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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その七) [狩野内膳]

(その七)「サンタマリア号」(Santa Maria Go)と「デウス号」(Deus Go)周辺

右隻・サンタマリア号.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・「サンタマリア号」(Santa Maria Go)(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「三 サンタマリア号」で、次のように記している。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

【 南蛮屏風に描かれた船の船印には、白旗・金紋入りの彩色された旗・十字およびその変形の書き入れられた旗など多種あるが、その内膳屏風は赤旗・緑旗・緑縁(ふち)の赤旗を含めて華麗精緻である。そのうち最も注目されるのが、右隻中央マストに取り付けられたベールをかぶり十字架を抱いた人物像(緑地に金線で描かれている)である。目鼻を一見しただけでは、男女の判別はしがたい。なぜなら、同じ右隻に描かれた南蛮寺(キリシタンの教会、エケレジャ)の祭壇に置かれたデウス像を被っているし、左隻に描かれた異国を出航せんとする黒船の船尾ポールにあげられた旗のデウス像もベールをかぶっているのである。しかも、このデウスは、右隻の人物と同じく十字架を抱いている。    
 しかし、注意して細部をすると観察すると、左隻のデウスは、口ひげ・あごひげ・頬ひげを持っていることが判明する。右隻祭壇のデウスにも、口ひげ、あごひげがあった。また、左隻の異国の教会における祭壇のデウス絵像も口ひげ・あごひげを有し、正面玄関のレリーフに描かれた十字架を担ったデウスも、横顔であるがあごひげをたくわえている。
 すると、ひげのない中央マストの人物は女性と考えねばならない。聖母マリアである。したがって、この船の名は、サンタ・マリア号となる。 】

右隻中央マストの旗.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・「サンタマリア号の中央マストの旗」(第五・六扇拡大図)

 この「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の「二 茫々たる巨海に船渡りして」には、次のような記述がある。

【 左隻は外国(ポルトガルの植民地ゴアかマラッカが想定される)の港、右隻は日本(おそらく長崎)の港が臨まれ、雲・空を象徴する金泥と土坡(陸地)を象徴する金泥に囲まれた紺碧の海は一つに繋がっており、大航海時代の感覚にふさわしい。思想的には世界図屏風と同じものを見出すことができる。左隻における出航の波もそれほど高くなく、右隻における入港の海はおだやかに凪いでいる。順風満帆の船出(左隻)、無事なる入港(右隻)、馬や人々のしぐさに軽やかな流れがあっても、両隻には静かな時が刻まれている。しかし、一双を立て並べた時存在する物理的なはざまに、作者は海難の危機に満ちた航海を暗示し、生命を賭けた宣教師の布教活動(一歩譲って、カピタンの真摯な商業活動と勇気)へのすなおな敬意を示している。 】

サンタマリア号.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・「デウス号」(Deus Go)(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の「二 茫々たる巨海に船渡りして」の中に、この見出しの「茫々たる巨海に船渡りして」の原典(1592年天草刊『ヘイケ物語』不干ハビアン自序より。原文ローマ字)の一節が引用されている。

【 それIESVSのCompanhiaのPadre Irmam(注・「それイエズス会の宣教師・修道士たちは」の意?)
故郷を去って蒼波万里(そうはばんり)を遠しとし給わず、茫々たる巨海(こかい)に船渡(ふなわた)りして粟散辺地(そくさんへんち)の扶桑に跡を留め,天の御法(みのり)を広め,迷える衆生(しゆじやう)を導かんと精誠(せいぜい)を抜きん出給うこと切(せつ)なり。 】

 この『天草版平家物語』(不干ハビアン著)の「翻字本文(「国立国語研究所機関拠点型基幹研究プロジェクト」作成)が、下記のアドレスで公開されている。

https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/amhk/

 また、この『天草版平家物語』の著者(不干ハビアン)については、下記のアドレスの「釈 徹宗 (2009) 不干斎ハビアン」が参考となる。

http://macroscope.world.coocan.jp/yukukawa/?p=2242

【 (抜粋)

