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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十四) [岩佐又兵衛]

(その二十四) 「九か所の若松:その六: 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇)」周辺など

 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p215-252』の最終章「舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛」で取り上げているのが、次の「九か所の『若松』」の、そのトップの「長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇)」である。 

【 九か所の「若松」

一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

二 六角堂と唐崎神社の若松(左隻第三扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

四 祇園御旅所の右側、当麻寺の隣にある遊女屋の若松(左隻第一扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-24

五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(左隻第一扇~右隻第五・六扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

六 四条河原の能の小屋の若松(※右隻第六扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30

七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋※※西詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-16

九 豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-06               】

(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)・P236-246』、それに触れたアドレスを付記する。※の「左隻」と※※「東詰」の箇所は誤植?→P236)

「雪輪笹紋の町家の裏庭の男」(左隻第五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その一図」

二条通・裏庭の男周辺.jpg

「雪輪笹紋の町家の裏庭の男周辺」(左隻第四・五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その二図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この「雪輪笹紋の町家周辺その一図」と「雪輪笹紋の町家周辺その二図」とに関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』では、次のように記述している。

【 雪輪笹紋の暖簾の町家
 雪輪笹の暖簾が戸口にかかり、水引暖簾に笹紋が三つ描かれて印象的な町家の笹屋は、③の桟瓦葺であった。店内に描かれている箱は呉服を入れる箱のように見えるので、たぶん呉服屋であろう。それはともかく、富裕な商人であることは明瞭だ。しかも、重要な表現が集中している中心軸の二条通に面して描かれている。(以下略)
  杉森哲也の仕事  (省略)
  「呉服所」の笹屋 (省略)
  室町二条上ル町の笹屋半四郎 
(前略) 舟木屏風左隻第四扇の二条通に面している雪輪笹紋の笹屋は、『京羽二重』の笹屋半四郎であると推測したい。(以下略)
  笹屋半四郎と京都所司代板倉勝重
(前略) 「呉服商」笹屋半四郎の祖父か父が、板倉勝重の御用をつとめていたのではないかと推測したい。暖簾の雪輪笹紋や水引暖簾の笹紋は、笹屋半四郎の屋号と合致し、この二条通に描かれた雪輪笹紋の町家は、板倉隠岐守殿の「呉服商」笹谷半四郎の店に「近い」からである。もしも雪輪笹紋の町家が笹屋半四郎の祖父か父の店であり、京都所司代板倉勝重の御用をつとめていた商人なら、舟木屏風における京都所司代板倉勝重や大御所家康の近習筆頭人板倉重昌の描かれ方は、極めて自然に解釈することができる。
(中略) この屏風は、統治する側の視線や関心によって描かれてはいない。この屏風の表現から読み取れるのは、下京に生きる町人たちの姿であり、視線であり、関心対象である。舟木屏風には、町人たちが日々生活し、働いている下京の町と、彼らが出掛けるのを楽しみにしている六条柳町・四条河原・東山の歓楽・遊楽地が描き出されている。左隻に、民事裁判をする勝重、禁裏と公家を統制する勝重、そして近習出頭人となった勝重の次男重昌が、大御所の意思を体現して描かれているとしても、下京はあくまで町人にとって町々として描かれているのである。京都所司代板倉勝重は、下京の法と秩序を維持してくれる存在として描かれているし、大御所家康の近習出頭人板倉重昌も同様である。
 美術史家たちが異口同音に述べているように、この屏風は浮世絵の出発点に位置付けられる作品だ。この屏風の注文主は、やはり、下京の上層町人の一人であろう。
  庭にいる主の姿
 (前略) この笹屋のウラ庭には建物の一角が描かれ、そこには坊主頭の人物が座っている。かれは何をしているのだろうか。小袖の着流し姿で、縁に後ろ手を突いて、静かに木々を見上げている。このような閑居もしくは休息している姿の人物表現は、ここだけである。前述したように、このような姿は、他の洛中洛外図屏風では見たことがない。
  「市中の山居」
 (前略)  雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家は、中心軸となる二条通に面しており、ウラ庭には樹木が茂り、しずかに座って、それを見上げている上層町人の主の姿がある。このようなウラ庭は、特別である。この剃頭の人物は、注文主その人を描いているのではあるまいか。   】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の要点抜粋。)

