモ: 「蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜」関連のことで、その概略に基づいての、下記のアドレスの記事を、参考までに再掲して置きたい。)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200612-001.html

(再掲)

 宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。
 
 そして俵屋の商品は宗達の時代、元和年間(1615~24)には俵屋絵、俵屋扇として評判を得ていた。また俵屋一門には絵屋に加えて織屋としての家職もあったようで、西陣の織師たちによって結ばれていた「大舎人座」の座衆として蓮池平右衛門、北川八左衛門などの名が見えるに加えて、彼らの系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師の存在も明らかにされている。また01(慶長6)年に立本寺に大灯籠を寄進するとともに鷹ヶ峯光悦町に屋敷を所有した蓮池常有という人物などの記録がみられるも、彼ら相互の関係は不明である。
 
 1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。

 俵屋宗達と本阿弥光悦は義理の兄弟の関係にあり多くの作品を共作していた。加えて宗達が紋屋井関妙持や千家第2代小庵とも茶の湯を介して交流があり、このことからも俵屋一門と本阿弥一門、紋屋一門相互の深い関わりが見てとれる。彼らはいずれも西陣、小川今出川上ル界隈に居住して其々に家職を営んでいた。(「日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏」の見解   )

 広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク

絵画制作の狩野(妙覚寺信徒)、※俵屋(頂妙寺信徒)、※長谷川(本法寺信徒)、
彫金の名門※後藤(妙覚寺信徒)、
蒔絵師の※五十嵐(本法寺信徒)、
西陣織の紋屋井関(妙蓮寺信徒)、
銀座支配の大黒屋湯浅(頂妙寺信徒)、
茶碗屋の※楽(妙覚寺信徒)、
呉服商の雁金屋※尾形(妙顕寺信徒)、
海外交易の※茶屋(本能寺信徒)

能楽の謡曲本を広く刊行した本阿弥光悦(本法寺信徒)、
連歌界を主導した里村紹巴(頂妙寺信徒)、
俳諧の祖ともされる松永貞徳(本圀寺信徒)、
囲碁の家元である本因坊日海(寂光寺第2世)、
将棋の家元としての大橋宗桂(頂妙寺信徒)

「一家一門皆法華」という信仰規範が要請され、信仰、血縁のみならず自身の家職もまた相互に重ね合わせていた。

 例えば彫金の後藤一門が制作する三所物などの刀装具の下絵は狩野一門が手掛けていました。京都国立博物館所蔵、重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に至っては、和紙を京唐紙の祖とされる紙屋宗二が漉上げ、その上に俵屋宗達が絵を描き、寛永の三筆を謳われた本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書き流して制作された作品です。ちなみに紙屋宗二は蓮池常有らとともに鷹ヶ峯、光悦町に移住した熱心な日蓮法華衆であったことが分かっている。

 1615(元和元)年に本阿弥光悦が徳川家康から拝領した洛北鷹ヶ峯の地に4カ寺の寺院を中心として、本阿弥始め蓮池、紙屋、尾形、茶屋などの著名な日蓮法華衆の一門が集い、共に信仰生活を送った光悦町は「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の具現した姿といえる。 

※ 俵屋(頂妙寺信徒)=俵屋宗達(生没年不詳)
※ 長谷川(本法寺信徒)=長谷川等伯(一五三九~一六一〇)
※ 後藤(妙覚寺信徒)=後藤徳乗(一五五〇~一六三一=京都三長者の一人)
※ 五十嵐(本法寺信徒)=五十嵐久栄(一五九二~一六六〇=光悦の孫妙久の夫)
※ 茶屋(本能寺信徒)=茶屋四郎次郎(?~一六二二)=二代目=京都三長者の一人)
※ 尾形(妙顕寺信徒=尾形宗伯(一五七一~一六三一=「光琳・乾山」の祖父、宗伯の父・道伯の妻は光悦の姉)
※ 楽(妙覚寺信徒)=楽常慶(一五六一~一六三五)=二代目、三代目は道入(のんこう)
  】 (同上のアドレスの記事の「要点メモ」など) 

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yahantei

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-24

【 この「唐崎社(唐崎明神」の前に「若松」が自生している。この「若松」は、この舟木本の中に九か所出てくるようなのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)。

《 九か所の「若松」

一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) →「鞠挟紋の駕籠舁き」図(左扇第五扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

二 六角堂と唐崎神社の若松(左隻第三扇) → D-1図

三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇) → 「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」図(左隻第二扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

四 祇園御旅所の右側、当麻寺の隣にある遊女屋の若松(左隻第一扇) → C-1図

五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(左隻第一扇~右隻第五・六扇) → A-8図(その十八)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

六 四条河原の能の小屋の若松(左隻第六扇) → A図(その六)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30

七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋東詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)

九 豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇) → A-3図(その十二)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
→「その九・その八」A図=下記アドレス
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06 》 】

 今回のものは、上記の「七と八」で、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』で指摘する「九か所の『若松』」の全てに関して、一通りには目にしてきた。
 そして、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この「舟木本」の注文主は、「一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) 」は、京都所司代・板倉勝重の御用商人の、「雪輪笹紋の水引暖簾の『呉服商・笹谷半四郎』周辺の上層町衆」として捉えているようなのだが、このブログでは、深く詮索はせずに、「岩佐又兵衛」の、京都から福井移住以降のパトロンとなる「越前福井藩主・松平忠直」周辺として、その方向での記述に終始してきた。
 そして、次のアドレスの時点などで、仮名草子の『竹斎』と何かしら関係があるのではないかということで、その周辺探索を進めていた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-12

【 これらの「三十三間堂→大仏殿・鐘楼→大仏殿→方広寺・妙法院→豊国社→豊国廟→清水寺」というル-トは、殆ど同時期に原本が成立しているとされる「仮名草子」の『竹斎』(「岩波文庫・黄258-1」)の冒頭では、「三条大橋→祇園林→清水寺→豊国社→豊国廟→大仏殿→三十三間堂」のル-トで出て来る。】

 今回、改めて、《「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。》(『竹斎(岩波文庫258-1)』p27-28)の他に、「天下の碁うちのほんに(ゐ)ん坊(本因坊)」(『前掲書』p19)、そして、「石村けんぎやう(検校)参りつつ、歌のてうし(調子)をあげにけり」(『前掲書』p21=次回後述)などに遭遇し、「扇は五条の俵屋→俵屋宗達」・「囲碁の本因坊算砂」・「三味線の石村検校」の三点セットで、「舟木本」の注文主などと、仮名草子の『竹斎』との記述などと、深い関係にあることが、ややイメージが具体化してきた。
 そして、『竹斎(岩波文庫258-1)』(その翻刻文が「かな書」が主体)で、『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)の、次の冒頭の書き出しで、「舟木本」の注文主などは、「越前福井藩主・松平忠直」周辺というのが、イメージとしては動かし難いものとなってきた。

「天がした穏やかにして山も動ぜず。峰の松平かにして風静かに治まり、国家慶び長き時とかや。」『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)p91

この「峰の松平かにして」は、「徳川氏の本姓松平家」を掛けての用例で、その「松平家」の継承が、「松平忠直」の父の「松平(結城)秀康」(徳川家康の次男)ということに他ならない。
 そして、この「国家慶び長き時とかや」は、「慶長」の年号を掛けての用例で、この「舟木本」の成立時期と深く関わってくる。
 ここらへんは、次回以降詳説して行きたい。 
by yahantei (2021-11-16 16:41) 

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