Fucan Fabianのもともとの名まえはよくわかっていないので、ここではFucanと書くことにする。Fucan (1565ごろ-1621)は、1605年には他の宗教を批判しキリスト教を勧める本「妙貞問答」を書き、その後、キリスト教を捨てて、1620年にキリスト教を批判する本「破提宇子」(釈徹宗氏は「ハ・ダイウス」と読む。「提宇子」はDeusつまりキリスト教の神をさす)を書いた人なのだ。当然、両者の結論は正反対なので、どちらか一方の時期のFucanを高く評価する人の多くは、他方の時期を低く評価する。しかし、釈徹宗氏は、両者の本の共通点に注目する。前者で仏教・神道・儒教を批判したのと同じ観点をキリスト教に対しても貫いたのが後者なのだ。そのような過程を通じて、Fucanは、おそらく世界最初の、複数の宗教を相対化して論じる視点をもった人、いわば比較宗教学者になったのだ。

Fucanは京都のキリスト教会では教義問答の論客として知られ、教育活動もしていたのだが、バテレン(英語でいえばfather)ではなくイルマン(brother)にすぎなかった。釈徹宗氏は、教会内での西洋人と現地人の間の差別があったと見る。そしてそれがFucanがキリスト教を捨てた動機だったのかもしれない(いくつもの可能性のひとつ)と推測する。しかし教会幹部から見れば、Fucanは理屈はたつが信仰が深くないと見えたかもしれないし、組織をまかせるだけの信頼ができないと見えたかもしれない。その後の行動から見れば、それはあたっていたことになるだろう。

「妙貞問答」でキリスト教がすぐれているとされたのは唯一神信仰だからであって、キリストは話題になっていない。「破提宇子」では三位一体論が批判されている。キリシタンの組織にいたときからFucanはキリストへの信仰には納得していなかったのではないだろうか。もしキリストぬきの純粋な唯一神信仰の宗教があったら、納得していただろうか。 】

`左隻・デウス号の旗.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・「デウス号の後方マストの旗」(第二扇拡大図)

 外国(ポルトガルの植民地ゴアかマラッカが想定される)の港から出航する、この「デウス号」(Deus Go)の後方マストに掲げられている旗に描かれている人物は「デウス」(Deus)である。
 この「デウス」(Deus)とは、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」が描かれた同時代の「不干ファビアン」著の、その「キリスト教を批判する本『破提宇子』(ハ・ダイウス)」では、「提宇子」との漢字表記をされる、「キリスト教の『三位一体説(論)=創造主としての父である神と、贖罪者として世にあらわれた神の子キリストと、両者の一致と交わりとしての聖霊とが、唯一の神の三つの位格(ペルソナ)として現われたものであるとする説』の、その「創造主としての父である神=「デウス」(Deus)」ということになる。
 この分かりづらい「三位一体説(論)=『創造主としての父である神と、贖罪者として世にあらわれた神の子キリストと、両者の一致と交わりとしての聖霊とが、唯一の神の三つの位格(ペルソナ)として現われたものであるとする説』(『精選版 日本国語大辞典』)「については、「不干ファビアン」著の、その『破提宇子』(ハ・ダイウス)で、痛烈な批判をしているのだが、それらについては、下記のアドレスの、「不干齋ハビアン(1)の教理理解―『妙貞問答』と『破提宇子』の神観をてがかりとして―(小室尚子稿)」が参考となる。

https://core.ac.uk/download/pdf/230558889.pdf

グレコ・聖母の戴冠式.jpg

グレコ El Greco,(1541 - 1614),クレタ島出身のギリシャ人画家(ルネサンス期)
『聖母戴冠』 (1591) スペイン,トレド,サンタ・クルス美術館
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/El_Greco_-_The_Coronation_of_the_Virgin_-_WGA10495.jpg/400px-El_Greco_-_The_Coronation_of_the_Virgin_-_WGA10495.jpg