 この『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』の難点は、そのスタートの「雪輪笹の暖簾が戸口にかかり、水引暖簾に笹紋が三つ描かれて印象的な町家の笹屋は、③の桟瓦葺であった。店内に描かれている箱は呉服を入れる箱のように見えるので、たぶん呉服屋であろう」と、「呉服屋」と特定したところにある。

雪輪笹紋と薬種.jpg

「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店と薬種の店舗」(左隻第四・五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その三図」

 この「雪輪笹紋の町家周辺その三図」は、上記の「雪輪笹紋の町家周辺その二図」の拡大した部分図である。左端が「雪輪笹紋」の暖簾であるが、よく見ると、下に「竹」の節が描かれていて、「雪輪笹竹紋」という感じの暖簾である。
 その右側に「五枚笹紋(下に竹が描かれているかは不明)」が三葉描かれている「水引暖簾」が垂れ下がっていて、その下に、「紙(?)の箱が三個と木(?)の箱が一つと筒(?)」が描かれている(これらは「呉服を入れる箱」なのであろうか?)
 その右側に「薬種(薬屋)の剃髪した男性が一人」と「薬の整理棚」、そして「薬種」と書かれた袋状の看板がぶら下っている。
 これらからすると、この「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店」は、隣りの「薬屋」と一体となっていて、丁度、「医薬業」が、明確に分化される以前の、「医業」が「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店=邸宅」、そして、「薬業」が、隣りの「薬種の看板の店=薬屋」と理解することも可能であろう。
 これらのことに関して、『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 』の、次の記述は参考となる。

【 諸国の名物などを記した寛永十五年(一六三八)序の俳諧書『毛吹草』には、「二条薬種 諸国ヨリ集ルヲ此所ニテ繕出ス」とあり、この付近に薬屋が集まっていたことが知られる。「舟木本」の時に、すでに実態があったのだろう。
 初期洛中洛外図屏風に見られる医薬業として「上杉本」に「竹田ずいちく(端竹)」の屋敷が描かれていたが、門前で待つ人々であらわされているだけで、看板が出ているわけではない。中世の医薬業とは別の、看板を掲げた開かれた薬屋という存在は、新たな近世都市のあり方を象徴しているのかも知れない。 】(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 』P170)

ここに紹介されている「上杉本」周辺については、下記のアドレスが参考となる。

https://artscape.jp/study/art-achive/1207045_1982.html

 そして、その「上杉本」を読み解くためには、次のアドレスの「洛中洛外図の中の京都-都市図としての視点から(鋤柄俊夫稿)」が参考となる。それによると、「※竹田瑞竹(上杉本)三条北室町東」と「※竹田法印(上杉本)錦小路北東洞院東」とは、著名な医師(医薬業)で、「雪輪笹紋の町家周辺その三図」を読み解くための一つの足掛かりとなる。

https://sitereports.nabunken.go.jp/80063

妙覚寺(歴博甲本・上杉本)二条南室町西
二条殿(歴博甲本・上杉本)押小路南室町東
妙顕寺(上杉本)二条南西洞院東
曇華院(歴博甲本・上杉本)三条北東洞院東
※竹田瑞竹(上杉本)三条北室町東
頂法寺(歴博甲本・上杉本)六角北烏丸東
※竹田法印(上杉本)錦小路北東洞院東
萬寿寺(歴博甲本・上杉本)五条南東洞院東
本圀寺(上杉本)六条坊門(現在の五条)南堀川西

 さらに、この「雪輪笹紋の暖簾と笹の水引暖簾」周辺に関しても、下記のアドレスのとおり、「竹・笹紋」の一つで、「竹」は「松竹梅」の「竹」と瑞祥的な「君子の植物」(中国)でもある。そして、「清和源氏義家流の竹谷松平家、深沢松平家、能見松平家、長沢松平家」等々と、この「竹・笹紋」の「松平家」も多い。

https://folklore2017.com/kamon/025.htm

 しかし、この「三藐院ファンタジー」では、「舟木本」の注文主は「松平忠直」周辺としており、その徳川家康の次男「結城秀康」の嫡男「松平忠直」は、下記のアドレスによると、父・結城秀康からはじまる「越前松平家」の「結城巴」で、さらに、徳川家の一族のみが使用できる「丸に三つ葉葵」も許容されていたようで、この「竹・笹紋」ではない。

https://kisetsumimiyori.com/tadanao/#i-6

 ここで、冒頭の「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』では、「雪輪笹紋の笹屋の、『京羽二重』の笹屋半四郎」周辺とする、この人物を、これまでの「三藐院ファンタジー」の視点から、どのように解するかについては、ずばり、仮名草子『竹斎』のモデルの一人と目せられている、その『竹斎』の作者「磯田道冶(別に富山道冶=野間光辰説)」の、医薬業の師の「曲直瀬玄朔」(下記のとおり)周辺と解したい。(『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)p15-17)

【曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)
没年:寛永8.12.10(1632.1.31)
生年:天文18(1549)
安土桃山時代,江戸前期の医者。幼名は大力之助,名は正紹、号は東井、通称は玄朔のち道三(2代)を襲名、院号は延命院、延寿院。初代道三の妹の子として京都に生まれる。幼くして両親を失い道三に養育され、天正9(1581)年にその孫娘を娶って養嗣子となり道三流医学を皆伝された。法眼から法印に進み、豊臣秀吉の番医制に組み込まれて関白秀次の診療にも当たった。文禄4(1595)年の秀次切腹に連座して常陸国(茨城県)に流され、のち赦免されて帰京し朝廷への再出仕も許された。徳川家康・秀忠に仕え江戸邸と麻生(港区)に薬園地を与えられた。江戸で没し、薬園地に生前建てていた瑞泉山祥雲寺(のち渋谷へ移転)に葬られた。初代道三の選した著作を校訂増補して道三流医学の普及をはかり、野間玄琢、井上玄徹、饗庭東庵らのすぐれた門弟を輩出させて初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。<著作>『済民記』『延寿撮要』『薬性能毒』<参考文献>宮本義己「豊臣政権の番医」(『国史学』133号) (宗田一)  】(出典 朝日日本歴史人物事典)

そして、この「雪輪笹紋の暖簾と笹の水引暖簾」の邸宅は、その「曲直瀬玄朔」の義父の「曲直瀬道三」の、その院号の「翠竹院」に因み「翠竹庵」ということになる。因みに、その院号は、「1574年(天正2)『啓迪集』8巻を撰述(せんじゅつ)して正親町(おおぎまち)天皇に献上し、翠竹院の院号を賜った」との、由緒のあるものなのである。

【 曲直瀬道三(まなせ・どうさん (1507―1594)
戦国時代の医師。永正(えいしょう)4年京都に生まれる。名は正盛(まさもり)また正慶(まさよし)とも称し、字(あざな)は一渓(いっけい)、号は雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁(こうせいおう)、寧固(ねいこ)、院号は翠竹院(すいちくいん)のちに亨徳院(こうとくいん)。1528年(享禄1)足利(あしかが)学校に学び、田代三喜(たしろさんき)について李朱(りしゅ)医学を修め、1545年(天文14)京都に帰り、将軍足利義輝(よしてる)、細川晴元、三好長慶(みよしながよし)、松永久秀(ひさひで)らの厚遇を受け、学舎啓迪院(けいてきいん)を創立して門人を養成、1574年(天正2)『啓迪集』8巻を撰述(せんじゅつ)して正親町(おおぎまち)天皇に献上し、翠竹院の院号を賜った。道三の名は全国に知れ渡り、織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康らにも重んじられ、日本医学中興の祖と称されるようになった。文禄(ぶんろく)3年没。享年88。著書には前述の『啓迪集』をはじめ、『雲陣夜話』『薬性能毒』『切紙』『診脈口伝集』『百腹図説』などがある。なお、2代曲直瀬道三は甥(おい)の玄朔(げんさく)(1549―1631)が継いで活躍、『医学天正記(いがくてんしょうき)』はその著である。[矢数道明]  】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

曲直瀬道朔.jpg

「曲直瀬玄朔像」元和九年(一六二三)/自賛/紙本着色/一幅
http://ikr031.i-kyushu.or.jp/sp/exhibition/542/
【江戸初期に将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)に侍医として仕えた曲直瀬玄朔(まなせげんさく)(1549~1631)の肖像(12)には、門下生の玄春(げんしゅん)の求めに応じて書いたという自賛があり、師弟関係の中で作られたことがわかります。画中には寛(くつろ)いだ様子で長椅子に坐る老医師の姿が描かれていますが、同様の構図は禅僧の肖像(頂相(ちんそう))にも類例があることから、この作品は卒業の証(あかし)として師から弟子へ渡す印可状(いんがじょう)のような意味を持っていたと言えそうです。】(解説「福岡市博物館」)