 このグレコの「聖母戴冠」の絵図では、中央の「聖母マリア→マリア=(Maria)」を挟んで、左側の人物が「子なる神(イエス・キリスト)→イエズス=(Jesu Christo)=ラテン語: FILIUS est DEUS, 英語: The Son is God」、右側の人物が「父なる神(創造主)→デウス=(Deus)=ラテン語: PATER est DEUS, 英語: The Father is God」、そして、中央の鳩が「御霊なる神(聖霊)=ラテン語: SPIRITUS SANCTUS est DEUS, 英語: The Holy Spirit is God」
ということになる。

 そして、「被昇天の聖母教会」の、「被昇天の聖母」は、グレコの作品ですると、次のものなどが挙げられる。

グレコ・聖母被昇天.jpg

グレコ El Greco,『聖母被昇天』 (1577 - 1579)  USA,シカゴ,シカゴ美術館
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Domenikos_Theotok%C3%B3poulos,_called_El_Greco_-_The_Assumption_of_the_Virgin_-_Google_Art_Project.jpg

 「聖母被昇天」とは、「聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝日(8月15日)のこと」を指している(「ウィキペディア」)。
 そして、その「聖母被昇天の祝日」の「八月十五日」には、「キリシタン(キリスト教)の日本伝来」と密接不可分の、次の三つの事項(「ウィキペディア」)を暗示しているようなのである。

〇 イエズス会結成(1534年)
〇 フランシスコ・ザビエルら、日本到着(1549年)
〇 イエズス会が京都に建設した聖母被昇天教会、通称「都の南蛮寺」の献堂ミサが行われる(1576年)

リスボン美術館蔵・南蛮屏風 .jpg

リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風(部分)→「ウィキペディア」(南蛮寺) 
南蛮寺址、京都市中京区蛸薬師通室町西入北側→「ウィキペディア」(南蛮寺) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E5%AF%BA#%E9%83%BD%E3%81%AE%E5%8D%97%E8%9B%AE%E5%AF%BA%EF%BC%881576%E5%B9%B4%EF%BC%89

【 都の南蛮寺(1576年)

 都の南蛮寺建設の経緯は、ルイス・フロイスが1577年9月19日付で臼杵から発信した書簡に詳述されている。

 イエズス会が以前から京に建てていた教会堂が老朽化したため、1575年宣教師たちの協議の結果再建が決定した。当初は仏教の廃寺の建材を流用することが意図されたが、価格面で折り合いがつかず、新たに建てることとなった。オルガンティノが指揮を取った教会堂の建設に当たっては、高山図書(ずしょ、洗礼名ダリオ)をはじめとする畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられ、寄進とイエズス会の出費をあわせた総工費は約3,000クルザードに達し、当時日本に建てられた教会堂でも最大級の規模のものとなった。

 都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」であり、献堂ミサも会堂の落成に先立つ1576年8月15日(聖母被昇天の祝日)に行われた。教会堂の所在地は中京区姥柳町蛸薬師通室町西入ル付近と推定される。その後1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令後に破壊された。

 この教会堂は、狩野宗秀筆の扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」によって、建物を特定した絵画資料が残る唯一の例である。同図から以下のことが推測できる。

木造瓦葺、3層楼閣風の建物である。
屋根は最上層が入母屋造、1,2層は寄棟造。
2層の周囲には見晴らし用の廊下と手すりが配されている。
同時期の南蛮屏風の描写では屋根の上に十字架と思しきものが描きこまれるが、この扇面図では省略されている。
1層の細部や内部については扇面図からは不明だが、上記フロイスの書簡には以下のような記事が見られる[11]。

キリシタンの身分ある女性が畳100畳を寄進したこと。
京の職人の水準の高さへの言及。
「イタリア人のオルガンティーノ師の建築上の工夫」への言及。
以上のことから、日本人大工・職人の手による和風を基本としながら、ヨーロッパ特にイタリアの建築様式やキリスト教に関連するモチーフが加味されたものと推測される。 】
→「ウィキペディア」(南蛮寺) 