 上記の「『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の要点抜粋」の「市中の山居」の、その「雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家は、中心軸となる二条通に面しており、ウラ庭には樹木が茂り、しずかに座って、それを見上げている上層町人の主の姿がある。このようなウラ庭は、特別である。この剃頭の人物は、注文主その人を描いているのではあるまいか」の、「ウラ庭には樹木が茂り」に関して、下記の「参考」に出てくる、烏山光広とも親交の深い公家(「医薬業」に明るい)の「西洞院時慶」の庭には、主に薬用に使われる樹木・草花の類など六十余種以上も、その「時慶卿記」に記されていることが、下記のアドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」で紹介されている。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249507/1/shirin_043_4_627.pdf

「松・杉・樫・※梅(鶯宿梅)・桃・椿(白椿)・柿・桜・梨・楊梅・久年母(橘)・※蜜柑・※柚・金柑・躑躅(紅と白)・木瓜・木蓮・※山椒・石榴・白芷(はなうど)・漆・南天・藤(白と紫)・葡萄・孟宗竹・蘇鉄・芭蕉・葵(白)・※芍薬(紅と白)・牡丹・山吹・芙蓉(白)・※薄荷・白玉草・竜胆・紫蘭・蘭・石竹・撫子・疑冬(ふき)・白萩・百合・※薤(にら)・菊・夏菊・南蛮菊・桜草・※香需(こうじゅ)・木槿(白)・紫陽花・益母草(めはじき)・鉄線花(白)・罌麦(おうばく)・金銭草・鳳輦草(ほうれんそう)・慈姑(くわい)・水仙・赤蒲公草・桔梗(白)・鳳仙花・仙翁花(せんのうけ)・鴛鴦花・鶏冠花・茄子・紫蘇・※括楼根(からすうり)」(※印は薬用:出典「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」)

 「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の、「雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家のウラ庭」には、これらの樹木・草花が植えられていたのであろう。そして、そのウラ庭の、桟瓦葺の立派な蔵は、「薬品・薬草」などの貯蔵庫のように思われる。
 そして、「『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の「市中の山居」に続いて、「気になる筆致」という見出しで、次のように記述されている。

【 しかも、気になるのはその筆致である。この人物は抑揚のある(ないしは肥痩のある)線で、ササっと描かれている。この筆致の違いがとても気になる。左右両隻で、この人物の筆致だけが特別なのだ。もしかすると、この剃頭の人物を描くにあたっては、注文主と岩佐又兵衛との間に何らかのやりとりがあったのではあるまいか。これ以上は書かないが、この剃頭の人物が注文主さの人なのではないかと思う理由の一つである。 】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収「気になる筆致p231-232」)

この「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」と、天正十四年(一五八六)に法眼から法印に進み延命院の号を賜り、のちに慶長二年(一五九七)に延寿院と改号している「曲直瀬玄朔」(上記の「曲直瀬玄朔像」)とを相互に見比べていると、「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」は、この「豊臣秀吉・関白秀次・徳川家康・秀忠そして後陽成天皇の診療に当った『日本医学中興の祖』の曲直瀬玄朔」その人、若しくは、その周辺ということは、「三藐院ファンタジー」の謎解きとしては、徐々に動かし難いものとなってきている。さらに、この「曲直瀬玄朔」(上記の「曲直瀬玄朔像」)と、下記の「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」とも、極めて親近感のある二枚の肖像画という思いが去来する。

岩瀬又兵衛.jpg

「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」(ウィキペディア)
(「又兵衛の子孫に伝わった自画像。原本ではなく写し、あるいは弟子の筆と見る意見もある。岩佐家では又兵衛の命日にこれを掛けて供養したという」―『別冊太陽247 岩佐又兵衛』 所収「岩佐又兵衛の生涯(畠山浩一)」)

(参考)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-18

夢想(之連歌)  来(慶長九年=一六〇四・一月?)二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久=前久(龍山=山=瑞久?)」
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉=「信尹(杉=三木)」 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶=「時慶(西洞院)」
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆=(滋野井冬隆)
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌=「松梅院禅昌」
六    あたりの原はふかき夕露    時直=「時直(西洞院)」
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢=(里村昌啄)
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全=(施薬院全宗か?)