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・娘の亀・フランシスコ会員・イエズス会員)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 ここでは、「リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風」や「都の南蛮寺(サンタ・マリア御昇天の寺=珊太満利亜御上人の寺=伴天連寺)」などに関しては後述することにして、上記の
「狩野内膳筆『南蛮屏風』」の「右隻」に描かれた「日本人として描かれた唯一の女性(さがり藤を染め上げた暖簾脇の女性)」(『キリシタン千利休(山田無庵著・河出書房新社)』では「千利休の娘・お亀」に見立てられている女性)の、その「右足の足首が描かれていない」のは、「聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという」=「聖母の被昇天」を意味するものとして理解をいたしたい。
 そして、それは、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」の「左隻」に描かれた「外国(ポルトガルの植民地ゴアかマラッカが想定される)の港から出航する『デウス号』(Deus Go)」が、その「右隻」の日本の港(「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」では「長崎」を想定している)に入港すると、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)に様変わりすることと大きく関係しているように理解をいたしたい。
 すなわち、外国 (「イエズス会「の創立者の一人の「フランシスコ・ザビエル」の「世界宣教」を布教せんと出航した異国の地)から、天文十八年(一五四九)八月十五日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、日本の薩摩半島の坊津(現在の鹿児島市祇園之洲町)に来着したとき、「怒れり父の神の『デウス(Deus)』、そして、「その父(Deus)の子たる神の『十字架を背負って殉教した『イエズス=(Jesu Christo)=イエス・キリスト』、そして、その『聖霊(DeusとJesu Christoとの『御霊なる神』)が、「神ではない『父たる神・子たる神・御霊なる神』ではない」、その「子たる神」の母なる「受胎告知をした『聖母マリア』」信仰へと、変身を遂げていることを象徴しているように理解をしたいのである。
 そして、それらのことを、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」では、その冒頭に、英文で綴っている。それらを再掲して置きたい。

【 (再掲)

Kano Naizen (1570~1616) painted Namban Screens which are now in the possession of the Kobe-City Museum. In this paper I try to compare these Namban Screens with the early Christian literature and Arts in Japan. I find several religious points symbolized by Kano Naizen. The results obtained are as follows : (1)The name of one ship painted on the right screen is Santa Maria Go (サンタ・マリア号), the other ship painted on the left screen is Deus Go (デウス号).(2)The name of an Ecclesia (chapel) painted on the right screen is Assumptio Beatae Mariae Virginis (被昇天の聖母教会), another chapel name painted on the left screen Is Deus (デウス寺).(3)The three persons painted on left screen are Deus Padre Deus Filho (Jesu Christo), and Maria. In other words, the three figures in an exotic church are the Holy Family.(4)On the right screen, a woman who stands by a shop curtain (Noren) and a boy who leads the way are mother and son. They symbolize Maria and Jesu in this world. Naizen was not a Christian, but he was friendly forwards Christian religion and produced a holy work of art.

 (上記「英文」の意訳=未整理)

狩野内膳(1570〜1616)は、現在神戸市立博物館が所蔵している南蛮屏風を描いた。この論稿は、この南蛮屏風を、日本の初期のキリスト教文学や芸術との関連で鑑賞したい。
その狩野内膳の、この南蛮屏風に象徴される宗教的なポイント(宗教性の要点)は、次のとおりとなる。

(1)右隻画面に描かれている船の名前は、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)、左隻画面に描かれている船の名前は、「デウス号」(Deus Go)である。

(2)右隻の画面に描かれている教会(南蛮寺)の名前は、「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)、左隻の画面に描かれている異国の教会(南蛮寺)の名前は、「デウス寺」(Deus)である。

(3)左隻に描かれている三人の画面は、「デウス パドレー」(DeusPadre)、「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)と「マリア」(Maria)である。言い換えれば、エキゾチックな教会(異国の南蛮寺)の三人の人物は、「聖家族(デウス、イエズス、マリア)」ということになる。

(4)右隻の画面では、店の暖簾のそばに立つ女性と、道を先導する少年とは、母と子である。そして、その母と子との関係は、「マリアとイエズス」との関係を象徴しているということになる。 】

(追記一)「都の南蛮寺」

http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/files/e291aee382a2e383a9e382abe383abe38388e38080e58fb3e8bf91e381a8e983bde381aee58d97e89baee5afbae38080.pdf


 (父ダリオの大活躍)
・1576年、聖母被昇天の8月15日、未完成であったが、落成式を行った 被昇天の聖母教会と名付けられた。ダリオは妻子、親族、及び200名以上とともに来訪し、家族共に告白し多数の人が聖体拝領した。教会が落成すると見物しようと数えきれな人々が押し寄せ、説教が度々行われ、信仰が広まった。
・教会は大きくないが、大変技巧をこらし、丁寧にこぎれいにつくられて、洗練された熟達した石細工と木の細工が施され、教会の上には非常に美しい部屋6室からなる二階が造られた。それは全方角から市内を見渡すことができ、屋根に十字架を頂いた外観は和風の3階建で、オルガンティーノ神父が設計に関わった。
(南蛮寺の場所と都における最初の布教拠点の略図) 
(京都南蛮寺建設、オルガンティーノ神父による摂津・河内の信仰隆盛)
(都地区の布教の変遷)
・1555年 ヴィレラ神父来日
・1556年 トルレス神父ロレンソを都に派遣 比叡山の允許失敗 
・1559年 ヴィレラ神父入京 比叡山の允許失敗
・1560年 ロレンソ修道士入会  ヴィレラ神父、ロレンソ修道士による布教 都での布教許可  大  
     和国・河内国・摂津国等巡回布教 
・1561年 ヴィレラ神父布教拠点を堺に移す
・1562年 ヴィレラ神父都に戻る 姥柳町の仏僧の持家を手に入れる 以後約15年間ここが都の布
     教拠点となる 都で初めての降誕祭には約100名の信徒が集まった 
・1563年 宗論(ロレンソ修道士と結城山城守と清原外記の宗論) 結城・清原の受洗
     大和沢城にいた右近の父ダリオが受洗し、翌年その家族等も受洗 結城氏が仕える三好家の
     飯盛城下では、約70人の家臣が受洗し、続いて三箇氏とその家臣等の大勢の者が受洗し、
     いわゆる河内のキリシタンが誕生する その後順調に布教は進展していく
・1565年 ・フロイス神父豊後から堺へ上陸 上洛 都の布教責任者となる1563年 フロイス来
      日) 
・アルメイダと畿内巡回 (フロイスは、まだ、日本語が未熟で、ヴィレラがいることが必要
      ・将軍義輝弑逆(しぎゃく) 7月内裏による都から宣教師退去命令によりフロイス堺に避
      難 堺を中心に布教
  ・1566年 ヴィレラ神父堺から豊後府内へ去る 長崎へ向かい諸聖人教会を創設
  ・1568年 信長上洛        
  ・1569年 フロイス堺から都に戻る
  ・1570年 オルガンティーノ神父来日 入京        
  ・1570年~1576年:フロイス神父とオルガンティーノ神父による布教
  ・1572年 日本布教長カプラルの都巡見 岐阜で信長と会見 歓待される
  ・1573年 信長、将軍義昭を追放
  ・1574年 カプラル畿内巡見 高槻訪問 高槻に教会が建設され、布教が進展する
  ・1575年 南蛮寺建設計画 1576年完成
  ・1577年~オルガンティーノ神父による布教

(建設に至るまでの経過)
(完成までの経過)  
(キリスト教が邪教であること主張するためつくられた江戸時代の読み物、「南蛮寺興廃記」が記す南蛮寺)
【オルガンティーノ神父について】 (オルガンティーノ神父の日本人観) (日本巡察記 P291)
【日本に最初にキリスト教を伝えたザビエルの日本人観】
【巡察師ヴァリニャーノの都地区の重要性に関する記述(「日本諸事要録」で第11章)
 巡察師ヴァリニャーノの「日本諸事要録」における日本布教の原則
(追記二)空気を読む「宗教」とキリスト者:山本七平の「日本教」再考(深谷潤稿)

http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/1623/hs-n14v1-p41-56-fuk.pdf?sequence=1&isAllowed=y

(追記三)母性原理と父性原理の考察 -日本の将来像を求めて(田辺祐介稿)

https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/01/veritas12-08.pdf

(追記四)日本文化の母性原理的な性格とその意味(石井登稿)

(追記五)日本社会における「父性原理」再考(窪龍子稿)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005553413
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