 前回、上記の「夢想連歌」を、「(慶長九年=一六〇四・一月)二十三日」の作と推定したのだが(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房)』)、
その推定年次よりも、この書状は三年前のものということになる。
 そして、この両者(「書状」と「夢想連歌」)を相互に見て行くと、「前久・信尹」親子と「時慶・時直」親子とは、「前久」の時代から「側近」の関係というよりも、「主従」関係に近いような深い関係にあったことが伺われる。
 この書状の文中の「源氏(『源氏物語』)」に関連して、下記のアドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」(p131-132)に、「慶長七年(一六〇二)より近衛家では源氏の講義が始められた。時慶始め小寺如水・神光院・松梅院・妙法院・曲直瀬正彬の顔ぶれで、始めの頃は昌叱が読み役になっていた」との記述がある。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/249507

 この記述中の「時慶=西洞院時慶、松梅院=松梅院禅昌、昌叱=里村昌琢の義父」と、「夢想連歌」の連衆と同一メンバーの顔ぶれが似通っていることが伺える。
 ここに出てくる「妙法院」は「妙法院常胤法親王」、「小寺如水」は「黒田如水=黒田官兵衛」、「曲直瀬正彬=曲直瀬道三に連なる医師=道三の孫娘が妻」、「神光院=醍醐寺三宝院・
義演に連なる住職?)などで、「近衛家」と関係の深い面々のように思われる。
 また、「夢想連歌」の連衆のうちの「宗全」については、「宗祇・宗長に連なる連歌師か?」と前回記述したが、「玄朔(曲直瀬道三)には秦宗巴・施薬院全宗・曲直瀬正彬・同正純など多士済々」(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P30))との記述の「施薬院全宗か?」と疑問符を付したものを、一応の解として置きたい。

【施薬院全宗(せやくいん-ぜんそう)
没年:慶長4.12.10(1600.1.25)
生年:大永6(1526)
戦国・安土桃山時代の医者。本姓は丹波、号は徳運軒、近江国(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼くして父を失い比叡山薬樹院の住持となる。織田信長の叡山攻め後に還俗して曲直瀬道三の門に入り、医を学んで豊臣秀吉の侍医となり、施薬院の旧制を復興、京都御所の一画(烏丸一条通下ル中立売御門北側)に施薬院を建て、施薬院使に任ぜられて、庶民の救療に当たった。子孫は施薬院を家姓とした。秀吉の側衆としても重用され政治にも参画した。京都で没し比叡山に葬られたが、現在は施薬院家代々の葬地十念寺(京都市上京区)に墓がある。<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史』(宗田一) 】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 因みに、「西洞院時慶」自身が、「医者としては曲直瀬道三と親交があり」((『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P28)))と、近衛家周辺としては、医師としての「医療的活動」もしていたようである(村山『前掲書』p26-28)。

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yahantei

「三藐院ファンタジー」というのは、上記の「夢想(之連歌)」の、「杉」=「信尹(杉=三木)」の「近衛信尹」と関係の深い「源氏物語画帖」の頃からの、その折り触発された「仮説」ということで、この「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索」は、その続きということになる。

夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久=前久(龍山=山=瑞久?)」
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉=「信尹(杉=三木)」 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶=「時慶(西洞院)」
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆=(滋野井冬隆)
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌=「松梅院禅昌」
六    あたりの原はふかき夕露    時直=「時直(西洞院)」
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢=(里村昌啄)
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全=(施薬院全宗か?)

 ここに出てくる連衆(メンバー)は、ことごとく、「源氏物語画帖」そして「舟木本」(背景)を読み解くための、キィワードになる人物群像ということになる。
 その折りに記した、《「夢想連歌」の連衆のうちの「宗全」については、「宗祇・宗長に連なる連歌師か?」と前回記述したが、「玄朔(曲直瀬道三)には秦宗巴・施薬院全宗・曲直瀬正彬・同正純など多士済々」(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P30))との記述の「施薬院全宗か?」と疑問符を付したものを、一応の解として置きたい。》と、この「道三・玄朔」周辺というのは、「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」時代の、その背景に横たわっていて、「公家・武家・僧侶・神官、町衆」の全てに情報網を有している、そのキーパーソンとなるものとして「医師・医薬業」の、ここにも焦点を当てたいというのが、この記述の背景にある。
 しかし、「舟木本」の注文主は、この「曲直瀬道三・玄朔」周辺と「烏丸光広・鶴姫(結城秀康未亡人・後に光広正室)」と「結城秀康・松平忠直・忠昌そして長勝院(徳川家康の側室。物部姓永見氏の娘。通称おこちゃ、於万の方、小督局とも。結城秀康の生母)」との、このトライアングルの中にあるのかも知れない。


 

by yahantei (2021-11-25 17:36) 

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